ストーカーキューピット

6. ごめんなさい(最終話)

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「逢坂です。失礼します」

 ノックをし、重いドアを開けると、室内には社長と上奥、それから良がいた。
 開いたドアに視線を注ぐように、逢坂に視線が送られる。

「……うしおを返せ」

 ぽつり、小さく呟いたかと思えば、次の瞬間、逢坂は背中に強い衝撃と息苦しさを感じた。首元を締め上げられている。
 それを慌てて、上奥が止めに入るが、社長はわたわたと見ているだけだった。

「おまえが監禁してるんだろ? うしおを返せよっ」

 返せよ、ともう一度呟いた声は、震えていた。

 やり方は到底、褒められたものではないが、この男はこの男で、きっと真剣にうしおのことを愛しているのだろう。
 だからといって、逢坂も引くつもりはない。

「人聞きの悪いことをおっしゃらないでいただきたい。及川を拉致して監禁したのは、そちらでしょう?」

 逢坂の言葉に青くなったのは、社長である。
 今までさんざん信用してきた良とは逆の言葉が、逢坂の口から発せられたからだ。

 良は歯痒そうに唇を噛む。今にも襲いかからんばかりの表情で、逢坂を睨んでいる。

「僕は、うしおの婚約者だ。婚約者を家に連れて帰って、なにが悪い!?」

 勢いよく怒りに震えながら眞山が言うことに、逢坂は息を吐き出した。どこまで本気で言っているのだろうか。

「及川には、そのつもりはないようでしたが」

「……っ、でも、うしおが言ったんだ。僕のお嫁さんになってくれるって! 指切りまでして、約束してくれたんだっ」

 だから、うしおは僕の婚約者なんだ。

 そう涙目で訴える良に、おい、及川、と不在の汐を睨みつけたくなった。そんな話は聞いていないぞ、と。

「失礼ですが、それはいつ頃のお約束ですか?」

「……6歳のとき」

 驚いた。良は、そんなに前にした約束を、ずっと信じていたんだ。ひたすら純粋に、汐のことだけを思って、ずっと時を過ごしてきたのだろう。

「18年前、両親の離婚で引っ越しをするときに、うしおと離れたくなくて、なにか約束が欲しくて、お嫁さんになって欲しいって言ったら、いいよって言ってくれたんだ」

 ずず、と鼻を啜る音がする。
 当時を思い返しているのか、今ここに不在の汐が覚えていなかったことを嘆いているのか。

「引っ越してからも、僕はうしおとの約束を忘れたことなんてなかった。母さんが再婚して、眞山の跡取りになることが決まっても。いつかうしおを迎えに行くんだって、それだけを支えに生きてきたんだ」

 だから、周りに文句を言われないよう、人一倍努力した。眞山の本当の子供であれば言われなかったであろう陰口にも耐えて、必死に食らいついてきた。
 そんな良にしてみれば、汐の行為は、裏切りでしかなかったかもしれない。

 けれど。

「……専務の思いを知らない及川にしたら、専務の行為は恐怖でしかなかった」

 逢坂の言葉に、良は眉を寄せる。

「見えない恐怖に怯えていた及川の気持ちが、あなたにわかりますか?」

 荒らされた家を外から睨むように見上げ、悔しそうに涙を流していた汐を、逢坂は知っている。本当に汐を愛していたのなら、絶対にするべきことではなかった。

 うるさい、と良が小さく声を漏らした。その肩は、小刻みに震えている。

「あなたは、順番を間違えたんです」

「──うるさいっ!!」

 カッと目を見開いた良が、逢坂に向かってくる。首元を掴まれたまま、どん、と壁際に押しやられた。

「うるさい、うるさい、うるさい、うるさい……っ」

 はぁ、と大きく息を吐き出して、良は逢坂を見る。

「おまえになにがわかる!? うしおの様子を見るだけで満足していた僕の前に急に現れてうしおを連れて行ったおまえに、僕のなにがわかる!?」

「わからねぇし、わかりたくもねーよ!」

「……っ」

 それまで静かに言葉を発していた逢坂が、初めて声を大にした。びくっと肩を竦ませた良は、そのままぺたりと尻をつけるとぼろぼろと涙を流し始めた。

「どれだけ及川を思っていようと、あなたがしたことは犯罪だ」

「……」

 うう、と嗚咽を漏らしながら、良は床を殴る。悔しそうに、何度も何度も。

 そのとき、徐にドアが開き始めた。ぎぃ、と重い音をさせてドアが開かれていくのに視線を向ける。

「……うしお」

 開かれたドアの先には、克己に寄りかかるようにして、申し訳なさそうに眉を下げた汐が立っていた。

「良ちゃん、ごめん……っ」

 汐は痛む足を引きずりながら良に駆け寄ると、ごめんね、と何度も謝罪の言葉を口にした。


 逢坂の家まで汐を迎えに行った克己は、汐を投げ込むようにタクシーに乗せ、会社に戻ってきた。
 受付には神楽坂が待機しており、3人で社長室に向かった。そうして部屋の中から聞こえてくる声を、部屋の外で聞いていたのである。


 汐は床を殴る良の拳に、そっと自分の手を重ねる。見えないストーカーに恐怖を感じていたが、そもそもの原因は幼い頃の自分だった。
 良の行いを肯定するわけにはいかないが、許してあげなくてはならない。それが、幼い良への償いに変わることを願う。

「私、覚えてなくて。本当にごめんなさい」

「……うしお」

 良は目の前の汐に手を伸ばすと、頬に触れる。

「僕は6歳のときから、ずっとうしおと結婚するつもりだった」

「そ、それは、本当にごめん。全然、覚えてなくて……」

「覚えて、ない……」

 汐の言葉に、良はそれ以上、なにも言えなくて。
 自分が必死にしがみついていたことは、ただの独りよがりで。結果がついてこないなんて、考えもしなかった。

 18年前、両親が離婚したあと、母親に引き取られた良は、寂しい生活を送ることになる。母が生活のためにと昼夜を問わず働くようになり、一人で過ごすことが多くなったのだ。
 そんなとき、良の心の支えになったのが汐だった。

 生活をするためには、お金がいる。お金を稼ぐためには、働かなければならない。
 汐という大切な女の子に苦労をさせないために、高収入の職に就こうとできる限りの勉強をした。

 良が中学生になる頃、母親が眞山と再婚したが、眞山は無精子症で子供を作ることが難しく、良が跡取りになるべく教育を受けることになる。

 高収入の職に就きたかった良にとって、眞山商事の跡取りになることは願ってもないことだった。順調に専務に就任し、収入が安定して、ようやく汐を迎えに行く準備が整った。
 驚かせないよう汐の身辺を探り、汐が一人暮らしで良を待っていることを知ると、居ても立ってもいられなかった。

 汐は、よくビーフシチューを作っていた。良も好きなメニューだ。
 ボーナスが出たときには、観葉植物を買っていた。緑のある暮らしはいいと思う。
 香水は、女性らしく少し甘いものを使っている。汐にすごく合っている。
 服は少し地味で暗い色のものが多い。派手で奇抜なデザインの服は隣をあるきづらいから、シンプルな服を選んで着ているのは、良と並んで歩くためなんだろう。

 汐のことを知れば知るほど、会いたくなった。会って抱きしめて、二度と離したりしないのに。

 衝動を抑えられなくなって、とうとう会いに行った。
 21時、22時、23時、0時……。いくらなんでも、おかしい。終電の時間も、もうないはずだ。じゃあ、汐はどこに行った?

 沸々と怒りが込み上げてきて、なんの迷いもなく、持っていた合鍵で部屋に入った。いつもと変わらない、汐が朝出て行ったままの部屋。
 ただそこに、汐がいない。

(せっかく、僕が会いに来たのに……!)

 良は怒りに任せて、乱暴に部屋を漁った。
 机の上から引き出しの中まで、全部を確認するように投げ散らかして、観葉植物が倒れるのも香水が割れるのも気にならなかった。

 そこでふと冷静になって、もしかしたら実家に帰っただけなのかもしれないと思い当たった。それだけなら、なんの問題もない。
 けれど、良にも仕事がある。さすがに肩書きだけの専務を名乗っているほど、無能ではない。

 コンセントのカバーを外してそこに盗聴器を仕掛けると、良は汐の部屋をあとにした。

 そこからは、まるで地獄のようだった。
 週末になって帰ってきた汐は、あろうことかオウサカという男と一緒だったのだ。

 なんとかして汐を逢坂の魔の手から救わなければと躍起になっていたその頃、汐の勤める会社、ヒライの平井社長の息子が、株で大損、自身の財産だけでは足りずに会社のお金を使い込んでいるという話を耳にした。
 そこで良は、平井社長の息子の損失分を補填する代わりに、逢坂の異動を持ちかけたのだ。

 息子の不祥事を、なんとか穏便に済ませたかった平井社長は、良との取り引きを二つ返事で承諾し、逢坂は九州支社へ異動するはめになったのである。
 淳太の異動に関しても同様で、息子に資産を食いつぶされかけていた平井社長が、会社を倒産させまいと良の融資を受けた結果だった。



 呆然と、良は今までの日々を思い返す。
 汐のために、汐と結婚するためだけにこれまで生きてきた。

 それが叶わないという事実を目の当たりにして、これから先、どう生きていけばいいのか。
 一気に生きる意味を失った良は、それ以上なにを語ることもなく、座り込んだまま身動き1つしなかった。