ストーカーキューピット

4. うっかり攫われました

3

「終わったか?」

 コトン、とカフェオレの缶を机に置きながら、淳太がそう聞いてくるのに、まだよ、と小さく返事をして、汐は缶のプルタブを起こした。

「私、こんなに仕事溜めたつもりはなかったんだけど」

「逢坂さんの仕事が、回ってきてるもんなぁ」

 仕方ないだろ、と冷たく言われ、汐は、くぅ、と喉を鳴らして、開けたばかりのカフェオレを口に流し込む。

「神楽坂さんの、鬼」

 ぽつり、呟けば、瞬間、ひやっと気配を感じた。

「その鬼に、及川さんを託していなくなったバカがいるんだよ」

 誰のことだろうね、と背後から声が聞こえ、すみません、と肩を竦める。

「逢坂の仕事を、俺だけが負担するのなんて、納得できないと思わない?」

「……そうですね」

 神楽坂の言葉に同意しつつ、汐はカフェオレに口をつける。

 もっともだけど、と思いながら、それでも私に仕事を回さなくてもいいんじゃないか、と心の中で毒付いていると、神楽坂がそれに気付いたのか、とりあえず、と口を開いた。

「今日はそこまででいいよ。片付けて、帰ろう」

「はーい」

 やっと帰れる、と無意識に明るく返事をして、いそいそと机上を整え始める汐を見ながら、神楽坂が、ところで、と自分のデスクに行きながら声をかける。

「及川さんて、逢坂の家に泊まってるんでしょ? 一人で?」

「いいえ、淳太と絃里ちゃんも一緒ですよ。なんなら、神楽坂さんも泊まります?」

 なんてね、と自分の家のように言うと、そうしようかな、と予想外の返事が飛んできた。

「そうなると、本当に、誰の家だかわからなくなるね」

 笑いながらそう言うのに、なんだ、冗談か、と安堵しながら、端末がシャットダウンされたのを確認してバッグを手にすると、いつの間に自分のデスクから戻ったのか、入り口で、淳太と神楽坂が待っていた。

 お姫様のような扱いにくすぐったい気持ちになりながら、汐はぱたぱたと二人の元へ急ぐ。

「逢坂、いつ帰ってくるの?」

「早ければ、明日です。遅くても、土曜の朝には帰ってくるって」

 言ってました、と言葉にして、嬉しそうな神楽坂の表情に、一瞬で顔が赤くなる。

 そっかそっか、となにを考えているのか、心底、楽しそうに見える神楽坂に恥ずかしくなりながら、はい、と俯いて、そっと右手で自分の頬に触れると、案の定、熱くなっていた。

 なんだろう、この面映ゆい感じは。

 神楽坂の、なんとも言えない表情に、少し言葉を慎もう、と汐は決心して、小さくため息を吐き。話題を変えるように、淳太の袖を引っ張りながら、声をかける。

「ねぇ、絃里ちゃんは?」

「家に帰って、着替え取ってくるって」

 着替えか、とぽつり呟いて、絃里にも随分と迷惑をかけているなぁ、としみじみ思い、感謝する。

 眞山の件が落ち着いたら、なにか美味しいものでも食べに行こう。淳太と、逢坂も誘って。
 でもそうなると、神楽坂も、巻き込まれてしまったのだから、誘わないわけにはいかないだろうか。
 ああ、だけど、かのんにも迷惑をかけている。

 一人でこの人数の食事代を持つとなると、一体、いくらかかるだろう。
 居酒屋……は、絶対に値段が上がるから、そうだ、ファミレスにしよう。

 うんうん、と一人納得して頷いていると、淳太が怪訝そうな目で汐を見ていた。

「不気味だぞ、おまえ」

「う、うるさいな」

 ふん、と顔を背けた先で、神楽坂と目が合い、思わず、にへら、と笑って見せると、ぽん、と頭を撫でられる。

「逢坂が及川さんを好きになったの、わかる気がするなぁ」

「へ?」

 そんな意味深な言葉を汐に投げかけるも、どういう意味ですか、と問わせない雰囲気を醸し出している神楽坂に、汐はなにも言えず、黙ってあとをついていく。

「貴島と松澤さんて、付き合ってるの?」

「いえ、まだ」

 不意に神楽坂にそう問われ、咄嗟に反応して答えた淳太は、自分で言っておきながら、『まだ』という単語に違和感を覚えたのか、気まずそうに下を向いた。

「じゃあ、付き合う予定なんだ?」

「……いえ、たぶん、違います」

 はっきりしないね、と言って、神楽坂は汐にもしたように、淳太の頭を撫でると、さすがに男にするべきではないと思ったのか、すぐに手を退けた。

「ところで、帰りはどうするの? 電車?」

「電車ですよー。淳太、絃里ちゃんは、迎えに行くの?」

「苺森の駅で待ち合わせてる」

 神楽坂の言葉に答え、そのまま淳太に確認すると、淳太はさらりと答えたあとで、少しばつが悪そうに眉根を寄せた。

「……付き合ってないんだよね?」

「……あっちのゴーサインが出ないんだよ」

 確認するようにそう汐が問うと、淳太は至極情けない顔で、なんなんだろうな、とため息を吐いた。

「淳太は、好きなの? 絃里ちゃんのこと」

「好きっていうか。大事にしたいな、と思ってる」

 そう言ったあとで、淳太はまっすぐに、汐に視線をぶつけてきた。
 きょとん、とそれを受け止めていた汐だったが、段々とその眼差しが嫌になり、目を背けると、そう言えば、と話を変えるように口を開く。

「神楽坂さんが私のこと知ってるって、淳太、知ってたの?」

「逢坂さんに、言われたからな」

 知ってたよ、と当然のように言われ、え、と目を丸くする。

「逢坂さんに? なんて? なんて言われたの?」

「ちょ……、及川」

 ぐい、と身を乗り出してきた汐に、ほんのり頬を染めながら、近い、と肩を押しやると、淳太は視線を外した。

「逢坂さんが九州に行く前の晩だよ。おまえと松澤さんが部屋に入ってから、二人で少し話した」

 どうやらそのときに、九州支社へ異動になったことや、神楽坂へ話をしてあることを聞いたらしかったのだが、どうにも納得がいかず、汐は、ぷぅ、と頬を膨らませた。

(淳太には言うのに、私には言えないって、どういうことー!?)

「悲しむのがわかってたから、言えなかったんだよ」

 表情に怒りが滲み出ていたのか、神楽坂が、そうフォローを入れてくれる。

「誰だって、好きな子の泣き顔は、見たくないもんでしょ」

「……です、かね」

 逢坂も、類にもれなく、そう思ってくれたのだろうか。
 それなら、嬉しくないこともないではないが、やっぱり、話してもらえないのは、いささか寂しくはある。

「逢坂も、男だよ。好きな子と一緒に住んでて、手も出せないのに、泣き顔なんて見たら、理性なんて……、おっと」

 そこまで言ってから口を塞いでも、手遅れですよ、神楽坂さん。

 そう言いたいのを我慢して、でも表情には出るように、じー、と神楽坂に視線をやれば、ごめんね、と頭を撫でられる。

「でも、一緒に寝て、なにもさせてあげないのは、同じ男として、逢坂に同情するよ」

「え……っ!?」

 そんなことまで話してるの、と目を大きくすれば、神楽坂の隣で、あー、と淳太までもが、逢坂に同情するような表情をしていた。

「それは……、キツいっすね」

「ねー? 俺、さっき及川さんに、鬼って言われたけど。男からしたら、そんな及川さんの方が、鬼だよね」

「わかります」

 うんうん、と神楽坂の言葉に頷く淳太に、もう! と唇を噛んで、汐は、ここにいない逢坂へ恨みを募らせる。

(絶対、絶対に、なにもしないんだからっ)

 逢坂さんのバカっ、と顔を真っ赤に染め上げながら、遠く離れた逢坂が、今頃くしゃみの1つでもしていればいいのに、と思わずにはいられなかった。

「じゃあ、俺は帰るけど。及川さんのこと、頼むよ」

 貴島、と肩に手を置いて、神楽坂が淳太に言うと、はい、と背筋を伸ばして畏まった。

 行くか、と去っていく神楽坂の背中を見ながら、淳太はそう汐に声をかけるが、汐は淳太から目を反らしたまま、つーん、と淳太を見ようとはしない。
 ため息を吐いて、悪かった、と淳太が頭を下げてくるも、汐はそれを無視したまま、駅へと歩みを進めた。

 別に、淳太に対して怒っているわけではない。恥ずかしいだけで。
 そもそも、悪いのは逢坂なのだ。勝手にいなくなって、勝手に汐のことを神楽坂に頼んで。

 余計なことはベラベラしゃべるくせに、肝心なことはなにもしゃべってくれなくて。

 だから、決して。淳太に怒っているわけではないのに。淳太に対して、この態度はあんまりだっただろうか、と思い直し、汐は歩みを止め、ごめん、と呟いて淳太を振り返る。

「あんたは、悪くないんだった」

「いや、それは別に」

 いいんだけど、と言って、ほっとしたように、淳太は息を吐き出した。

「怒るのは構わないから。守れる範囲にいてくれれば」

 目の届く所にいてもらわなければ、とても、守ることなんてできないから。

 それは、逢坂が、淳太と神楽坂に頼んだこと。
 近くにいることができないから、せめて、近くで汐を守ってくれる味方がほしくて。

 そうして、淳太だけではなく、神楽坂にも汐を任せてくれた逢坂の気持ちも、わからないでもない。

 ただやっぱり、それでも逢坂に側にいてほしかった、というのは、汐の我儘なのだろうか。

 帰るぞ、と淳太が汐の頭に手を置き、そう言ってくるのに、うん、と小さく頷いて、汐は淳太に続き、あとをついて行った。

 葡萄川から苺森に着くまで、汐は口を開くことなく、淳太が話しかけるのに、ただ愛想なく、うん、と頷くだけだった。

 逢坂が異動になったのは汐のせいなのに、汐だけがこうして、同じ場所に居続けているのは、どうなんだろう。
 いっそのこと、会社を辞めて、逢坂について行った方がよかったのだろうか。

 けれど、そんなこと、相談もしてくれなかった。
 一言、『ついて来てくれ』って言ってくれていたら、なにかが変わっただろうと思うのに、逢坂はそれを望んでいなかった。

 逢坂は、自分が異動することで、汐を守ったつもりなのだろう。
 汐が、居場所を奪われるツラさを、逢坂は知っていたから。

(本当に、バカなんだから)

 今日を越えれば、明日。早ければ、明日の夜には逢坂に会える。

「淳太」

 苺森のホームで、汐はさっさと逢坂の家に向かおうとする淳太の服を引き、呼び止めた。

「絃里ちゃんと、ここで待ち合わせてるんでしょ? 私、先に帰ってるから、絃里ちゃんを待ってなよ」

「おまえ、ここから一人で帰るつもりか?」

 汐は、平気よ、と胸を張って、笑顔を見せる。

「そんなに遠くないし、走って帰るから」

「だけど」

「淳太」

 淳太の言葉を遮って、汐は淳太のネクタイを掴むと、ぐい、と自身に引き寄せた。

「あんたが大事にしないといけないのは、私じゃなくて、絃里ちゃんでしょ?」

「俺は……」

 おまえも大事だよ、と言いかけて、淳太は言葉を詰まらせた。
 それに気付く様子もなく、ね? と汐に胸を押される。

「先に帰ってるから」

「おい、及川っ」

 じゃあね、を手を振りながら、走ってその場を立ち去る汐を追いかけようとした淳太だが、汐の言葉が頭を過り、思わず足を止めた。

 腕時計を確認し、じっと改札から目を反らさず、ごくり、喉を鳴らす。
 追いかけるべきなのか、それとも汐の言うとおり、絃里を待つべきなのか。

 どちらが正しい判断なのかはわからなかったが、とりあえず、追いかけて来ない淳太を確認すると、汐はすぐに走るのを止めて、ふぅ、と息を吐くと、ゆっくりと家路に着いた。

 逢坂に会ったら、一番になにを言おう?
 神楽坂に、余計なことを言うなって? それとも、黙っていなくなるなって?

 ううん、それよりも……。

 すー、と息を吸い込んで、汐は立ち止まり空を見上げる。

(抱き締めて、欲しいな)

 頭を撫でてもらって、また同じ布団で眠りたい。
 なにもしないで、ただ手を繋いで隣で眠れることが、幸せだから。

 逢坂には悪いけど、そうそう、させるつもりはないから。

 くすり、笑みを零しながら、歩きなれた道を歩く。
 でもなんだかんだ言っても、逢坂がそうやって言い寄ってきたら、拒むことなんてできないだろうなぁ。

 そんなことを考えた刹那。
 汐は、進路方向とは逆に、体を強い力で引っ張られ、口元をがしっと掴まれた。

「……っ!?」

 手に噛みつこうにも、がっしりと顎を止められているため、口が動かない。
 暴れようにも、腕ごと体を掴まれているため、身動きができない。

「家に帰ろう、うしお」

 そんな声が耳元で聞こえ、ぞくりと背筋が凍り付く。

 なにが、『走って帰るから』よ、とさっき淳太に言った自分をバカにしてやりたい。
 こんなことにならないように、逢坂は淳太と神楽坂に、汐のことを頼んでいたのに。
 一人になるのがどんなに危険か、今日、会社で身を持って実感したはずなのに。

 なんでこんなに、学習能力がないんだろう。
 自分で自分が、心底嫌になる。

 目の前に見える逢坂のマンションが、涙で歪んでいく。自分が招いたことなのに、悔しくて堪らない。
 助けて、と大声で叫べば誰かが気付いてくれるかもしれないのに、顎を掴まれているからなのか、恐怖からなのか、声も出せなくて。

 ただただマンションが遠くなるのを見ていた汐は、次の瞬間には、後頭部に強い衝撃を感じ、意識を手放さざるを得なくなった。