ストーカーキューピット

4. うっかり攫われました

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「おはよう、及川さん。風邪はもう大丈夫なの?」

「風邪?」

 おはようございます、と逢坂がいる時にはいつも逢坂の補佐に回っていた課長代理の神楽坂かぐらざかに言いつつ、汐は首を傾げた。
 ぽすん、と頭に書類が乗せられたまま、じーっと神楽坂を見ていると、遠くから、ごほん、とわざとらしい咳払いが聞こえて、見れば、淳太だった。

「貴島が、昨日、風邪だって言ってたから。違うの?」

「ち、違わないですよっ。風邪です、風邪! めちゃくちゃ、風邪ってました」

 汐が昨日、会社を無断欠勤した理由を、淳太がそう説明してくれていたらしいことに気付き、汐は慌ててそう立ち上がると、神楽坂が、おっと、と汐の頭に乗せていた書類を机上に移した。

「元気そうなら、これ、お願いね」

 ぽん、と汐の肩に手を置いた後で、神楽坂は肩をぐるぐると回し始め、ふー、と盛大にため息を吐いた。

「昨日から、急に仕事が増えてね」

 誰かさんの所為で、と言うのに、ああ、と納得する。
 逢坂の仕事が、全部神楽坂に回ってきているのだろう。

 お疲れ様です、と神楽坂の背中に頭を下げると、机の上に置いてある携帯が、着信を知らせてきた。

「ちょっと出てくるね」

 携帯を持って、こっそり絃里に言うと、ついていきます? と訊かれたが、それを断り、汐はひとり、廊下へ出た。

『仕事中に、悪いわね』

 電話口から聞こえてくるイトコの声に安堵しながら、ううん、と汐は見えてもいないのに首を振った。

「どうしたの?」

『アンタ、結婚するの?』

「……はい?」

 間抜けな汐の反応に、違うのね、とほっとしたような克己の声が聞こえてくる。

 意味がわからない……。

「誰が、結婚するって?」

『うしおが、よ』

「それは、誰情報なの?」

 訊けば、少し黙った後で、はぁ、とため息を吐き、昨日ね、と克己が重い口を開いた。

『仕事で、アンタんちの近くを通ったから、ちょっと寄ったのよ。そしたらおじさんが、今度うしおが結婚することになったんだって言うから、もうビックリして』

 いや、私もビックリしてるよ!? と克己の言葉に目を丸くしたまま、汐は言葉を発することができずに、呆然とした。

 結婚って、私が? 相手は、誰?
 逢坂なら、納得できる。できるけれど、汐の実家を、ましてや父親を知らない逢坂が、そんなことを言うはずがない。

 じゃあ、誰が言った?
 逢坂との関係を知っているのは、絃里と淳太だけで、他に知っている人なんて――。

 思って、ゾッとした。眞山が、知っている。けれど、わからない。眞山が、逢坂とのことを、わざわざ言うだろうか。
 これまでの眞山の言動を考えると、逢坂のことを退けはしても、汐の結婚相手だなんて言うはずがない。

 そこまで考えて、ひとつ、嫌な考えが頭を過った。

 眞山が思う汐の結婚相手は、逢坂ではない。

「カッちゃん……」

 なに、と聞こえて、ごくりと唾を飲む。

「お父さん、私が、誰と結婚するって言ってたの?」

『……』

 黙り込む克己に、嫌な想像しかできない。

 ひゅ、と空気を吸い込むと、汐は空いた手で、ぎゅ、とこめかみ辺りの髪の毛を握った。

『この間見せてもらったのと同じ名刺を、おじさんにも見せられたわ』

 それと、と付け加える。

『眞山良は、昔近所に住んでた、幼馴染みのリョウちゃんで、間違いないみたいよ』

 正直、そこから先、克己とどういう会話をしたのか、記憶にない。
 眩暈がする。気持ちが悪い。

 汐の記憶にある、小さいリョウちゃんは、そんな卑劣なことをするようには思えなかったのに。

 ふらり、廊下の壁にもたれかかる。
 無意識に、携帯を握る右手に、力が込められた。

 昔、リョウと結婚する約束をした? いやいや、だとしても、こんな勝手に、結婚の話を進めていいはずがないし、ましてや、側にいた逢坂をストーカーだと決めつけていいはずもない。

 一度、直接話をした方がいいのかもしれない。
 ふたりは無理でも、絃里か淳太を間に挟んで。

 その刹那、気持ちの悪い視線を感じ、汐は勢いよく振り向いた。

 だがそこには誰もおらず、ただ廊下が続いているだけで。
 どくん、どくん、と心臓が全身に恐怖を伝えてくる。
 何年も勤めている会社なのに、なぜか、初めて訪れた場所へ来たかのような錯覚に陥る。

 その時、手元の携帯が着信を知らせ、汐は慌てて通話ボタンを押した。

『うしおセンパイ? 今どこです?』

「……絃里ちゃん」

 安心する声に、ほー、と体中の力が抜ける。
 目元が濡れているのに気付き、恐怖のあまり、涙したのだと思うと、ひとりで恥ずかしくなって、指先でそっと目尻をすくった。

「今、4階の――…」

 絃里の問いかけに答えようと後ろを振り返り、汐は声を詰まらせた。

『うしおセンパイ?』

 携帯から、絃里の声が漏れてくるのに、返事ができない。

 汐は、ごく、と唾を飲み込んだ。

 いつの間に、後ろにいたのだろう。まったく気配なんて感じなかったのに。

「やぁ」

 つい10日ほど前なら、懐かしい顔に、破顔できたかもしれないが、今はそれもできない。

 そこにいるのは、確かに見覚えのある顔なのに、どうしてか、全然知らない人間のようにも見える。

「りょぅ、ちゃん……」

 汐の口から、迷うように、そう幼馴染みの名前が出ていた。

「こうして話すのは、久し振りだね」

 電話では、何度か話したけど、と付け加えられ、汐は、耳に当てていた携帯を胸元まで下ろして、ぎゅっと握った。

 嘘であって欲しかったのに。幼馴染みのいい思い出として、汐の中に残しておいて欲しかったのに。
 汐が電話で話したのは、汐に付き纏っていたストーカーで、幼馴染みの良とは別人だと信じたかったのに。

「少し、痩せた?」

 ちゃんと食べてる? と汐の頬に触れてくるのに、汐はびくっとその身を強張らせ、1歩、後退る。
 するとそれが気に入らなかったのか、良も1歩、汐に近付いてきた。

 それが尚更怖くなって、汐もまた1歩、後ろへ下がろうとすると、会いたかったんだ、と眉根を寄せて言われた。

「うしおに」

 少しだけ、寂しそうに、そう言われて。どきん、と胸が高鳴るのは、今じゃない。

 今じゃなければ、そういうトキメキもあったかもしれないが、残念ながら、今は恐怖しか感じられなくて、汐は震える目で、じっと良を見据えた。

「引っ越してからも、ずっと、うしおを忘れたことなんてなかった」

 言葉の出ない汐に対して、良はどこか饒舌で、今まで話せなかった反動なのか、言葉を紡ぐ。

「大人になったら、うしおに会いに来ようって。必死だった」

 本当に、どうして『今』それを言うのだろう。

 普通に再会して、普通にそれを言われていたら、もしかしたら結果は違ったかもしれないのに。
 こんなに、良に怯えることなんて、なかったかもしれないのに。

 どうして、こんなことになってしまったのだろう。

「でも、もう終わった」

 一体何が、ここまで良を変えてしまったのか。

「やっと、うしおと結婚できるんだから」

 ぐらり、視界が歪む。
 それが眩暈なのか、涙なのか、汐にもよくわからないが。

 常軌を逸するこの男の言動に、震えが止まらない。
 就業中である今ならば、大声で叫べば誰かが来てくれるかもしれないのに、声を出すことさえもできない。

 いや、誰かが来たとしても、表向き、汐は良の婚約者という立場に認定されている。
 ふたりで話をしていても、なんら、不思議さは感じられない。

「ど、して……」

 やっとの思いで声を出せば、息が詰まり、ごほっと咳き込んでしまう。
 うしお、と良が背中を擦ろうと近付いてくるのに、さっと反応して、汐は良から距離を取った。

「わ、私、は……、あなたと、結婚なんて」

 考えてない。

 詰まりながらも、そうはっきり伝えれば、良はあからさまに眉尻を下げ、心底、悲しそうな表情で訴えてきた。

 情に流されたら、負ける。
 汐は、ぐ、と拳を握り、きつく良を睨んだ。

「こんな、勝手なこと、絶対に、許されない」

 少なくとも、私は許さない。

 そこまで声に出ていたかはわからないが、汐は必死に、そう言葉を吐き出した。
 とてもじゃないが、気を張っていなければ、良に負ける気がした。

 本当は、この場から逃げ出してしまいたいが、良と対峙する機会なんてそうそうないだろうし、あって欲しいとも思わない。

 良の落ち込みを隠せない表情に、汐は、自分が間違ったことをしている錯覚に陥るが、脳裏に何度も逢坂を思い浮かべ、なんとかそれを払拭していた。
 だがそれも、長くは続かない気がする。

 良のこの、地獄に突き落とされたような空気に、飲まれてしまいそうだ。

 汐が、ごく、と喉を鳴らし、もう一度、念を押そうと口を開いた瞬間、失礼します、と後ろから肩を引かれた。

「ちょっと、急ぎの仕事がありまして。及川を、お借りします」

 はぁ、はぁ、と肩を上下させながら良に向かってそう言う背中に、汐はこれほど、安堵したことはなかったかもしれない。

 思わず零れた涙を拭うと、汐を向いた淳太が、行くぞ、と声をかけてくる。
 声もなく頷くと、淳太は良に深く頭を下げて、汐の手を取った。

 立ち去る淳太と汐を見送りながら、良は、ふぅ、と軽く息を吐き出し。

「あいつも、邪魔だな」

 誰もいない廊下で、ひとり、そう呟いたのだった。