ストーカーキューピット

4. うっかり攫われました

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 ピピピ、と鳴り響く携帯のアラームを止めようと手を伸ばし、伸ばした先の柔らかい感触に、慌てて体を起こせば、狭いシングルベッドに眠る絃里の姿が目に入り、そういえば、と淳太は昨夜のことを思い出した。

 昨夜、苺森の駅で汐と別れてから、15分ほどで絃里が到着し、二人で逢坂の家を目指した。
 ところが、逢坂の家に着いて、何度呼びベルを鳴らしても汐は出てくる気配を見せず、携帯も繋がらない。

 まさかと思い、逢坂に連絡を取ると、逢坂はすぐに大家に連絡を取ってくれ、大家が持ってきたスペアキーで室内に入ることはできたのだが、案の定、もぬけの殻。

 やられた――、と気付いたのは、汐と別れてから、2時間が経過したときだった。

「松澤さん」

 軽く、絃里の体を揺すってみれば、ううん、と色っぽい声が漏れると同時、布団から玉膚が視界に入り。
 途端に、下半身が意識を持ち始めてくる。

 朝から元気なヤツめ、と自身を叱責しながら、絃里を起こさないようにそっとベッドから抜け出て、浴室へと向かい、頭からシャワーを浴びて何とか熱を冷まさせようとしてみるものの、一度熱を帯びたソコは、なかなか落ち着く様子を見せてはくれない。

 我慢、我慢、と呪文のように頭の中で何度も唱え、見ればわかるそれを見ないようにして、淳太は浴室をあとにした。

 頭を雑にバスタオルで拭きながら、今度はカチャカチャとコーヒーを淹れる準備をする。
 前に一度泊めた際は、ここまでなかったのに。どうしたって、今日に限っては、こんなに絃里を意識してしまうのだろう。

 汐がいなくなった事実に気付いた瞬間、泣き崩れた絃里をタクシーに乗せ、なんとか家まで連れ帰ったものの、それからが大変だった。

 泣き止んでくれないと思ったら、今度は抱いてほしいとせがまれて、けれど最中にずっと泣いているもんだから、止めようとすれば、止めないでほしいと言われ、泣いている絃里を、絃里が望むまま、何度も抱いたのだが。

 やばいなぁ、と昨夜の光景が頭の中を駆け巡り、しみじみと淳太は思う。
 泣いている女の子を抱いて、その姿がキレイだったなんて、とんだドSじゃないか。

 いや、落ち着け、と淳太は深く息を吐きながら、沸騰したばかりのお湯をカップに注ぎ、すぐさまコーヒーを口に運べば、当然のことながら、熱湯が注がれたばかりのそれは、常人の舌に耐えられるはずもなく。

「あちっ」

 勢いでカップを落としそうになるものの、なんとか流しの横に置き、今度は蛇口に頭を寄せて、水道水で舌を冷やす。
 朝から変なことを考えて、火傷するなんて、本当、情けない。

 しばらくのあと、淳太は水を止めて、肩にかけたままのバスタオルで口元を拭くと、ゆっくりと絃里に近付き、ベッドに腰かけた。

 さっきは気付かなかったが、絃里の目元はすっかり腫れ上がり、いつもキレイに化粧をしている絃里とは到底、似ても似つかなかった。
 昨夜の様子からも察せられるが、よほど、汐がいなくなったのが堪えたんだろう。

 本当に、どうして汐を一人にしてしまったのか。

「……はぁ」

 汐がいなくなったのは、確実に、淳太の責任である。あれほど、気をつけるように言われていたのに。

 汐がいなくなったと報告したときの逢坂は、ひどく落ち着いていた。近くにいなかったからなのか、よくわからないけれど、あれだけ落ち着き払っていると、逆に、次に会ったときが怖い。
 逢坂は、九州支社への異動が決まった際、淳太に汐を託して行った。それは淳太を信用していたからだし、信頼していたからだ。

 それなのに、結果、これだ。汐が、いない。

 最初はコール音がしていた携帯も、22時を過ぎる頃には、電源を切られていた。
 今なら繋がるだろうか、と淳太は枕元に置いてある携帯に手を伸ばし、汐にかけてみるが、変わらず、電源は切られたままだ。

 はぁ、とまた、深いため息が漏れる。
 もしも汐が拉致られたわけでないのなら、何食わぬ顔で、会社に来るはずだが。

 あいにくと、その可能性は低いだろう。眞山に狙われていると周りが知っている状況で、さすがに汐がボケているとは言っても、急にいなくなるはずがない。
 そこは、分別がついているはずだろうから。

 ふと、時計に目をやって、そろそろ本気で絃里を起こさないと間に合わなくなると気付き、淳太は肩口から、松澤さん、と声をかける。

「仕事、遅刻するよ」

「……休みます」

「いや、ダメでしょ」

 社会人なんだから、と言えば、絃里は黙ったまま、のそりと体を起こした。

「コーヒー飲む?」

「……ココアがいい」

「ないよ、そんなの」

 男の一人暮らしで、と立ち上がろうとすれば、ぐい、と首にかけてあるバスタオルを掴まれて、淳太が元の位置に戻れば、ゆらり幽霊のように、絃里が首筋に腕を絡めてきた。

「おはよう」

 まだ、落ち込んでるんだろうなぁ、と絃里を気遣って汐の件には触れず、そっと頭を撫でてやれば、おはよ、と小さく、声が返ってきて、絡めている腕に、一層、力が入る。

 ああ、失敗した、と淳太は本気で後悔していた。シャワーを浴びた直後、スーツに着替えておくべきだった。
 Tシャツさえ着ていない今の淳太に、一糸まとわぬ絃里が抱き着いてくるのは、想定外だった。

 こんなの、襲われないほうがおかしいだろ、と誰にでもなくツッコみたくなったが、誰に文句を言えるでもないので、ただ黙って、意識を逸らしつつ、絃里の頭を撫でる。

 ……これは一体、なんの苦行だろう。

 頭を撫で続けていれば、段々と絃里は淳太との距離をなくして行き、しまいには淳太の足の上にしっかりと座っていた。
 短パンを履いていたのが、せめてもの救いかもしれない。

「……でんわ」

「え?」

 聞き逃してしまいそうなほど小さな声が聞こえ、淳太は思わず聞き返した。

「なに? 聞こえなかった」

「……うしおセンパイから、電話とか」

 なかったですか、と語尾は本当に聞こえなかった。

 言葉の意図を知り、ああ、と淳太は曖昧に頷いて、ないよ、と言いづらそうに答えれば、絃里は急に顔を上げ、無理矢理に自分の唇を淳太に押しつける。
 それはもう、愛のある行為ではなく、本当にただ、押しつけているだけで、ただ気を紛らわそうとしているのがありありと感じ取れた。

「ま、松澤さん……っ」

 ぷはぁ、と呼吸をすると同時に声を上げるが、それを無視して、今度は淳太の肩に吸いついてくる。
 チクリと痛みを感じたので、キスマークをつけられたことはわかったが、今はそれをどうこう言っている場合ではない。

「松澤さん!」

 淳太の声には応じず、絃里は淳太の肩から胸へと舌を滑らせて、淳太の意識を持っていこうとするが、さすがに、これで流されるわけにはいかない、と淳太も必死だった。

「……しよ?」

 淳太の胸元から、上目遣いに、絃里が言ってくる。

 本当に、なんの修行なんだ、これは!

 煩悩と戦いながらクラクラする頭を押さえ、淳太は必死でシーツを掴むと、勢いよくそれを引き寄せて、ぐるぐると絃里に巻きつけた。

「しません!」

「……」

 はー、はー、と高ぶる息で強く言えば、絃里は一瞬、目を丸くしたものの、ふーん、と冷たい視線を向け、ベッドから降り立って巻きつけられたシーツを荒々しく剥ぎ取ると、淳太に投げつけた。

「不能!!」

「……え?」

 思ってもいなかった悪口に、思わず呆気に取られた淳太は、ぽかんと口を開けたまま、絃里がバスルームへ消えるのを、黙った見ていたのだが。

 いやいやいやいや、待て待て待て待て。

 冷静になり、淳太は絃里を追いかけて浴室へ向かうと、なんのためらいもなく、バタンとその戸を開けた。

「俺、不能じゃないよね? ちゃんと勃ってたでしょ、夕べ?」

「……」

 なんの心配をしてるんだか、と呆れ返った表情の絃里に、淳太ははっとした。
 普通、女性がシャワーを浴びているところに、堂々と姿を現していいはずがない。

 状況の悪さに気付いた淳太は、慌てて浴室の戸を閉めたものの、その瞬間に、変態っ、と怒声が聞こえ、今のは確かに、自分が悪かった、と反省しつつ、とぼとぼと台所へ足を向けた。

 ぽりぽりと頭を掻きながら、さて、と絃里の言葉を思い出す。
 ココアはないが、せめて、甘いカフェオレくらいなら作れないだろうかと、思い立つ。

 普段ブラックでコーヒーを飲む淳太は、ミルクを常備していないが、豆乳なら最近、健康のために飲み始めたので冷蔵庫の中に置いてあるのを思い出し、絃里がシャワーから上がる前に、といそいそと鍋に豆乳を注いだ。

「……いいにおい」

 ぽたぽたと髪から雫を落としながら絃里が台所へ姿を現したので、淳太は火を止め、できたばかりの豆乳コーヒーをカップに注ぎ、それを持ったまま、おいで、とベッドの傍らにあるテーブルへ置いた。

 絃里が匂いにつられるように淳太のあとをついて行くと、ベッドに腰かけた淳太が、その前に座るように促すので、言われるまま、淳太の足の間に体を滑り込ませれば、後ろから、わしゃわしゃと少し乱暴に、頭を拭かれる。

「風邪引くよ」

「……」

 言葉に、はらり、涙が零れる。
 汐がいなくなって、とてもじゃないが、平静でなんていられなかった。
 淳太がいなかったら、今もきっと、ベッドから起き上がることさえできなくて、突っ伏したままだったろうと思う。

 夕べも、泣いている絃里を気遣ってくれ、家に連れて帰ってくるときも、抱かれているときも、そのあとも、ずっと優しかった。
 気を紛らわせたくて、抱いてほしいと言ったのに、思いの外、淳太の腕の中が落ち着けて、なおさら、涙が止まらなくなって、それで余計に淳太が心配してくれて。

 今まで、相手の独りよがりな交わりしかしてこなかった絃里には、そんな淳太の態度が、ひどくありがたかった。

「……ごめんなさい」

「ん?」

 不意に聞こえてきた謝罪に、淳太は絃里の頭を乾かす手を止めて、ひょい、とその顔を覗き込むと、絃里は少し気まずそうに、眉尻を下げていた。

「どうしたの?」

「……いろいろ」

 ふい、と顔を背けた絃里の、髪の隙間から見えた耳が真っ赤に染まっていて、絃里が謝罪の言葉を口にするのにどれだけ勇気が入ったのかが窺える。

 それが堪らなくかわいくて、淳太は後ろから、絃里を抱き締めた。

「大丈夫だよ、及川なら。絶対に」

 自分にも言い聞かせるように言えば、うん、とか細く、声が返ってきたのを確認すると、ところでさ、と淳太はベッドから下り、絃里を向くように隣に正座をした。

「俺、夕べ、勃ってたよね?」

「……」

 真剣な表情でそう聞いてくるのに、よほど、『不能』の一言が堪えたのだとはわかるのだが。

「……信じられない」

 それは今、どうしても再確認すべきことだったの、と思わず、顔を顰めずにはいられなかった。