ストーカーキューピット

4. うっかり攫われました

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「うしおセンパイっ」

 淳太に連れられてオフィスに着くと、すぐに絃里が涙声で飛びついてきて、汐ははっとした。

「大丈夫ですか? 何ともないですか?」

「……絃里ちゃん」

 見知ったその顔に、はらり、涙が零れた。

 淳太に手を引かれている間も、どこか不安が拭い去れなくて、今ようやく、このいつも働いている場所で、いつもの顔触れを見て、安堵できたのかもしれない。

 目の前にきた絃里に縋るように、汐は1歩、足を進め、絃里の肩に顔を押しつけた。
 うしおセンパイ、と心配そうな絃里の声が聞こえ、顔を上げなければ、と思うのに反して、なかなか、絃里の肩から顔を離せない。

 うん、と返事をしてはみるものの、ふー、と重苦しい息を吐き出したまま動かない汐の頭を、よしよし、と絃里が撫でてくれ、段々と肩の力が抜けていく。

「三浦さんが、眞山専務が来たって内線くれて。慌てて、うしおセンパイに電話したんです」

「……三浦さんが」

 そこでようやく、汐は顔を上げた。
 自分は、かのんに隠していることがあって後ろ暗いのに、わざわざ内線までくれて、眞山が社内にいることを教えてくれるなんて。

 じんわり、かのんの優しさが身に染みる一方で、そろそろ、逢坂のことを打ち明けるべきなのかもしれない、とも考える。
 せっかく親しくなったのに、拒絶されるのは心苦しいが、隠しておくよりはいいかもしれない。

「及川さん」

 はい、と思わず返事をすれば、神楽坂が複雑そうな面持ちで、こちらを見ていた。

「少し、いい?」

「……はい」

 昨日は昨日で会社を休み、今日は今日で、朝から仕事もせずにいるのだから、少しばかり、説教があるのも不思議ではない。

 眞山とかのんのことを考えると気が重くなるが、こればかりは仕方がない、と汐は腹を括り、神楽坂の後をついて、オフィスの隅にある簡易的な応接場所へと足を向けた。
 2課の入口に近い場所にある、パーテーションで仕切られた奥の応接セットに向かい合わせに座ると、神楽坂は声を潜めて、大変だったね、と声をかけてきた。

「……はあ」

 一瞬、眞山のことかと思ったが、神楽坂が知っているとは思えず、中途半端な返事をしてしまうと、神楽坂は、くすり、と口元を綻ばせた。

「逢坂とのことを公表すれば、全部解決するような気がするんだけど。やっぱり、それはイヤなの?」

「……」

 はい? と、たっぷり考えてから、汐は目を丸くする。

「付き合ってるって言えば、逢坂がストーカーだなんて、おもしろ……、いや、迷惑を被ることもなかったんじゃないかなって」

 今、面白いって言いかけましたよね、と突っ込みたくなったが、そういう場合じゃないことはさすがの汐にもわかる。
 ええと、と戸惑いながら、汐が声を出すと、逆に、あれ、と不思議そうな顔をされた。

「俺が知ってるって、知らなかったの?」

 逢坂、言わなかったんだ、と目を丸くされて。
 聞いてません、逢坂さんーっ、と逢坂に怒鳴りたい気持ちになった。

 社内での逢坂とのやり取りを、そういう目で見られていたかもしれないと思うと、恥ずかしいことこの上ない。
 淳太や絃里はまだいい。元々仲がよかったのもあるが、一緒に食事もしているし、4人で会ったこともあるのだから。

 だが神楽坂は違う。
 同じ課で一緒に仕事をしてきたが、会社の飲みの席以外で一緒に食事をしたこともなければ、業務以外の話をしたことも数えるくらいしかない。

 そんな存在の神楽坂に、彼氏が逢坂だと知られていたことが恥ずかしいのもそうだが、それを知らなかったことが、何より残念だった。

「いや、でも俺もさ。逢坂から直接聞いたわけじゃなくて。なんていうか、二人の空気がね。うん」

 それじゃわかりません、と汐はジト目で神楽坂を見るが、神楽坂は気にもせず、うん、とまた頷いた。

「最初にね、思った時はさ。よかったなって。逢坂の長年の想いが通じたんだなって。だからこそ、今回の異動が」

 面白かったんだ、と今度はしっかりと言葉にするが、汐はそれよりも、引っかかる単語があった。

「……長年?」

 長年の想いって、と汐は眉根を寄せる。
 逢坂が、そんなに前から汐に好意を寄せていたなんて話、聞いたことがない。

 俺が言ったって言わないでね、と念を押されて、神楽坂は面白そうに口を開いた。

「2年くらい前かな。逢坂が風邪を引いて、咳がひどかったときに、及川さんが、のど飴を買って渡してくれたんだって」

「……そんなこと」

 ありましたっけ、と汐は首を傾げる。

 あったんだよ、と笑いながら、神楽坂は、それだけなんだけどね、と付け加えた。

「え?」

 それだけ? と汐が目を丸くすれば、うん、と神楽坂は笑顔を見せる。

「本当、たったそれだけで、惚れちゃったらしいんだよ、及川さんに」

「……」

 汐は、段々と顔が火照ってくるのを感じた。

 第三者から、逢坂の想いを聞かされて、それを疑うこともできるのに、神楽坂の言葉はすんなりの汐の中に入っていった。

 最初から、逢坂は汐に優しかった。
 もちろん、好きじゃなきゃ泊まらせない、と以前から好意を持っていたらしい言葉をほのめかされたこともあるが、それでもいつからだと聞いたわけではなかった。

 冗談めかして、私のことが好きなんですよね、と何度逢坂に聞いたかわからない。
 逢坂は否定していたけれど、やっぱり最初からずっと、汐に好意を持っていたのだ。

 ああ、逢坂さん。会いたいです。今すぐに。

 はらり、汐の頬を涙が伝う。
 今までの逢坂の優しさは、汐への好意からくるもので。
 隣で眠ってもなにもされなかったのも、汐を大事にしていたからなのだと、神楽坂の言葉がそれを実感させた。

 2年も前から、汐のことを好いてくれていて。そのことがとても恥ずかしいのに、堪らなく嬉しい。

 すん、と鼻をすすれば、はい、と目の前にハンカチを差し出され、汐は、すみません、とそれを受け取って、目元を押さえた。

「とにかく、トイレだろうとなんだろうと、一人で行動しないこと。必ず、貴島か松澤さんと一緒にいて」

 わかった? と念を押され、ここで淳太と絃里の名前が出てくるあたり、逢坂に頼まれたんだろうな、と推測し、はい、と素直に頷く。

「幸い、3課にも味方がいるみたいだし、なんとかなるでしょ」

 かのんのことだろう、と汐はまた、はい、と返事をすると、神楽坂は立ち上がって、ふう、と息を吐いた。

「まったく、面倒事を押しつけていなくなるなんて、大した男だね、逢坂も」

「……すみません」

 肩を小さく竦めば、嫌味だよ、と笑顔を向けられる。

「昨日の分も、仕事してもらうから。覚悟してね」