ストーカーキューピット

5. お付き合いを始めます?

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「どうした、頭からクッションなんて被って?」

 被っていたクッションがはがされて、はっとした汐は、口元が冷たいことに気づき、それがバレる前にと慌てて手の甲で拭ってから顔を上げた。

 訝しげな表情の逢坂が、汐を見下ろしている。

「お、お帰りなさい」

「ただいま」

 ぼうっとした頭の中で、ええと、と振り返れば、どうやら、汐はクッションを頭から被ったまま、寝入ってしまったらしかった。
 目をパチパチとしながら周りを見れば、気まずそうな絃里と淳太の姿が映り、二人が並んでいることから、仲直りしたのだろうことがうかがえて、ほっとする。

 逢坂の後ろには神楽坂もいて、座ったまま軽く頭を下げると、そのまた後ろに、小太りの男性がいて、あっと声を上げた。

「上奥部長」

「元気そうだねぇ」

 よかったよかった、と頷く上奥に、汐は立ち上がろうとするが、いいのいいの、と制されて、結局座ったまま、深々と頭を下げることになる。

「お世話になりました」

「大事なくてよかった」

 あのとき、上奥に発見されていなければ、今、汐はここにはいないだろう。
 本当に、上奥には感謝しかない。

 汐が拝むように上奥を見ていると、どうやらあまり時間が取れないらしく、要点だけをまとめよう、と逢坂が口を開いた。

「上奥部長は、来月、退職して、新会社を設立する予定らしい。俺と神楽坂は、それについていくことにした」

「ええっ!?」

 驚き、そう声を上げたのは汐だけではない。
 絃里と淳太も同じように驚いていたが、それを無視して、逢坂は淡々と話しを進めていく。

 どうやら上奥は、社長のやり方についていけなくなったらしかった。2課の急すぎる異動に、残された人間は悲惨なものだ。
 当然、部長である上奥にも、その波は寄ってくる。

 人事異動の理由を説明してもらおうと社長のもとへ行ったが、社長はしどろもどろになり、ろくに説明ができなかったらしいのだ。
 それでは、なんのための人事異動なのか、わからない。ただ単に、誰かにとって邪魔だったから、異動させたとしか思えないのだ。

 そんな我儘に、上奥は付き合っていく必要はないと見切りをつけた。

 最初は突き返されていた退職届は、1週間ほどで受理された。

「その理由がねぇ。眞山専務が、辞めたい人は辞めさせたほうがいいですよって言ったからなんだって」

 そんなの、上に立つ人間の言うことじゃないでしょ、と上奥は呆れたふうに言った。

 逢坂と神楽坂も、正直、社長に対して考えるところがあったため、上奥に倣って辞表を出す旨、報告したら、新会社設立の予定があるから、と誘ってもらったということらしかった。

 それで、と逢坂は汐を見て、口を開く。

「おまえも、一緒に上奥部長の会社に来ないか? ほとぼりが冷めるまでは、在宅でも構わないって」

「違うんだよ、及川さん。逢坂はただ単に、及川さんと離れるのが寂しいだけ……、あいてっ」

 神楽坂が嬉しそうに言うと、逢坂は素早く、神楽坂の頭に、がん、とゲンコツを降らせる。
 ぐっと力を入れたそれは、なかなかに痛そうだ。

 けれど、神楽坂の言葉は、汐にちゃんと聞こえていた。

(寂しいって。寂しいんだって)

 あの、逢坂が。

 にやり、口元が綻ぶのを逢坂に見られ、睨まれるが、それでも頬筋は戻らずに、へへ、と声まで出そうになるのをなんとか堪えた。

「えっと、すみません」

 空気読めなくて、と申し訳なさそうに、淳太が手を挙げる

「俺は、どうすれば……?」

「残れば?」

 みんな辞めるのに、俺だけ残るの、と子犬のような目で、訴えてくるのに、逢坂と神楽坂は、声を揃えて言った。

「あ、あんまりだ……っ」

 淳太は、くぅ、と唇を噛んで、わなわなと身体を震わせる。すると隣にいた絃里が、くいくい、と淳太の服の袖を引っ張った。

「うしおセンパイが上奥部長の会社に行くなら、私もそうするから、やっぱり北海道は、一人で行ってね」

「……」

 バスルームでどんな話をしたのかはわからないけれど、結局、絃里が一緒に行くという方向でまとまっていたのだと思われる。
 だが汐が上奥の会社に再就職するのであれば、当然、絃里もそうする、と。北海道へはついていかない、と宣言され。

 迷いのない絃里の目に、淳太は地獄に落とされたように顔を歪めた。

「お、おまえ、結婚するって……っ」

「結婚はするけど、北海道へは単身赴任でいいじゃない」

 なにが不満なのよ、と強気な絃里に、淳太は言葉も出ない。

 これにはさすがに淳太が哀れに思えてならないが、逢坂と神楽坂は、そんな二人のやりとりに、笑いを堪えきれない様子で、ぷるぷると肩を震わせている。
 お互い、笑うなよ、と肩を突き合っているのを見ると、よほど仲良しなんだろうな、と思う。

 上奥はそんなみんなの空気を感じ取り、にこにこと微笑んでいた。

「ここにいるみんなが新しい会社に来てくれるとなると、心強いなぁ。あ、貴島くん以外だっけ?」

 北海道でも頑張ってね、と笑顔で言われるものだから、淳太は唖然として、違います、と両手を大きく振って否定した。

「お、俺も……っ、俺も、ついていきますっ、上奥部長にっ」

 上奥の両手を握り、鼻息を荒くして懇願する。
 猫背の上奥は淳太があまりにも近くにくるので、背をのけ反っているのがツラそうだ。

 そこで、とうとう堪えきれなくなった逢坂と神楽坂が、声を上げて笑い出したのに合わせて、汐も笑い出す。
 楽しいなぁ、とその場の雰囲気に、笑顔が溢れた。

 あまり虐めすぎたかな、と絃里も顔を綻ばせれば、淳太は泣きそうな顔をしたまま、え、と周りを見渡して、首を傾げる。

 逢坂の家で、大好きな人たちに囲まれて。汐は、幸せを噛み締めていた。

 ほどなくして、上奥と神楽坂が逢坂の家をあとにすると、淳太と絃里も頃合いを見たのか、玄関へと足を向けた。淳太の背中は、どこなく暗い。

「うしおセンパイ、明日はどうするんですか?」

「明日は休ませる。どのみち、長期休暇が申請されてるからな。俺も午後は九州に向かう」

 夜には、淳太が北海道へ行ってしまう。周りの味方がどんどんいなくなっていくことに、汐は少なからず、不安を隠せなかった。

「うしおセンパイ」

 汐が暗く落ちてしまったことに気付いた絃里が、手を握ってくる。

「私は、いつだってどこにいたって、うしおセンパイの味方です」

「……うん」

 ありがとう、と言葉が出たか、自信がない。
 けれど、不安で仕方がなかった気持ちが、浮上していく。

 このまま、良に怯えて生活を送るのなんて、まっぴらごめんだ。なんとかしなければと思うのに、打開策なんて見えなくて。

 外出して、また良に見つかったらと思うと、逢坂の家から出るなんてできなくて、日の目を見ないまま、干からびてしまうのかな、と考えがどんどんマイナスになっていた。
 それを、見抜かれていたのかもしれないとも思う。

 けれど、それも仕方がない。だって、怖いものは怖いのだ。不安にもなる。

「ほら、いつまでしょぼくれてんのよ」

「いてっ」

 絃里が、ばしっと手のひらで淳太の背中を叩く。いい音がした。
 この二人は、これはこれで仲がいいのかもしれない。

 バタン、と玄関が閉まり、淳太と絃里の姿が見えなくなった瞬間、汐は羽交い絞めにされるように後ろから抱き締められた。
 首元に顔を埋められ、髪がくすぐったい。

「お、おうさ……、うわっ!?」

 声をかけようと振り向けば、急に身体が宙に浮いた。逢坂が、汐を持ち上げている。

 ぽかんと口を開けたまま、言葉を発せずにいると、逢坂はそのまま、ずんずんと歩みを進め、寝室のベッドに汐を投げて自分もその上に転がった。

「……疲れた」

 はー、と全身から息を吐いたような大きなため息だった。相当、疲れが溜まっていたのだろう。

「お、お疲れさまでした」

 ありきたりのことを言えば、じっと逢坂に見つめられた。なんだろうと思い、へらっと笑って見せれば、次の瞬間、頭に衝撃を感じた。頭突きだ。信じられない。

「お疲れだ、まったく」

「……!?」

 ふん、と鼻息を荒くして言った逢坂に、理不尽すぎる、と文句を言いたくなったが、なんとなく、逢坂の疲れは、汐に関することである可能性がなくはない気がしたので、やめた。

 体を捩って逢坂の顔を窺ってみれば、眉間に皺が寄っているのがわかる。汐は、両腕を出して、えいっと逢坂を抱き締めた。
 逢坂は、汐の行動に一瞬、身体を強張らせたものの、すぐにそれを解くと、汐と同じように、両腕で汐を抱き締めてやる。

 そうして、ごろりと身体を回転させて、お互い、横向きになると、逢坂は汐を抱き締める腕に、力を入れた。

「お、逢坂さん?」

「……」

 汐を抱き締めたまま、言葉を発しない逢坂に不安になり、汐は声をかけてみるが、返事はない。
 どうしたものか、と考えていると、そのうち、すーすー、と規則正しい寝息を聞こえてきた。

(う、嘘でしょー!?)

 よほど疲れていたのだろう逢坂は、なんとそのまま寝落ちしてしまったようだ。汐を、腕に抱き締めたまま。

 着替えもしたいし、シャワーも浴びたい。だが逢坂は、しっかりと汐を掴まえたまま、起きそうにもない。

 疲れていたのだろう。うん、それはわかる。わかるのだが。

(せめて、一人で寝てよーっ)

 わーん、と泣いてみるも、逢坂は微動だにしない。
 仕方がないので、汐は、自分を抱き枕だと思い込んでみようと試みるが、そんなこと、できるはずもない。

 時折、体を捻り、脱走をしようとするも、それに気付いたように、逢坂は腕に力を入れてくる。

 汐は、そうして何度も逢坂と格闘しながら、そのうちには、疲れて果てて、泣く泣く、逢坂の腕の中で、夢の世界へと旅立った。