ストーカーキューピット

5. お付き合いを始めます?

4

 翌朝、目を覚ました汐は、一番に飛び込んできた逢坂の顔に、ヒョッと戦き、消えたくなった。
 穏やかな表情で汐を見つめる逢坂が、なぜか怖くて、落ち着かない。

「目が覚めたか」

 お早う、という言葉と共に、唇が汐の額に触れ、くすぐったい。

 そこで、嫌な感じはしなかったので、ああ、これは逢坂なんだ、と感じ取り、ほっとする。
 一瞬でも、見誤ってしまうなんて、逢坂に申し訳ない。

 ここは逢坂の家で、目の前にいるのは、逢坂なのだ。

 目が覚めて、逢坂が視界に入って。どういったわけか、それが、逢坂に変装した良に思えてしまった。
 そんなこと、あり得るはずがないのに。

 心底、ほっとしたように息を吐き出せば、汐の不安に気づいたのか、逢坂が、徐に引き寄せてくるのに甘える。
 その存在を確認するように逢坂の服を掴んだ瞬間、ピンポーン、と大きくインターホンが鳴り響いた。

「来たか」

 ふわ、と欠伸をしながら、逢坂はベッドから降りると、そのままインターホンを確認しに行ったので、汐も慌ててあとに続こうとすれば、立ち上がろうとした弾みに、傷口が痛んだ。

 恐る恐る、歩けないだろうかと、ゆっくりと床に足をつけてみる。
 うん、歩けないことはない。

 遅れながら、逢坂のあとに続けば、既にエントランスのドアを開けたらしい逢坂が、コーヒーを淹れようとしていた。

「誰が来たんですか?」

「貴島と松澤」

 顔を覗かせるように尋ねると、首を鳴らしながら、そう答えてくれる。
 えっ、と時間が気になり、汐は壁掛けの時計に目をやった。

 なんてこと。
 てっきり、まだ7時くらいかと思っていたのに、時計は、11時を示している。

 よく寝たな、と思えば、確かに、頭がすっきりしている。
 ここ2、3日は、心が落ち着けなかったのだから、それも仕方ないだろうと自分に言い聞かせると、ポーン、と部屋の前に来た合図が聞こえてきた。

「私、出ます」

 汐は、ひょこひょこと足が痛まない歩き方を探るようにしながら、ドアへと向かった。



「夕べは、お騒がせしました」

 淳太は逢坂の顔を見るなり、深々と頭を下げる。
 隣にいる絃里にも頭を下げるよう視線を送るが、絃里は気恥ずかしそうにしたまま、逢坂と視線を合わそうとはしなかった。

「絃里……っ」

「別に構わん」

 上司に対する態度じゃない、と文句を言おうとした淳太を、逢坂がなんてことはないと制す。
 その傍らで、汐は、目を丸くした。

(今、淳太……)

 名前で呼んだよね、と思う。
 聞き間違い、ではないように思えるが。

 いつの間に、つき合ってたの、と聞いてみたいが、果たして、今それを聞いてもいいものだろうか。
 昨日から、そんな感じだったっけ、と思い返しながら、頭をぐるぐる回転させれば、おい、と頭にコーヒーカップがぶつかる。

「変な顔しなくていいから、座れ」

「へ……っ!?」

 変な顔!? と逢坂の言った言葉に反応するが、逢坂を始め、淳太と絃里もそれには無反応だったため、渋々、逢坂の隣に腰を下ろした。

「もう少ししたら、神楽坂が来ると思うから、留守番を頼む」

 はい、と淳太が返事をしたのを確認すると、逢坂は支度をしようと立ち上がったので、汐も倣って立ち上がれば、おまえはいい、と制される。

「おまえは、ここで貴島と松澤と留守番だ」

「……え?」

 思ってもみなかった言葉に、愕然とした。

「な、なんで?」

 意味がわからず、くしゃり、顔を歪めれば、途端に涙が浮かんでくる。

 逢坂に置いて行かれるなんて、思ってもみなかった。
 どこかに行くときには、一緒に連れて行ってもらえるものだと、信じていたのに。

 思いもよらなかったことにハタハタと涙を流せば、短く息を吐いた逢坂が、言葉が足りなかったな、とそっと抱き寄せてくる。

「神楽坂が来たら、俺は神楽坂と一緒に、上奥部長の家に行ってくる。眞山専務がどこに潜伏してるかわからないから、お前はしばらく、ここに身を潜めていたほうがいいだろう」

 だから、待っていてくれ。

 言われて、納得できる反面、それでも側を離れたくない気持ちがあった。

「ちゃんと、帰ってきますか?」

「俺の家だからな」

 汐の問いに、ふ、と口元を綻ばせると、ちゅ、と唇を触れさせて、逢坂はバスルームへと姿を消した。

 そう。ここは、逢坂の家なのだ。
 帰ってこないはずはないのに、どうして、こんなにも不安な気持ちが押し寄せてくるのだろう。
 逢坂と離れるのが、こんなに怖いなんて。

「うしおセンパイ」

 絃里が、腕を絡めて笑顔を向ける。

「落ち着いたら、また美味しいもの、食べに行きましょうね」

 淳太の奢りで。

 絃里が、淳太のことを、名前で呼んでるな、とぼんやり思いながら、汐はバスルームへ視線を投げる。

 絃里がいてくれる。
 淳太もいてくれる。
 それは、汐を一人にしないために、逢坂がそうしてくれたのだろう。

 わかってはいるが、淳太も絃里も、逢坂の代わりにはなれない。
 せっかくの休みに、貴重な時間を汐のために使ってくれているのに、そんな薄情なことを思ってしまう自分に腹が立ちながら、汐は絃里に腕を掴まれたまま、ゆっくりと元の位置に腰を下ろした。

◇ ◇ ◇


 汐は、ちらちらと時計を確認していた。
 さっきから、まだ10分も経っていないのに、もう何度目になるだろう。

 それでも、逢坂と離れているこの時間が、永遠のように長く感じるなんて。
 病気かな。思い、くす、と口元を緩ませれば、はい、と目の前にコーヒーの入ったカップを置かれた。

「ありがと」

「いえいえ」

 汐にコーヒーを差し出した絃里は、続いて、淳太の前にもコーヒーを置いてから、よいしょ、と汐の隣に腰を下ろした。

「うしおセンパイ、逢坂さんとおつき合いすることにしたんですか?」

「えっ」

 絃里の言葉にドキッとして、えーと、と返事を考える。

「なんとなく、さっきの2人の空気が、柔らかかったから」

 そう感じました、と穏やかな表情で言われ、恥ずかしくなる。
 無意識に、|表情かおに出ていたのかもしれない。

 汐から逢坂への気持ちに、変化が訪れたのは事実。
 逢坂に、ちゃんと結婚を前提に、と交際を申し込まれて、汐もそれを快諾し、一歩、先へ進んだ間柄になった。

 そう思い返し、ん? と首を傾げる。
 快諾、したんだっけ?

 なんだかんだ、うやむやにしてしまった気がしないこともないのだが、まぁ、うん、きっと大丈夫だろう。
 逢坂は大人だし、汐の考えを、理解してくれているであろう、きっと。

 好きは好きなんだと言ってはいるし、問題ないだろう、きっと。

 ……たぶん。

 考えれば考えるほど、段々と不安になっていく中、汐は、きょとん、とした表情で汐を見つめる絃里に、はっとする。

「い、絃里ちゃんこそ。淳太と、つき合うことにしたの?」

 自分のことを棚に上げ、そう汐が問うと、絃里は気恥ずかしそうに下を向いて、小さく、頷いた。

「つき合うっていうか……」

「結婚することにしたんだ」

 いつの間にか、もじもじする絃里の隣に移動してきていた淳太が、絃里に肩に手を置いて、すぱっと言ってのける。

 あまりにも、あっさりとした報告に、汐は一瞬、へぇ、と言った後で、ええ!? と声を上げた。

「け、結婚って、ケッコン!? 淳太と、絃里ちゃんが!?」

 なんでまた、と開いた口が塞がらず、目を丸くすると、淳太は絃里とアイコンタクトを取る。
 目の前でいちゃつくな、この野郎、と文句を言ってやりたかったが、あまりにも幸せそうな雰囲気だったので、やめた。

「俺が、異動になったから」

 照れ臭そうに鼻を掻きながら、淳太は横目でチラチラと絃里を見やり、口を開く。
 絃里もまた、恥ずかしそうに頬を染めたまま、淳太と目を合わそうとはせず、眉根を寄せていた。

「ついてきてほしいって、頼んだんだ。でもついてきてもらうには、会社を辞めなきゃならないし、だったらいっそ、結婚しようかって話になって」

「……」

 なんて急展開。

 汐がちょっと眞山に拉致されている間に、この二人は、愛を育んでいたのだろう。
 仲がいいのか悪いのか、よくわからない二人ではあったが、まさか結婚するなんて。

 いや、お似合いだとは思う。
 絃里は、男性からの愛に飢えている感じはあったし、淳太はちゃんと、それに応えてくれるような男だから。

 真面目な人間だということは、同期である汐が、よくわかっている。
 きっと、絃里を大事にしてくれるであろうことは、わかるのだが。

「……そっかぁ」

 ふにゃり、と表情を緩めると、なんだか、泣きたくなった。
 嬉しいのと、寂しいのと、半分。
 大好きな後輩と、同期の結婚。
 これは、お祝いをしてあげなければならないことであり、もちろん、そのつもりもある。

 けれど。
 どこか、ぽつりと穴の空いた感覚。

 無意識に落ち込んでしまえば、それを察したように、絃里が、ぎゅっと飛びついてきた。

「センパイ、私、やめます」

「え?」

 絃里もまた泣きそうな表情で汐を見上げ、やめます、と呟く。
 わかってるよ、とくすり口元を緩めて、汐は抱き着いてきた絃里に負けじと、抱き締め返した。

 仕事を辞めて、淳太についていくというのも、相当な決心だったろうと思う。
 実際、逢坂に、仕事を辞めて九州に一緒に来てくれと言われても、汐は悩んで、すぐに返事なんてできやしない。

 交際でさえそうであったのに、ましてや結婚なんて。

「違います」

 絃里は汐の腕から逃れるように身を捩らせて、まっすぐに汐を見つめる。

 穏やかな表情に、迷いは感じられず。

「私、淳太と結婚するの、やめます」

「……」

 汐の声に被せるように、は? と淳太の口から声が漏れた。

「北海道になんて、行きません。ずっとずっと、うしおセンパイのそばにいます」

「ち、ちょっと待って!」

 淳太は汐から絃里をべりっと引きはがすと、肩を掴んだ。

「冗談言うなよ! 俺と及川、どっちが大事なんだよ!?」

「そんなの、うしおセンパイに決まってるじゃないっ」

「……っ!?」

 淳太の問いに、絃里は迷うことなくはっきりと答える。

 汐は、そんな絃里に感動したが、すぐにはっとして淳太に視線を移せば、淳太は思ってもみなかったであろう答えに、呆然としていた。

 まぁ、それもそうだろう。
 結婚を決めて、まだ何日も経過していないというのに、自分よりも汐の方が大事だと言われてしまっては、立つ瀬がない。

「じ、淳太……?」

 よし、勝った! と喜んでいい場面でないことは理解できたので、汐は、恐る恐る、淳太に声をかけてみるが、淳太は目と口を開けたまま、動けそうになかった。
 言った言葉の残酷さにようやく気づいたらしい絃里は、少しだけ気まずそうに下を向く。

 しばらくの間、呆けていた淳太は、よろよろと壁に激突しながら、どうやらバスルームへ足を向かわせているらしかった。
 おぼつかない足取りの淳太を見送りながら、汐は、ため息を吐くと、ちらり、口元を手で覆う絃里に視線を送る。

 視線に気づいた絃里は、どうしよう、と言わんばかりの表情で、汐に助けを求めてきた。

「あ、あれは、ちょっと、淳太が可哀相だったかも、かなぁ?」

「……ですよね」

 100パーセント淳太の肩を持つのもどうかな、とためらいがちに言ってみたが、さすがに絃里も、淳太に申し訳ないと思っているのか、汐の言葉に素直に同意する。
 目尻に涙を浮かべながら、ゆっくりと、淳太のあとを追うべく足を動かす絃里に、頑張れ、と心の中でエールを送りながら、絃里がバスルームへ消えていくのを、汐は黙って見ていた。

 絃里と淳太がリビングからいなくなって、一人になった汐は、まさか、と嫌な予感が頭を巡り、顔を赤くする。
 いや、さすがにそれはないだろう、と思い改めるものの、一度頭に過った想像は、そう簡単には消えてくれず、顔を真っ赤に染め上げたまま、バスルームを凝視した。

 ……うん、大丈夫。なにも聞こえない。

 そう思ってほっとしたのも束の間で、あっ、という絃里の声と、がたん、という物音がしたかと思えば、すぐに静かになる。

 様子を、と思うが、万が一に遭遇したくはないので、汐はソファに置いてあるクッションを頭から被り、きつく、目を閉じて時間が過ぎるのを待つことにした。