ストーカーキューピット
4. うっかり攫われました
5
『及川、来てるか?』
自分のデスクに着いて早々、神楽坂の携帯を鳴らしたのは逢坂だった。
キョロキョロと部署内を見渡して汐の姿がないことを確認した神楽坂は、来てないよ、と逢坂に答えながら、今くぐったばかりのドアをもう一度通り、喫煙室へと足を向ける。
夕べ、汐が逢坂の家に戻っていないことは、淳太から連絡を受けていた。
行こうか、と聞いたが、自分たちもすぐに自宅に帰るとのことだったので、夕べはそれ以上動くこともなく、神楽坂も家に待機していた。
「なにかあれば、すぐに連絡入れる」
『……頼む』
はー、と重く息を吐き出した逢坂に、神楽坂は少し目を丸くした。
汐とのことは聞いていたとはいえ、いささか驚いた。他人に興味なんて、まったくないのかと思っていたが。
どうやら汐は、その他人には含まれないらしいことがわかり、ふ、と顔を綻ばせる。
「驚いた。ちゃんと、好きだったんだ、及川さんのこと?」
『うるさい』
ふん、と携帯の向こうで、カチリ、とライターの音がして、神楽坂は、はは、と声を上げて笑った。
「なんで。いいことじゃん。俺、逢坂は幸美さん以外好きになれないんだと思ってたから」
『……何年経つと思ってんだよ』
「だよなぁ」
言いながら、ふと高校時代を思い返す。
そうか。あれからもう、10年以上経つのか。そう考えれば、逢坂との付き合いも、長いものになったんだな、と急に感慨深くなった。
『まぁ、実際』
遠慮がちに逢坂の声が聞こえ、うん? と声を返せば、ふー、と息を吐いたあと、逢坂は口を開いた。
『幸美に紹介するまでは、そこまでじゃないと思っていたんだが。案外、すんなり紹介できて。俺も、ビックリした』
「紹介? したの? 及川さんを? 幸美さんに?」
こいつは驚いた、と言わんばかりの神楽坂の食いつきに、なんだよ、と不満そうな逢坂の声が届く。
いや、だって。それは、驚くだろう、と当然のように言えば、だよな、と情けない返事が聞こえ、神楽坂はそれにも泡を食らったように、逢坂には見えないだろうが、ぽかん、と口を開けた。
中学の頃、父親の再婚で初めて幸美を見たときは、さすがに周りにいた女が子供だったからか、すごく大人の女性に見えて、それからしばらく、幸美以外の女を、異性として感じることができなかった。
高校に入ってからも、やっぱりそれは続いていて、告白されて付き合い始めた彼女と出かけた際、偶然幸美に会ったときに、幸美に勘違いされるのが嫌だったことを今も鮮明に覚えている。
彼女なのに、勘違いもなにもねーよ、と当時、神楽坂に諌められ、なるほど、と彼女に対する位置付けが、あのときに決まった気がする。
今まで付き合ってきた彼女とは、一緒に出かけるし、泊まりもするが、幸美には紹介できなかったことが、なによりの証拠だろう。
きっとそれほど、彼女たちのことを好きではなかったのだと思う。
神楽坂もそれを知っていたからこそ、汐を幸美に紹介できたということに、驚きを隠せなかったのだ。
2年ほど前から、汐のことが気になっているのは知っていたが、これほどまでとは思わなかった。
てっきり、『あの子、優しくてかわいいなぁ』程度だと。
逢坂自身、初めはそうだったのかもしれない。
汐と出かけたときに、偶然幸美に会って。すんなりと紹介できたのは、逢坂の中で、汐がちゃんと、恋人の枠内に収まったからなんだろうな、と感じていた。
嫌われてはいないだろうから、きちんと繋ぎ止めておかなければ、と勝手に思っていたあたり、逢坂も十分、ストーカーっぽいな、と自覚しており、眞山にそれを指摘され、うっかり、そうなのか、と思った自分もいたのだが。
汐が、逢坂を追いかけてくれている様子だったことが、純粋に、嬉しかった。
逢坂さん、と逢坂の名を呼び、泣きながら電話をかけてくれることが嬉しくて。
汐が泣くのがかわいくて、いじめたくて。
けれど今は、それを後悔している。
きちんと説明して、会社を辞めてもらってでも、一緒に九州に連れてくるべきだった、と。
◇ ◇ ◇
――及川。
耳元で、声が聞こえる。
――及川。
汐を呼ぶ、声がする。
誰、とぼんやり目を開けば、会いたかった男が姿が映り。
逢坂さん、と声を出そうとすれば、瞬間、鈍い痛みが汐を襲った。
「……ったー」
ずきん、と痛む後頭部を押さえれば、大丈夫? と心配そうな声と共に、冷たいタオルを当てられて。
逢坂さん、と声をかけようとして、声が違うことに気がついた。
「うしお?」
心配そうなその声に、反応してあげたい気持ちもあるが、その声の主を否定する自分がいて、どうにも顔を上げられない。
「ちょっと、コブになってるね」
ごめんね、と汐の手を退けて後頭部を擦る手に、ぞっとはするものの、どこか懐かしさを覚え、汐はようやく、ゆっくりと顔を上げて、良の心配そうな表情を瞳に入れた。
「思ったより、力が入っちゃったみたいで。まぁ、僕も痛かったんだけど」
言いながら、良は自分の額を撫でるので、どうやら汐は、良に頭突きをくらわされたらしいのだと気付き、普通、好きだと言っている女に頭突きなんかするかな、と半ば呆れながら、室内を見渡した。
うん、知らない。汐は思うと、ごくり、喉を鳴らして、徐に良に視線をやった。
にっこりと微笑む良には、悪意の欠片も見られない。
どうして、と声に出ていたかはわからないが、汐は、少しだけ良から体を離して、じっと良を見据えた。
「好きだから」
当然のように言われ、ぐ、と言葉に詰まる。
好きだったら、なにをしてもいいわけじゃない。言いたいのに、声にならない。
「一緒にいたいんだ」
「……」
ああ、本当に。逢坂と出会う前だったら、汐も、素直に喜べたかもしれない。
一人の女として、好意を寄せられて、嫌な気がする人はそうそういないだろう。
けれど、状況が違う。
好きだから、家に帰ってこないからって、それに腹を立てて、勝手に家に入り、家を荒らしていいわけがない。
そのことに、どれだけ恐怖を感じたかなんて、わからないでしょう、と罵ってやれればいいのに、恐怖からか、なんなのかわからないが、言葉が出てこない。
今はただ、逢坂に――。
逢坂に、会いたい。
「……家に、帰して」
逢坂の、とは言わずに、汐は良を睨むが、良はケロリとした様子で、いやだよ、と返事をしてくる。
「そしたらうしお、逢坂の家に行っちゃうでしょ?」
「……」
当たり前じゃない、と言いたいのを我慢して、キュッと唇を噛めば、それを止めさせるように、口の間に良の指が滑り込んでくる。
「キズ、作らないで。僕のうしおに」
「……」
口に入り込んでいた他人の指の感触に吐き気を覚え、汐がすぐに口を開けば、良は今しがたまで汐の口の中に入っていた指を、汐に見せつけるように、舌を出して舐め始めた。
(いやだ……っ)
厭わしく、ぞわぞわと背筋からなにかが這い上がってきて、汐が目を背ければ、それが気に入らなかったのかなんなのか、良は汐の顎を掴み、無理矢理に視線を合わさせた。
「僕を見てよ、うしお。僕はいつだって、うしおだけを見てるのに」
「……」
どう表現すればいいのか、よくわからない。
ただただ、良が気持ち悪くて、でも大切な幼なじみ相手にそんなことを思う自分もイヤで、どうすればいいのかわからず、ゆっくりと、汐の頬を涙が伝う。
「泣かないで」
ペロリ、と犬がするように、良は涙が通ったあとを舐める。
何度も何度も、執拗に。
「好きなんだ、うしおが」
ひとしきり汐の顔を舐めた頃には、もう汐から涙は流れていなかった。
虚ろな瞳で、焦点さえ定まっていない汐を抱き締めて、良は壊れ物でも扱うように、優しく、汐の髪を撫でる。
「愛してる」
「……」
一体、どこまでが現実なのだろう。良が今言ったセリフは、逢坂から聞きたい言葉のはずなのに。
こうして汐が抱き締められたいのは、逢坂だったはずなのに。
「早く結婚して、僕の子供を産んで欲しいな」
幸せそうに、汐の耳元でそう囁かれるのは、恋人からであったならば、嬉しくて仕方のない言葉だろうと思うのに。
どうして、それを全部汐にくれるのは、逢坂ではないのだろう。
「うしおはね、悪い夢を見ていたんだ」
「……ゆめ?」
そうだよ、と目元にキスをして、良はまた汐を抱き締める。
「ストーカーに付き纏われて、大変な思いをしたんだよ」
「……すとー、かー」
ぽつり、言葉に出せば、でももう大丈夫、と良は汐の両手を握り、笑顔を見せた。
「僕が、うしおを守るから」
言って、良は汐の唇に、自身のそれを寄せた。
――好きだよ。
いつだったか言われた言葉が、瞬間、汐の脳裏に蘇り、汐は目の前の良を勢いよく突き飛ばした。
予想外だったのか、わっ、と声を上げてベッドから落ちた良は、そのまま床に頭を強く打ちつけたのか、動かない。
(ストーカーは良ちゃんで、逢坂さんは、違うでしょ!!)
うっかり良に飲まれてしまいそうになった汐は、ぱんっと両手で頬を叩くと、よし、と気合を入れる。
恐る恐る良から離れると、汐は入り口らしいドア目がけて一直線に走り、迷うことなくそれを開けた。
(逃げなくちゃ……っ)
右を見ても左を見ても廊下が続いており、汐は咄嗟に、左側の通路へ走り出した。
階段を見つけ、下へ下へと走っていく。
何階分下りたのかはわからないが、ロビーが見え、汐は後ろを振り返ることなく外へと走り、愕然とする。
そこは、まったく見覚えのない場所だった。家からどれほど離れているのかもわからない。
昔から、実家近辺だけがテリトリーだった汐にとって、勘だけが頼りだったが、他に頼れるものもないので、ごく、と唾を飲み込んで、とにかく人通りの多そうな方へと足を動かす。
駅に着けば、どうにかなるかもしれない。
行き交う人が、裸足でアスファルトを蹴る汐を訝しげに見ていくが、そんなのに構える余裕もなく、息を切らし、とにかく走った。
(逢坂さん、逢坂さん……!)
走りながら逢坂を思い、涙が込み上げてくる。
携帯があればすぐにでも連絡できるのに、機械に慣れすぎてしまった所為で、携帯がなければ連絡先もわからない。
「……っく」
涙を止めたくて唇を噛むが、汐の意に反してどんどん溢れてくる。
汐は立ち止まり、乱暴に腕で涙を拭うが、良から逃れられた安心感と、いつまた良に見つかるかわからない不安で、涙は止まってくれず、仕方ない、と涙を流したまま、また走ることに決めた――そのとき。
ぽん、と誰かに肩を叩かれた汐は、瞬間、血の気が引くのを感じた。