ストーカーキューピット
5. お付き合いを始めます?
1
汐は、暗闇の中にいた。
ここはどこなの、と声を出しても、それが聞こえてこないことにゾッとする。
周りを見渡しても、暗闇で何も見えない。
――怖いっ。
恐怖から、ギュッと目を瞑った次の瞬間、汐の目には真っ白な天井が映った。
「……」
はぁ、と少しだけ、息が上がっているのがわかり、夢の中で恐怖していたのだと気づいた。
ぴ、ぴ、という規則的な電子音と、ほんのり漂う薬品の香りに、言いようのない不安が消えていく。
そよそよと囁く風の音を直に感じたくて、窓の方へ顔を向けた汐は、これがまだ夢の中だと錯覚させられた。
「気分はどうだ?」
会いたくて会いたくて堪らなかった人が、そこに、いる。
汐は、過度の恐怖から、自分に都合のいい夢を見ていた。
「お……、さか、さ……ッ」
夢でもなんでもいい。とにかく汐は、逢坂に会いたかった。
ぶわ、と勢いよく涙が溢れ出し、汐の顔を濡らしていく。
「側にいてやれなくて、悪かった」
そんなの、今はどうだっていいです、と言葉にはできなかったが、汐は、首を左右に振って、なんとか答えようと必死だった。
体を動かそうとして、右手が点滴に繋がれていることに気づき、躊躇する。
左手を布団から出せば、逢坂は迷うことなくそれを取り、自身の口元に寄せられ、そこで汐は初めて、疑問を抱く。
……逢坂の手が、生温い。
「逢坂さん?」
「どうした?」
返事が、ちゃんと返ってくる。
汐は目を丸くして、逢坂さん、ともう一度名前を呼んだ。
「だから、どうした?」
「……」
本物? あれ? これ、夢じゃないの?
「お、逢坂さん?」
「いい加減にしないと、怒るぞ」
「……もしかして、幽霊?」
「阿呆、勝手に殺すなっ」
怒鳴られて、ぐい、と頬っぺたをつねられた汐は、段々と頬が痛んでくるのが嬉しくなって、そのまま口元を綻ばせた。
「喜ぶな、気持ち悪い」
「だって、逢坂さんなんでしょ?」
「だから、何度もそうだと言っている」
そうか。本当に、本物の逢坂なのか。
あれだけ会いたかったはずなのに、実際にそこにいると思うと、少しだけ気恥ずかしい。
汐は左手を伸ばすと、逢坂の頬に触れる。
「逢坂さんだ」
「ああ、そうだ」
へへ、と笑うと、汐の目尻から、涙が零れた。
逢坂はそれを優しく手で拭ってやると、そのまま汐の頭を撫でて、少しだけ息を吐き出した。
「無事でよかった」
「あ、それですよ。私、どうしてここに?」
キョロキョロと見渡して、ここが病院だということはすぐわかったが、汐はなぜ、自分が病院にいるのか、見当もつかなかった。
良から逃げて、その後の記憶が抜けている。
確か、誰かに肩を叩かれて――。そうか、その時に現実逃避したくて、気を失ったんだ。
「上奥部長が、裸足で走り回ってるお前を見かけて、声をかけたらしいんだが、お前が急に倒れたから、救急車を呼んで、そのまま病院に運んでもらったそうだ」
「それで、逢坂さんに連絡を?」
「いや、神楽坂だ」
本来なら、汐の家族に連絡を取るところだろうが、社外だったため汐の実家の連絡先がわからず、もしかしたら課長代理である神楽坂なら知っているかもしれない、との判断で、神楽坂に電話をかけてきたらしい。
たまたま神楽坂と一緒に逢坂がいたのが、幸いだった。
「上奥部長から電話をもらって、神楽坂と一緒にここまで来たんだ。今朝方、二人には帰ってもらったが」
「逢坂さんは、帰らなかったんですか?」
「帰って欲しかったのか?」
そうじゃないですー、と汐は頬を膨らませる。
目が覚めて逢坂がいたことに、どれだけ汐が救われたかなんて、知らないでしょう、と文句を言ってやりたい。
「残ってて、悪かったな」
「だから……っ」
違うってば、と声を上げようとしたが、それより先に、逢坂の顔が汐に近づいてきて、言葉をつまらせた。
俺が、側にいたかったんだ。
囁いて、目元に落とされた唇に、汐はまた、涙腺が緩む。
(なによ、それ)
嬉しいですよ、バカ。口には出さずに目で訴えてみると、それに気づいたのか、逢坂は口元に笑みを零し、触れるだけのキスをしたあとで、あ、と目を丸くした。
「……悪い」
目の前に、唇があったから、なんてとんでもない言い訳をして、逢坂は立ち上がると、汐から視線を反らすが、その言い訳に、汐はカチンとくる。
「目の前に唇があったら、サルにでも吸いつくんですか、逢坂さんは?」
「そんなわけないだろう」
常識で考えろ、と怒気を帯びた声で言われるが、こっちだってそんなの、知ったこっちゃない。
あんな言われ方、汐に失礼だとは思わないのだろうか。
「もう、いいです。ついててくださって、ありがとうございましたっ」
逢坂の物言いに沸々と怒りが込み上げ、汐はひと息でそれだけ言うと、頭から布団を被った。
嬉しかったのに。目が覚めて、逢坂がいてくれて。キスだって、別にイヤじゃなかった。
汐が逢坂に会いたかったのと同じように、逢坂も会いたいと思っていてくれて、それで、うっかりでもなんでも、汐とキスしたいという気持ちがあってそうしてしまったっていうのなら、汐にだって気持ちはわかるし、怒るつもりもない。
それなのに、目の前に唇があったからって、そんな理由、あんまりではないだろうか。
ふぅ、と大きなため息が聞こえ、汐はびくっと身を竦ませる。
そのまま、カツカツと足音が聞こえ、戸の開閉がわかり、慌てて布団から顔を上げると、穏やかな表情をした逢坂が、病室の入り口に立っていた。
「お、逢坂さ……」
「及川」
汐が呼ぶのを被せるように名前を呼ばれ、思わず、はい、と従順に返事をする。
逢坂はゆっくりとベッドに近づくと、汐に近い位置で腰かけ、そっと頬に触れた。
「キスしてもいいか?」
「……」
質問とほぼ同時に、逢坂は顔を汐に近づけてくる。
汐の返事なんて、きっと確認するつもりもなかったのだろう。
近づいてくる逢坂に、汐が受け入れようと目を閉じた瞬間、ガンッと引き戸が当たる音が室内にこだました。
「いいわけないでしょー!!」
◇ ◇ ◇
「俺は、止めたんだけどね」
松澤さんには、無理だったみたい。そう笑いながら言う神楽坂をちらりと見て、はぁ、と深く息を吐いた逢坂は、くしゃり、と頭を掻いた。
「せめて、あと5秒待って欲しかったがな」
「その5秒を、待てなかったんだろうね」
くすくすと笑う神楽坂に、また、ため息が出る。
「俺は、松澤に呪われているのかもしれん」
そういえば、と以前にも、と邪魔をされたことを思い出しながら、逢坂はタバコに火を点けた。
一度自宅に戻った神楽坂は、淳太に汐が見つかった旨を連絡すると、すぐにでも病院に行きたいと言われ、着替えだけをさっと済ませて、淳太の家まで迎えに行き、病院に戻ってきた。
病室の前で、逢坂と汐の会話が聞こえ、邪魔しないように、と聞き耳だけを立てているつもりだったのだが、逢坂の、『キスしてもいいか?』に、居ても立っても居られなくなった絃里が、迷うことなく、病室に突進したのだ。
「松澤さんは、及川さんが大好きだからねぇ」
親よりも、松澤さんを落とす方が、難しそうだね、と既婚者の神楽坂が、楽しそうにそう言ってくる。
自分は一度、その山を乗り越えたから、と思っているのかもしれないが、冗談じゃない。
普通は、親だけなんだ。
その前は、普通はないんだ、と文句を言ってやりたいが、言ったところでどうなるわけでもないので、黙して、またため息を零した。
「ところで、さ」
タバコの火を消した神楽坂は、うーん、と背伸びをしながら、逢坂を向いて、声をかける。
「どうするの、これから?」
「……」
正直、じっとしていろと言われても、じっとなんてしていられないのが、汐である。
逢坂の家に一人で待っていろと言っても、無理かもしれない。
「九州に、連れていく」
「まぁ、それがいいんじゃない? 幸い、長期の風邪で、休みをもらってるんだし」
神楽坂にしては、嫌みと感じ取れる言い方に、おっと目を丸くする。
まぁでも、言いたくなる神楽坂の気持ちも、わからないでもない。
来週からの仕事に、頭が痛いだろうから。
「おまえの家に、置いてもらおうかとも思ったんだがな」
逢坂の不在中、またなにがあるかわからない。その点、神楽坂の家には、嫁と子供がいる。
汐の家に忍び込んだ良も、さすがに、まったくの他人の家に侵入したりはしないだろうと思ったのだが。
「逢坂が、無理なんだろ。離れてるのが」
「うるさい」
小馬鹿にしたように言えば、少しだけ頬を染めて、そっぽを向いた逢坂を、学生時代、誰が想像できただろう。
珍しいもの見たさで、当分はからかってやれるな、と思いながら、神楽坂は腕時計を確認する。
「そろそろ病室に戻ろう。その件も含めて、今後のことを話さなきゃいけないだろうし」
「そうだな」
神楽坂が仕切るように言い、逢坂は、ふ、と口元を綻ばせながら、そのあとについていく。
今後、良がどういう手段に出るのかわからないが、もう二度と、汐が攫われることのないように。
というか、そもそも、今回の件は、汐が淳太から離れ、一人で行動しなければよかっただけなのだとは思うのだが。
逢坂は、まったく、学習しないな、と少し呆れながら、今度こそ、口を酸っぱくして教え込まなければ、と使命感に燃えていた。