ストーカーキューピット
5. お付き合いを始めます?
3
「まだ痛むか?」
「……はい」
ぐす、とタオルで涙を拭きながら返事をすると、少しだけ眉根を寄せた逢坂が、ぽん、と慰めるように頭を撫でてくるのに、尚更、涙が込み上げてくる。
手当てをしてあったものの、両足裏のキズに、水がやけに染みてしまい、じんじんと痛みだし、今、逢坂に濡れた包帯を外してもらったところである。
ベッドの上に足を投げ出して座る汐の横に並んだ逢坂は、汐の肩を抱いて、そのまま汐を道連れにして、ごろんとベッドに横になった。
腕枕、なんだかくすぐったいな、と思いながらも、それに安心できたので、汐は少しだけ体を摺り寄せ、ふー、と深く息を吐き出す。
帰って、きたんだ。自分もだが、逢坂も。
あれだけ会いたかった逢坂が、今、目の前にいる。
そこまで考えて落ち着いたあと、ふと、汐は今日一日の逢坂とのやり取りを振り返った。
(逢坂さんと、キスした!?)
あれだけバタバタと、なんだかんだ言って、していなかったのに、そう言えば、と思い返し、キャー、と胸が躍る。
(えぇ? でも、逢坂さんも、なんだか普通だし。あれ? あれって、私の妄想?)
いやいや、違うだろ、と足の裏の痛みを思い返し、汐は体を起こして、逢坂さん、と目を合わせれば、どうした、と急な汐の動きに、驚いて目を丸くしていた。
「逢坂さんと、私、今日、その……」
キスしましたよね、とダイレクトに聞くことが躊躇われ、言い淀めば、それを察したのか、ああ、と逢坂は右手の親指で、汐の唇をゆっくりとなぞった。
「悪かった。同意もなく、勝手に」
「同意って」
つき合っている二人がキスをするのに、いちいち、同意が必要?
逢坂の物言いに、汐は、沸々と怒りが込み上げてくるのがわかり、あの、と文句を言いかけて、やめた。
つき合っていると思っていたのは、汐だけだったんだ。汐は逢坂を好きで、逢坂も汐を好きだと言ってくれた。
それだけで、言葉はなくても、つき合っているんだと思っていた。
(でも、わかるでしょう!?)
怒りが、段々と惨めな気持ちに変わっていった汐は、目が潤んできたのを感じ、それを悟られまいと逢坂から顔を反らした。
そうしてベッドから降りようと足を付いた汐は、忘れていたわけではないのに、またも両足の激痛に襲われ、その場にうずくまる。
もう、どうすればいいのか、わからない。
逢坂は、汐を好きだけれど、彼女にするつもりがないのだろう。
だからいつまでだっても、汐は部下のままで、同意がなければ、キスもできない関係なのだ。
汐はもう、そんなのとっくに、取り払っていたのに。
「うー……」
悔しくって、悲しくって。
汐は、溢れるに任せて、声を上げて泣き出した。
病室でキスをされたときも、バスルームでキスをされたときも、逢坂にとっては彼女でもない女に勝手にキスをしただけだったんだ。
何度も勝手に期待して、何度も勝手に落ち込んで。逢坂にしてみれば、いい迷惑かもしれない。
けれど、そういうふうに思い込んでしまうのも、無理もないと思うような行動をとっていた逢坂にも原因があると思う。
「及川」
逢坂は、泣き出した汐の両手を掴み、しっかりとその顔を見ようとするが、汐は嫌々と首を振り、逢坂の話を聞こうとしない。
「落ち着け、及川」
落ち着けるか、バカっ。
そう言ってしまえれば楽なのに、上司だから、そういうわけにもいかない。
「及川、あのな」
はー、と至極面倒そうに息を吐き出す逢坂に、汐は、穴に入りたい気持ちでいっぱいだった。
逢坂が、汐とつき合うという紐づけをせずに、このままの関係を維持していきたいのを、汐が泣いて困らせるなんて、最低だ。
汐は涙を流しながら、それでも逢坂の目を見ようと、前を向けば、逢坂は親指で汐の涙を拭いながら、ふ、と口元を綻ばせ、そのまま引き寄せる。
ぽんぽん、と子供をあやすように背中を撫でられて、汐は、恐る恐る、逢坂の背中に手を回した。
「俺は、年齢が年齢だから。次につき合う女とは、結婚を考えている」
「……結婚!?」
逢坂の言葉に、汐は頭を上げようとするが、それを制するように、がし、と後頭部を捕まれ、逢坂の肩に戻された。
「最初からそんなこと言ったら、重いだけだろう。言いたくはなかったが、言わなきゃ、おまえが安心できないのが、よくわかったからな」
だから、汐を恋人のカテゴリーに入れてしまうのが怖かった。
そこまで言われて、汐は、逢坂がどうして今まで、中途半端にしか汐に手を出して来なかったのか、理解できた。
誰かに汐を渡したくはないけれど、『恋人』として縛ってしまうのも、汐には酷なのかもしれないと思っていた。
ほどほどの距離を保っておけば、汐に嫌われて離れていかれても、納得することができただろうから。
けれど、それが、汐を傷つけていたとは、思いもしなかった。
「及川」
逢坂は汐の後頭部から手を放し、まっすぐに汐を見つめ、汐の両手を握る。
真剣な眼差しに、汐は、ごく、と唾を飲んだ。
「結婚を前提に、つき合ってほしい」
「……」
穴があきそうなほどな視線に、汐は言葉を失った。
ここで頷くのは簡単だが、そうなると、汐は逢坂と結婚することになってしまう。
いや、別に逢坂と結婚することがイヤなわけではない。決して。
けれど、それが最初からわかっているというのも、妙なもので。
「か、考えさせてくださいっ!?」
この期に及んで、と思われるかもしれないが、汐には、キャパオーバーだった。
まさか、待ったをかけられると思っていなかった逢坂は、は? と少し怒りの混じった声で、目を丸くして。
その瞳は、汐を捕らえて、放してはくれそうもなかった。
「それでも一緒に寝ようと言うお前の神経がわからん」
「だ、だってぇぇぇ……」
むすっとした表情でベッドに横になる逢坂の隣に、汐はいた。
プロポーズとも取れる告白を保留にされた逢坂は、それからあからさまに不機嫌で、まぁ、その気持ちも、わからないではないのだが。
「カノジョという立場は欲しいが、キスはしたくないって? どれだけ我儘なんだ、お前は」
「き、キス、したくないとは言ってないですっ」
ふん、と鼻を鳴らした逢坂に反抗するように言ったが、それは、キスはしてもいいですよ、とオーケーを出したも同然で、そのことに気づいた汐は、ぼんっ、と急激に顔を赤らめて、頭から布団を被った。
キャー、キャー、と布団の中でパニックになっていると、及川、と声が響いて、軽く、重みを感じた。
「キスは、してもいいのか?」
「……はい」
布団の中から、籠った声ではあるが、それでもはっきりと承諾の返事が聞こえ、逢坂は、布団越しに汐を抱き締める腕に力を入れる。
単純に、嫌がられているのではことが、嬉しかった。
「それ以上は?」
「……時と、場合によります」
じゃあ逆に、なにがイヤだったんだ、と頭を傾げると、もぞもぞと布団の中から顔を出した汐が、ひょい、と触れるだけのキスをして、また布団の中に隠れた。
「逢坂さんのことは、ちゃんと、好きです。ただ、結婚ってなると、ちょっといろいろ、心配で」
怖いんです、と震える声が届き、逢坂は、ぽん、と背中を撫でる。
同じ年齢の神楽坂のことを考えれば、逢坂は、結婚してもおかしくはない年齢ではある。
だが汐は、まだ就職して、数年しか経っていないことを考えれば、いささか、急いたことだったのかもしれない。
結婚と一言で言っても、汐は女性だから、どうしても仕事のことや家庭のことを考えざるを得なかったのだろう。
恋人としてのつき合いがあって、その先に結婚があるのはわかるが、そのつき合いをすっ飛ばして、いきなり結婚と言われても、実感も沸かないし、どうすればいいのか不安だった。
なるほど、と逢坂は、少しだけ口元を緩めて、ごろんと天井を仰いだ。
もっとゆっくり、行動していかなければいけなかったんだな、と反省しつつも、汐の距離の詰め方にも、問題があったように思えるが、そこは多分、汐だから仕方がないんだろうな、と諦めて、気長に行くことにした。
「……逢坂さん?」
逢坂が離れてしまったことに不安を感じたらしい汐が、恐る恐る顔を覗かせてくる。
くそ、かわいいな、と襲いたい衝動に駆られるが、逢坂は、ぐ、と拳を作り、ふー、と息を吐き出して落ち着こうとする。
「1つだけ、聞きたいんだが」
「はい?」
少しだけ首を傾げる仕草に、逢坂は、きっと自分の目がおかしくなっているのだと感じる。
なにをしても、かわいいと思うなんて。
「おまえ、経験はあるのか?」
「……はい!?」
まさかの質問に、汐は顔を真っ赤に染め上げた。
なんてこと聞くの、この人!? と喉まで言葉が出かかっていたものの、それを飲み込み、徐に布団の中に隠れる。
いや、でも、経験だけでは、なにを聞きたいのか、まだわからないじゃないか、と一縷の望みをかけて、思い切って聞いてみるが。
「け、経験って、何のですか!?」
「セックスだ」
「……っ」
本当に、この男だけは信じられない。
そんなこと、面と向かって、年頃の女性に聞くことではない。
バカバカ、と汐が布団の中で頭を悩ませるも、それに気づく風もなく、逢坂は、どうなんだ、と追及してくる。
「ないこともないですが、どちらかと言えば、ないですっ」
くっ、と唇を噛み、汐は答えるが、回答に不満だったのか、更に、どっちなんだ、と声が降ってきた。
だって、しょうがないじゃない! と汐は布団の中から、声を荒げる。
「し、シようと思った人も、ハジメテで、よくわからなかったみたいです!!」
早口に告げ、汐は、逢坂さんのバカっ、とつけ加えた。
女性の口から、なんてことを言わせるの!? と汐が沸騰する傍らで、そうか、と呟いた逢坂は、嬉しそうに布団ごと汐を抱き締める。
「な、なんですかー!?」
布団の中でジタバタもがいてみるが、逢坂には当然、敵かなうはずもない。
汐が布団に包まっているために見えないのをいいことに、逢坂は愛おしく、汐を抱き締める。
自分が経験しているのを棚に上げて、汐が未経験なのを嬉しく思った。
まぁ、経験があるとはいっても、本当に好きな相手とではなかったので、今後、もし汐とそうなることがあるのであれば、逢坂にとってもそれはハジメテとなるので、お互いだろう、と自分に都合のいいように解釈し、逢坂は布団越しに抱き締める腕に力を入れる。
そうこうしているうちに、ぷはっ、と息苦しかったらしい汐が、布団から顔を覗かせてくるのに、思わず、ちゅ、と軽く触れるだけのキスをすれば、目を丸くした汐が、なにかを言いたそうにしていた。
「寝ろ」
ふ、と口元に笑みを浮かべた逢坂は、なにも言わせないように、汐の頭を自身に引き寄せ、とんとん、と規則正しく背中を撫でる。
汐は、文句の1つも言ってやりたかったのだが、逢坂の心音を聞いていると、どうでもよくなり、あきらめたように、ゆっくりと目を閉じた。