ストーカーキューピット

6. ごめんなさい(最終話)

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「じゃあ、淳太の北海道行きもなくなったんだ?」

「そうみたいですよ」

 がこん、と落ちてきたレモンティーを絃里に渡すと、汐は自分も持っていたカフェオレを手に、自動販売機横のベンチに腰を下ろした。

「北海道支社を立ち上げる話が、そもそもなくなったみたいで」

「ああ」

 そういうことかと納得する。
 そもそも北海道支社は、淳太を汐から遠ざけるために良が無理やり作ろうとした支社であり、作る予定があったわけではない。

 汐と結婚することが叶わないと知った良は、迎えに来た眞山社長とともに帰って行った。
 良が汐にしたことは犯罪行為だったかもしれないが、汐にまったく非がないわけではなかったため、眞山社長からの謝罪を受け入れる形で終わらせることにした。
 すぐには無理でも、そのうち、普通の幼なじみに戻れたらというのは、汐の勝手な願いである。

「結婚は、どうするの?」

「うーん……」

 絃里は買ってもらったばかりのレモンティーに口を付け、少し恥ずかしそうに頬を赤らめる。

「正直、面倒なんですけど。でも淳太が、結婚はやめないって言ってくれたから」

 するつもりです。

 そういう絃里の表情からは、言葉とは裏腹に、面倒だとは微塵も感じなかった。
 幸せそうに笑んでいるのを見るのは、こちらとしても幸せな気分になる。

「うしおセンパイは、これからどうするんです? 逢坂さんの家に、そのまま住むんですか?」

「それなんだよねぇ」

 汐は、頭が痛い、とばかりに大きく息を吐き出した。
 汐が住んでいたアパートは、まだ解約されずそのままになっている。良の件が解決して、これ以上逢坂の家に住む理由は、ないといえばないのだが。

「逢坂さんの異動も取り消しになったんですよね?」

「そう。かなり勝手な話だけどね」

 平井社長が良から受けていた融資は、今後、眞山社長が引き継ぐこととなった。平井社長と眞山社長がもともと親しくしており、ましてや今回は自分の息子である良が招いた事実があるという経緯もあり、無利息無期限での融資になったのだとか。
 ヒライを辞める予定だった上奥が、そのようなことを言っていた。

「結局、みんな元通りってことだよね」

 上奥もヒライを辞めず、そのまま会社に残ることにした。さすがに内情を知ってしまって、見捨てるように退職するのは忍びなかったようだ。
 当然、逢坂と神楽坂も会社を辞めることなく、そのままだ。
 慌ただしかったこの数週間は、まるで何事もなかったようになっている。

 なによりである。
 それなのに、少しだけ胸が痛むのは、なぜだろうか。

 答えはわかっている。汐は、逢坂の家を出ていきたくないのだ。

 居心地がいいというだけでは、足りないかもしれない。言葉にしたくはないけれど、汐が逢坂のそばにいたいのだ。
 逢坂も、そう思っていてくれることを願うばかりだ。

◇ ◇ ◇


「住めばいいじゃないか」

 シャワーを浴びたばかりの頭をわしゃわしゃを雑に拭きながら、逢坂が呆れたように言う。汐は少しだけ頬を膨らませて、ぷい、と視線を逸らした。

「だって、理由がないです」

「理由がいるのか?」

 拗ねたように言えば、逢坂はそれでも理解できないとばかりに眉を寄せる。
 汐は、もう、と声を張り上げたくなった。

 逢坂が一言、これからも一緒にいたいって言ってくれれば、なんの迷いもなくそうするのに。これじゃあ、汐ばかりが一緒にいたいみたいで、なんとなく不満だ。
 言われたいのに言いたくないなんて、ただの我儘かもしれない。
 けれど汐には、どうしても折れることが難しい。

「おまえは、また一人暮らしに戻りたいのか?」

「ち、ちが……っ」

 否定しようとして逢坂を見れば、逢坂は満足そうに笑みを浮かべていた。
 これは絶対に、確信犯だ。

「逢坂さんの、バカ!」

 猛烈に恥ずかしくて、汐はソファに置いてあったクッションに顔を埋める。悔しい、悔しい、悔しい。こんなの、どうしたって汐のほうが逢坂を好きなのだ。
 それを見抜かれているのが、悔しくて堪らない。

 及川、と呼ばれると同時、頭に温もりを感じて、汐はクッションから顔を上げた。穏やかな表情の逢坂と目が合って、そのまま唇にキスを落とされる。

「俺が、もう及川なしじゃいられない。だから、ちゃんと引っ越してきてほしい」

 ダメか、と聞いてくるが、汐が断らないことは、もう見抜かれているに違いない。

 ダメじゃないです。

 クッションに顔を埋めながら言うと、頬をがっちりと掴まれて、顔を上げさせられた。
 ぺろりと唇を舐められて、そのまま吸い寄せられるように口づける。

 脇腹に気配を感じると思ったら、逢坂の手が服の間から直接肌に触れてきたのに驚いて、思い切り両手を伸ばした。
 いきなりなにをするんだ、と汐は頬を真っ赤に染め上げて目を丸くする。
 一方逢坂は、拒絶されたことが納得いかないのか、眉間に皺を寄せていた。

「おまえ、この状況でも、まだ嫌がるつもりか?」

「この状況もなにも、ムードとかなかったじゃないですかーっ!!」

 持っていたクッションを振り回すが、それをあっさりと取り上げられ、二人の距離が近くなる。耳元に手を添えられて、びくっとその身を竦ませると、触れるだけのキスを落とされた。

「今日は、これで我慢してやる」

 ものすごく譲歩している、と言わんばかりの言い方に、汐は口元を綻ばせた。
 はい、我慢してください。そう言うようにキスをし返してみると、逢坂もまた嬉しそうに、笑みを向ける。

「まぁ、もう手加減するつもりはないけどな」

 そうは言うものの、逢坂は絶対、汐が嫌がることはしない。汐が逢坂を受け入れなければ、絶対にそういうことにはならない自信があるし、それくらい、逢坂を信用している。

(もう少しだけ、イジワルさせてくださいね)

 本当はもう、受け入れたっていいと思っている。
 それでもこうして焦らすのは、逢坂の拗ねたような表情が、思いのほかかわいいからだ。

 とりあえず今は、キスで我慢してもらおう。

 逢坂の顔が、ゆっくりと近づいてくる。
 汐はそれを、目を閉じて静かに受け入れた。


ストーカーキューピット■END