ストーカーキューピット

6. ごめんなさい(最終話)

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 朝、目を覚ました逢坂は、腕の中に汐がいるのに、はて、と首を傾げた。
 夕べも一緒に寝たんだったか、と考えて、淳太と絃里を見送ったあとの記憶がすっぽり抜けていることに気付く。

 お互い、着替えもせずに寝ていることから、疲れて、そのまま寝入ってしまったのだと悟ると、逢坂は、汐を徐に抱き寄せて、すん、と鼻を鳴らしてみる。
 汐の匂いがして、ほっとする。腕の中にいるのだと実感して、ふぅと息を吐いた。

 午前中、逢坂は本社へ出社しなければならない。眞山がどう出るか皆目、見当もつかないが、汐が逢坂の自宅にいることを勘付かれないよう、言動に気を付けるつもりだ。

 九州に連れていこうかとも思ったが、それではなんの解決にもならないと、諦めた。それに、神楽坂に馬鹿にされる。
 逢坂が汐にべた惚れなのを、神楽坂は面白がっている。それが、逢坂には面白くない。

 逢坂は、すやすやとまるでなにも悩み事のない寝顔に癒されながら、少し意地悪をしてみる。ほっぺたを摘んで、ぐにーっと伸ばしてみるが、汐は、それに笑みを零し、ぐふふ、となんの夢を見ているのか、涎を垂らしてくる。
 勘弁してくれ、と逢坂は慌てて枕元のティッシュを汐の口元に添えるが、汐は他人事のように今度はむにゃむにゃと口を動かして、なんとも幸せそうな表情をしている。
 美味しいものを食べている夢でも見ているのだろうか。

「幸せな奴め」

 ぽつり呟いて、逢坂は汐の目元に唇を寄せると、起こさないようにそっとベッドから抜け出て、出勤の支度を始めた。

◇ ◇ ◇


 逢坂が異変に気付いたのは、会社に一歩、足を踏み入れた瞬間だった。
 逢坂の存在に、辺りがしんと静まり返り、直後、こそこそと話を始める。

(なんだ?)

 不満を隠しきれず、眉間に皺を寄せると、目の前の受付嬢の姿が目に入った。
 逢坂をまっすぐに見つめ、目が合ったことがわかると、綺麗に頭を下げてから、ついて来いと言わんばかりに廊下へと姿を消した。

 それに促されるようにかのんのあとについていくと、使用中の札が下げられた応接室に通される。かのんとともに中に入ると、見知らぬ美女が待っていた。
 いや、美女というにはいささか肩幅が広い気がする。腕を組んで、組んだ腕の指先は苛立ちからか、とんとんと激しく律動している。

 美女は、逢坂が室内に入ったのを確認すると、ギロリと目を鋭く細め、いきなり逢坂の胸倉を掴み、殴りかかってきた。

「克己さんっ」

 かのんが間に割って入ると、克己は振り上げた拳を下ろしたが、逢坂の胸倉を掴んだ手は離さない。
 克己さん、ともう一度かのんが声をかけると、克己はゆっくりと、逢坂の胸倉から手を離した。

「見知らぬ男に殴られる趣味はないんだが」

「殴らなかったでしょーが!」

 逢坂がぽつりと呟くと、克己はふんっと鼻息を荒くして、応接セットの椅子を蹴る。蹴られた椅子が激しくぶつかる音に、かのんは身を縮ませた。

 ぱっと見は間違えそうになったが、この克己という人間は、女性らしい外見をしてはいるものの、体型と声がそれを隠しきれていない、|男だ。
 殴られずに済んだのは、かのんのおかげだ。さすがに、男の力で殴られたら、歯の1本や2本、折れるだろう。

 克己はしばらく、何度か椅子を蹴り、その度に頭をわしゃわしゃと掻きむしり、自分を落ち着かせた。
 そうして背を向けたまま、口を開く。

「……うしおは、どこ?」

 克己の言葉に、逢坂がぴくりと反応する。

「あんたんとこにいるの?」

 今度はちゃんと振り向き、逢坂の目を見て克己は問うた。その瞳は、さきほどのイライラしたものから一変して、不安に包まれていた。



 克己が汐たちの勤める会社に訪れたのは、かのんが出社して、間もなくの頃だった。

 かつかつと軽快なヒール音を響かせて、克己はまっすぐに受付に向かってくる。長身で迫力のある克己に圧倒されつつも、かのんは笑顔を忘れない。

「あなた、前にうしおと一緒にランチしてたコよね?」

「はい?」

 笑顔のまま、かのんは頭をフル回転させる。職業柄、他人の顔を覚えるのは苦手ではない。先週だったか、汐とその同僚と一緒にランチをしたときに乱入してきた、汐の従兄妹に思い当たった。
 確か、名前は……。

「克己さん?」

「当たり」

 自分を覚えていてくれたことが嬉しかったのか、克己はそれまでのきつい面持ちから柔らかい表情に変わるが、それもすぐに元に戻る。

「オウサカって人、呼び出してもらえる?」

「逢坂、ですか?」

 思いがけず出てきた名前に、かのんは一瞬目を丸くする。どうして、汐の従兄妹である克己が、逢坂を知っているのだろう。

「あんた、ストーカーは眞山だって言ってたけど、本当は、逢坂だったんでしょ?」

「……はい?」

 まったく、騙されたわ、という克己の言葉に、かのんは知らずに、手に力が入っていた。

 逢坂が九州に異動になった理由としては、逢坂が汐のストーカーだというものではあるが、それは表立って出てはいない。知っているのは、ごく少数である。
 ましてや、事実でないそれを、なぜ克己が知っているのだろうか。

 決して小さくはなかった克己の声に、隣にいた同僚ばかりか、1階のフロアにいるほかの従業員までもがざわざわし始める。
 かのんは立ち上がると、こちらへどうぞ、と笑顔を崩さずに、受付を過ぎて廊下の手前にある応接室へと克己を誘導した。



 逢坂に殴りかかったことで幾分落ち着いたのか、克己は、自分が蹴った椅子を元に戻すと、ゆっくりとそこに腰を下ろした。

 逢坂は覚悟を決めたように息を吐くと、かのんを向く。

「席を外してもらえると、ありがたいんだが」

「あ、はい……」

 汐のことでなにかが起こっているのはわかるのに、蚊帳の外なのが寂しいなんて、今言うべきことではない。
 かのんは一礼すると、素直に応接室をあとにした。

 克己と二人になった密室で、逢坂は克己に向かい合うように座ると、胸ポケットからペンとメモを取り出して、さらさらとなにかを書き始める。そうして書き終えたそれを、克己に差し出した。

「及川は、俺の家にいる」

「……っ」

 逢坂の言葉に、克己は奪い取るようにして住所の書かれたメモを手にした。メモを持つ手は震え、目には涙が浮かんでいるように見える。

「誘拐、拉致、監禁。どれが正しいのかしら?」

「本人に確認するといい」

「……」

 克己は逢坂を睨んでいたが、睨まれている側の逢坂は、じっと無表情を貫いていた。いや、無表情に見えるが、どこか小馬鹿にした表情にも見える。

「あんたの顔を見てたら、殴りたくなってくるんだけど」

「それは勘弁してくれ」

 女性になら、多少殴られても構わないが。思った言葉は口にせず、逢坂は同じ表情を保っている。

 あまりに堂々とした態度に、克己は、少しだけ俯いた。逢坂に聞いた方が、すっきりするだろうか。
 だが克己には、逢坂が敵なのか味方なのか、判別するものがない。ここに汐がいれば、はっきりしただろうが。

 思って、顔を上げる。逢坂は、戸惑う様子もなく、自宅の住所を克己に教えてくれた。いや、実際にこの住所が正しいのかはわからない。
 だが変に隠そうとしなかった心意気は、認めていいところではないだろうか。

 迷った挙句、克己は、昨日の出来事を口にした。
 
「うしおの携帯に、連絡したのよ。そしたら、眞山が出たの」

 眞山という名前に、逢坂はぴくりと反応する。

「うしおが、同じ会社の逢坂って男に誘拐されたって。逢坂は、会社の上司っていう立場を利用して、うしおを騙したんだって。逢坂は、うしおのストーカーなんだって」

 目元を釣り上げた克己が、ねぇ、と続けて口を開く。

「どっちが、本当のストーカーなの?」

「俺はストーカーじゃない、と言ったところで、納得してはもらえないんだろう?」

「……」

 克己はきゅっと唇を結んだ。
 確かに、逢坂の口から出た言葉を鵜呑みにするつもりはない。汐に一度会えば、すっきりするだろうと思うのに。

 くしゃりと手元の紙を握り締める。手掛かりは、このメモしかないのだ。逢坂に騙されているかもしれなくとも、克己はこのメモに縋るしかない。

「うしおは、ここにいるのね?」

「お利口に留守番していてくれるならな」

 なかなかじっとはしてくれないから。そう付け加えられて、克己の口元がくすりと綻ぶ。汐の性格を、よく理解していると思ったからだ。

 克己は片手で顔を覆うと、はーっと全身から息を吐き出した。さて、どうするべきか。

 顔を覆った指の隙間から、ちらりと逢坂を窺う。なんの迷いもないように見えるのは、そう見せているだけなのか、本心なのか。克己の判断材料は、直感しかない。

 克己は、汐の幼馴染みである『泣き虫リョウちゃん』を知っている。いつも近所の男の子に泣かされていて、その度に汐が助けてやって、汐の後ろに隠れていた。『うしおちゃん、うしおちゃん』といつも汐のあとを追いかけていた。

 ぎり、と唇を噛む。いつもなら、唇が荒れるからと絶対に噛んだりしない。
 けれど今は、そんな考えを払拭するくらい、歯痒かった。

 汐の安否が気になって仕方がない。汐の携帯に電話をかけたとき、電話に出たのは良だった。

 上司である逢坂にストーカーされて、誘拐された。

 そんな言葉を聞かされた克己の心情なんて、誰にもわかりっこない。
 居ても立ってもいられなくて、朝一番で汐の会社に乗り込んだ。

 幸いにも、受付に見知った顔がいたので、今、こうして逢坂と会うことができたわけなのだが。

 さて、どうしよう。

 克己は再度、握り締めたメモを見て、逢坂に視線を移す。

「今から、このメモの場所に行ってくるわ。もしうしおがいなかったら、そのときは……」

 もう一度、この会社に乗り込んでやるから。そう言おうとした言葉は、携帯の振動音で遮られた。鳴っているのは、逢坂の携帯だ。

 失礼、と断りを入れてから、逢坂は通話ボタンを押す。相手は神楽坂だった。

『今どこ?』

「第1応接室」

 神楽坂の質問に、簡単にそう答える。神楽坂は逢坂の居場所を確認したあとで、電話口でもわかるようにあきらかに大きくため息をついた。

『社長室に呼ばれてる。眞山専務もいらっしゃるそうだ』