ストーカーキューピット

5. お付き合いを始めます?

2

「お、逢坂さん……」

「うるさい」

「……」

 ぴしゃりと言われ、汐は、うう、と唸りながら、逢坂の肩に顔を隠した。

 裸足でアスファルトを駆け回った汐の足は、汐が思っている以上にダメージを受けていて、とてもまともに歩ける状態ではなかった。
 他は異常なかったため、午後には退院できたものの、移動の際は、逢坂は有無を言わさず抱きかかえてくれ、嬉しいやら恥ずかしいやらで、いっぱいだった。

 おまけに、と逢坂の肩口から背後を見れば、ものすごい目つきで、絃里が逢坂を睨んでいて、それも汐の気を重くさせた。

 だがそんな気持ちも、逢坂のマンションのエントランスを潜ったときには、どうでもよくなっていて。
 たった数日。それだけなのに、ひどく懐かしく思え、じわり、目尻に涙が滲む。

(……帰って、きたんだ)

 逢坂の腕の中で、今更かもしれないが、ようやく、それを実感できて、すとん、と汐の中に、なにかが落ちたのがわかった。
 すん、と汐が鼻を啜るのに気づいた逢坂は、少しだけ汐の肩を抱く手に力を入れ、自分の存在をアピールする。

 家の中に入れば、尚更、肩の力も抜けて、はー、と思い切り、息を吐き出した汐をソファの上に座らせて、逢坂はぐるぐると肩を回し始めた。

「すみません」

 重かったですよね、と小さく言えば、いや、と言ったあとで、くしゃり、汐の頭を撫でてくる。

「重たかったわけじゃない。普段使わない筋肉を使ったから、凝っただけだ」

 そういう逢坂の表情は、穏やかで。汐を、ほっとさせてくれた。

 そんな二人のやりとりに、すかさず汐の隣を陣取った絃里は、その存在を確かめるように、ぎゅ、と腕に絡みつく。

「ごめんね、絃里ちゃん。心配かけて」

「ホントです。私、うしおセンパイがいなくなったら」

 死んじゃいます、と涙を流す絃里に、汐は改めて、自分の浅はかさを悔いた。

 自分がケガをしたのは自業自得だが、みんなに迷惑をかけてしまったことは、謝罪の言葉しかない。

「なにはともあれ、無事でよかったよ」

 遅れてリビングに姿を現した神楽坂が、安堵の表情を浮かべる。

「俺も、そろそろ家に帰らなきゃいけないから、早速本題に入りたいんだけど」

 言いながら腕時計を確認するので、はい、と汐は背筋を伸ばした。

「貴島と別れたあと、及川さんはこのマンションの入り口で、眞山専務に拉致された。運よく逃げ出したところを上奥部長に発見され、病院に搬送。今に至る、ってことで、大筋合ってるかな?」

 はい、と頷き、言葉の羅列を考えると、我ながら、捕まったことは自身の責任であるにしても、逃げ出せたことや病院に連れて行かれたことを考えると、ついていたとしか思えない。

 まぁ、なんてラッキーガール、なんて手放しで喜ぶようなことはしないが、汐はこの場に相応しくもなく、そんなことがちらりと脳裏を掠めた。

「血相変えて捜してるだろうな、きっと」

「だろうね。せっかく捕まえた及川さんが、逃げ出して。流石に、同じへまはしないだろうから。ねぇ、及川さん?」

 神楽坂さん。それは、脅迫ですか、と聞きたくなるのを堪えて、はい、と小さく、返事をしてみる。
 同じへますんじゃねぇぞ、コノヤロウ、と言われている気分になったのは、きっと気のせいではないかもしれない。

 でも汐だって、バカじゃない。と、思いたい。
 あれだけ怖い思いをして、今後、一人で行動する気は更々ない。

 逢坂がタバコを手にベランダへ足を向けたのに気づき、神楽坂も後を追い、タバコに火を点けてから、汐の方を向いた。

「今後は貴島もいなくなるし、及川さんは長期の休みになってるから、せっかくなら……」

「え!?」

 神楽坂の言葉を遮るように、そう声を発したのは絃里で、本人も、自分が驚いて声を上げたのに気づいていなかったらしく、全員に注目されて、はっとする。

「す、すみません……。えっと、今の……?」

「長期の風邪で休みますって連絡があったんだよ。眞山専務からだと思うけど」

「あの、そっちじゃなくて……」

 その、と言い淀みながら、絃里が淳太に視線を投げたのに、ああ、と神楽坂は感じ取って、ばつが悪そうに俯く淳太に目線を投げた。

「貴島、異動はいつからだって? ちゃんと辞令はもらった?」

「……はい、昨日、帰りがけに。火曜日から出社するようにとのことで、月曜日の最終便のチケットまで手配されてました」

「でも、まだ支社はないんじゃないの? 新しく作るって聞いたけど」

「仮設事務所を用意してあるって言われました。しばらくはそこを拠点にするらしいです。建築予定ではあるみたいなんですが」

 不明確な言い方に、淳太もきっと、なにも教えてもらえていないのだろうことが窺える。

 辞令があれば、どんなに理不尽だろうとそれに従わざるを得ないのは、一社員として仕方のないことだ。

 そうなんだ、と頷く神楽坂とは対照に、絃里は愕然と、目を大きく開けたまま、動けないようだった。
 聞いてないです、と声に出したいのだろうが、今は汐のことが優先だし、ましてや淳太とつき合っているわけでもないのに、言われていないことに落ち込む方がおかしい。

 それでも、と絃里は知らず知らずのうちに、唇をキュッと噛み締めていた。

 あれだけ側にいて、あんなに何度も身体を重ねたのに、そういう大事なことを教えてもらえない関係って、なに!?

「私、帰ります」

「絃里ちゃん?」

 す、と生気を抜かれたような声を出したかと思えば、絃里はそれ以上なにも言わず、パタパタと駆け足で玄関へ向かった。

「松澤さんっ」

 淳太が慌てて追いかけようとするも、絶対に聞こえているはずなのに、振り向くことなく、駆け出していく。

 それを捕まえようと、淳太もあとに続くと、貴島、と逢坂から声が飛んできて、はいっ、と反射的に振り返った。

「今日は、もう来なくていいぞ」

「……え?」

 逢坂にしては珍しく、にっこりと笑顔を見せてくるのに、言葉の意味を瞬時に理解した淳太は、耳まで赤く染め上げると、失礼します、と慌ただしく出て行った。

「えー、及川さんと二人になって、なにする気ー?」

 淳太と同じく、逢坂の心理がわかった神楽坂が、意地悪く聞いてくるのに、うるさい、と拳で軽く殴る逢坂の顔も、ほんのり赤くなっていた。

「じゃあ、俺も邪魔みたいだから、かーえろっと」

 くつくつと笑いながら、そう言って背伸びをする神楽坂を、さっさと帰れ、と逢坂が後ろから蹴ろうとしている。

 え? え? と目を丸くしながら、汐はそんな二人のやりとりを見ていたのだが。

 じゃあね、と神楽坂が手を振って出ていくのをしっかりと見届けて、急に二人きりになってから、汐は、全身の血が逆流していく感じに見舞われた。

(えー、ちょっと待ってー!?)

 今? 今からそういう感じなの? だって、まだお昼だよ!?

 きゃー、きゃー、と汐が脳内で騒いでいるのを、逢坂はじっと見つめ、時折、ふ、と口元を綻ばせていた。

 目の前に、汐がいる。
 汐だけでなく、逢坂もまた、目の前にその存在があることがありがたく、心地いい気分だった。

 汐が両頬に手を添えて、ふと顔を上げると、穏やかな表情の逢坂と目が合って、瞬間、赤面する。
 なにも考えられなくなって、ただ目を丸くしていると、ゆっくりと逢坂が近づいてきて、汐の隣に座った。

 ぎし、とソファが軋み、自ずと肩に力が入る。

「眞山に、なにもされなかったか?」

 冷たい指先が汐に触れ、そう聞いてくるのに、汐は少しだけ肩の力を抜いて、ぼんやりと、良にされたことを思い返し、それを払拭するように、首をブンブンと激しく左右に振った。

「なにも、なかったわけではないですけど、思い出したくないから、なにもなかったってことにしててください」

「……そうか」

 逢坂は、ふぅ、と息を吐くと、汐の頭を引き寄せて、自身の胸に押し当てた。

 顔中を嘗め回されたことを思い出すと、吐き気がする。
 けれど、逢坂の心音を聞いていると、安らぎが汐を包み、落ち着かせてくれた。

 思い出したくないから、忘れる。
 そう決意していても、時折、あのざらりとした舌触りが顔を這っていた感触が思い出されるが、逢坂の心臓の音に、一掃されていく。

 そういえば、と密着している状況に、はたと気づき、汐は思い切り、逢坂を突き飛ばさんばかりに押しのけた。

「どうした?」

 急に、と驚いた表情の逢坂に、汐は、ごめんなさい、と顔を真っ赤に染め上げた。

「私、臭いでしょう!?」

「は?」

 言って、立ち上がった汐は、足の裏に全体重がかかった瞬間、激しい激痛に見舞われ、そのまま、前のめりにバタンと倒れ込んでしまい、ギョッとした逢坂が、慌てて駆け寄ってくる。

 すっかり、ケガをしていることを失念していた汐は、拳をカーペットに叩きつけながら、悶絶する。

「〰〰っ!!」

 言葉も出なくて、ダンダンとカーペットを殴っていると、床の硬さが、不意に柔らかいものに変わり、次の瞬間には、拳が温かいもので包まれていた。

「またケガを増やす気か?」

 ふぅ、と呆れたようなため息が聞こえ、汐がゆっくりと顔を上げれば、慈しむように逢坂が汐を見つめており、ドキン、と心臓が跳ねる。

「なにが、臭いって?」

「……だって、私」

 お風呂に入ってない。

 俯いて言えば、少しの間のあと、は? と心底意味がわからない、と言わんばかりの逢坂の声が聞こえてきた。

「そりゃおまえ、のんびり風呂に入ってる余裕なんてなかったんだから、当然だろ?」

「だ、だから、臭いんですって言ってるじゃないですかっ」

「そうか?」

 言いながら逢坂が抱き寄せようとするのを、汐は腕で距離を保ち、なんとか堪えるが、逢坂はその汐の腕さえなんなく避けてしまい、ぼすん、と逢坂の胸に顔を埋める結果になった。

「別に、臭くないぞ」

 すん、と匂いを嗅いでくるのに、ウソ! と反発して、汐は、良にされたことを吐き出した。

「だって、あんなに嘗められたのに、唾がいっぱい付いて気持ち悪かったのに、臭くないわけないじゃないですかー!!」

 わー、と大声で泣き叫ぶように汐が言った瞬間、ぴし、と空間が凍りついたような錯覚を感じ、ん? と首を傾げる。

「……嘗められた?」

 え、今、それに反応する!?

 声の低くなった逢坂に、汐は背筋が冷えていくのを感じた。

「あ、あのぅ……」

「どこを嘗められた?」

 えへ、とかわいく笑って見せるが、今の逢坂にそんなのが通用するはずもなく、平静を装いつつも瞳の奥は尖っているという器用な表情で、逢坂が聞いてくる。

「ど、どこって……」

 これは、どう答えるのが正解なのだろう。顔中舐められちゃいました、とあっけらかんと言えば、少しは逢坂も気を抜いてくれるだろうか。

 えーっとぉ、と迷いながら言葉を濁していると、逢坂が、業を煮やしたように立ち上がり、汐を肩に担いで歩き出した。
 汐が、うわっ、と声を上げるのも無視して、ずんずん歩みを進める先は、逢坂の家に居候していたから、わかる。
 バスルームだ。

「お、逢坂さんっ」

 下ろしてください、と肩越しに抗議してみるが、逢坂は素知らぬ顔を貫いて、そのままバスルームへと足を踏み入れた。

 腰を掴まれて、投げられる!? と懸念したが、流石にそれはせず、逢坂は汐をバスタブに座り込ませると、頭からシャワーを浴びせてくる。

「きゃぁ!?」

 冷たさに、思わず悲鳴を上げれば、次にはわしゃわしゃと両手で顔を擦られ、いくらなんでもあんまりじゃなかろうか、と汐が物申そうと開きかけた口を、なんの前触れもなく、いきなり塞がれた。

「……っ」

 呼吸もできないほどの口づけに、汐はドンドンと拳で逢坂の肩を殴る。
 だが逢坂は、それでも汐を放そうとはせず、汐が両手で逢坂を殴り始めたところで、ようやく、解放してくれた。

 はぁっ、と酸素が取り込めたことに安堵したものの、上から絶えず襲ってくる冷水に、汐は改めて、逢坂にひどい仕打ちを受けたのだと実感し、じわりと涙が滲んでくる。

「うー……」

 汐が泣き出したことでようやく、正気を取り戻したらしい逢坂は、シャワーを止め、バスタオルを手にわしゃわしゃと汐の頭を拭き始めた。

「すまん」

 見れば、逢坂はばつが悪そうに眉根を寄せており、反省しているらしいことが窺える。

「頭に血が上った」

 ごめん、ともう一度、かわいらしく言うのに、汐は怒っていた気持ちが、どこかへ飛んでいくのがわかった。

 それでもやっぱり、恐怖を感じたことに変わりはなく。

「怖かったです」

 言って、逢坂の肩を殴れば、逢坂はその手を取り、ごめん、とまた囁くように言葉を出して、今度はゆっくりと汐に唇を寄せてきた。
 汐が抗うことなくそれを受け入れると、逢坂は安心したのか、ギュッと汐を抱き締めて、はー、と肩の力を抜くように息を吐き出した。

 逢坂の鼓動を耳に感じながら、汐は目を閉じた。
 おそらく、逢坂は汐が良に嘗められたのが気に入らなくて、洗ってしまいたかったのだろう。

 やり方は決して褒められたものではないが、気持ちはわからなくもない。
 実際、汐だって、思い出してからは、石鹸でゴシゴシと洗ってしまいたかった。
 顔中を嘗められたあの感触を思い出すと、掻きむしりたくなる。良が触れた場所の皮膚を、全部替えられるのなら、どれだけ救われるだろう。
 すべてをキレイに洗い流せるものなら、洗い流してしまいたい。

 今だって、ズキズキと、そう切に願っている。

(……ズキズキ?)

 思いながら、ふと、自分で変な表現をしていることに気づいた汐は、そのズキズキの正体を知るや否や、途端に痛みが熱を帯びて襲ってくるという事態に陥り、悲鳴を上げた。