ストーカーキューピット
3. そもそもの目的を失念していました
7
ブー、ブー、と汐を呼ぶ音がして、汐は目を開けた。
おぼつかない意識の中で、継続的に振動音が聞こえ、キョロキョロと見回してみると、部屋の入口に落ちているバッグを見つけ、汐はゆっくりとベッドから抜け出てバッグの中から携帯を取り出した。
「……はい」
どうやらあのまま寝入ってしまったらしく、頭が働かない。
今は一体何時なのだろう、と壁にかかっている時計に目をやって、耳元から聞こえてきた声に、大きく目を見開いた。
『及川?』
――逢坂さん、と声を大にして言いたいのを抑え、ふぅ、と息を吐き出す。
『今日、会社休んだって?』
貴島が言ってたぞ、と何も変わらない調子で言われ、悔しくなる。逢坂にしてみれば、九州支社への異動など、きっと大したことではなかったのだろう。
変に騒いだ汐が、バカみたいじゃないか。
だがそれでも、耳元から聞こえてくる逢坂の声に、ひどく安堵し、目頭が熱くなってくるのを感じていた。
壁にかかっている時計を確認すれば、7時過ぎ。とっくに就業時間を過ぎていた。
仕事が終わり、汐に電話をしてきたことがわかり、きゅ、と心臓が苦しくなって、逢坂さん、と辛うじて言葉にしてみれば、ん? と優しい声が返ってきて、一層、汐の涙腺を緩ませる。
黙っていなくなったことに腹を立てたものの、なんだかんだ、やっぱり寂しかったのが一番で、いつもと変わらない様子の逢坂に、安心したのだろう。
そのことに気付いて、悔しくもあったが、落ち着いてくるのがわかった。
「私は、逢坂さんの何なんですか?」
口を開いたことで、緩んでいた涙腺の紐が、一気に解けてしまい、ひっく、と涙を零しながら、そう訊ねてみる。
逢坂がいなくなったこともそうだけれど、何よりも、逢坂にとっての自分の立場がわからなくなったことが、不安だったのかもしれない。逢坂にとって、その程度の存在だったのだと言われたようで。
『大事な女だと思ってるが』
どうした、急に、と怪訝そうな声が聞こえ、汐はぽかんと口を開けた。
大事なら、教えてくれたってよかったのに、と思ったが、汐の質問に、大して考える素振りもなく答えが返ってきて、嬉しかったのかもしれない。
大事な女か、と復唱して、ふふ、と口元を綻ばせる。
現金だな、と自分でも思うが、実際、その一言で全部を忘れられるくらい、喜ばしいことだった。
「それって、私のことが好きってことですよね?」
『……まぁ、そうとってもらっても、支障はない』
逢坂の言葉に、どんどん口元が緩んでいく。
空いた手で頬が落ちないように支えながら、へへ、と思わず漏らすと、ふ、と電話口から笑った声がした。
『思ってたより元気そうで、安心した』
「心配しました?」
『そりゃ、するさ』
当たり前だろう、と言葉が続けられる。
『悪かった、急にいなくなって』
少しだけトーンを落として言ったそれに、きっと電話をかけてきた本題はこれだったのだろうと察し、汐はその場に座り込んで背筋を伸ばした。
『夕べ、言おうと思ってたんだが。お前の顔を見たら、言えなかった』
すまん、とまた謝ってくるのに、汐は怒ることもできず、はい、と静かに頷いた。
「逢坂さんが、私のストーカーだったって」
『そんなつもりはなかったんだがな』
専務に言われた時、思わず吹き出しそうになった、と逢坂が笑って言うので、異動とはいっても、汐が気にするほど逢坂は気にはしていないのかもしれない、と思い、少しだけほっとする。
それにしても、と逢坂と他愛ない話をしながら、汐は、逢坂の声が、ひどく眠気を誘うのに気がついた。
声の抑揚なのか、質なのか、とにかく汐を眠りの世界へと誘うのだ。
今しがたまで眠っていたにも拘らず、ふわ、と欠伸を零せば、電話口から、ふ、と逢坂の笑い声が聞こえてきた。
『眠いのか?』
「少し。逢坂さんの声って、眠くなるんですよね」
なんでですかねー、と問えば、知るか、と冷たく返ってくる。
かと思えば、何を思ったのか、逢坂は、及川、と優しい声音で汐を呼んだ。
「なんですか?」
『好きだよ』
さらり、と。
流れるように、初めてとも思えるその言葉を言われ。
汐は、これでもかというほど、目を丸くして。
「は?」
ありえないほど、まぬけな声を出していた。
『目が覚めたか?』
覚めましたよ、と思うが、呆然としたまま、汐は言葉を発することができなかった。
今、何て言った?
思い返してみても、どう考えても、好きだよ、としか聞こえなかったのだが。
汐が聞きたかったあまりの、幻聴だったのかもしれない、と汐は、逢坂さん、と声を絞り出した。
「も、もう一度、言ってもらえますか?」
『何をだ?』
「いや、だから。……好きだよって」
『ありがとう』
ん?
かみ合わない会話に、汐は首を傾げる。
今のどこに、ありがとう、と感謝を述べるところがあったのだろう。
するとそれを感じ取った逢坂が、くっくっと笑った。
『初めて言われた気がするな』
「はい?」
何をだろう、と笑う逢坂をよそに考えて、はっと気付き、瞬間、沸騰したように顔が熱くなる。
逢坂に言わせたかったはずの言葉を、汐が逢坂に言ったように取られてしまったのだろう。
「い、今のは違いますっ。私が言ったんじゃなくて、逢坂さんがそう言ったから、だから、それをもう1度聞きたくて、それで……っ」
『なんだ、違うのか?』
「ち、がわない、ですけど、でも、そうじゃなくて!」
ああ、もう、と声を上げれば、心底面白かったのか、逢坂がさも愉快だと言わんばかりに笑い出し、汐は頬を膨らませる。
見えているはずはないのに、そう膨らむな、と笑う隙間に言われ、なおさら腹が立つ。行動パターンが読まれているようで、悔しい。
くぅ、と唇を噛めば、ひとしきり笑った逢坂が、及川、と優しく声をかけてくる。
「なんですか」
今さら優しくされたって、とちょっと反発心もあり、素気なくそう言えば、すまん、と素直に謝られた。
『かわいくて、つい』
悪かった、ともう一度謝罪の言葉を投げられて、はぁ、とため息を吐く。
かわいくてってなんだよ、と文句のひとつも言いたいが、それはそれで嬉しかったので、緩む頬を自分でつねった。
電話だと、逢坂の声が直接耳に響いて、余計に恥ずかしくなる。
それと同時に、眠気を誘いもするのだが、今はもう、そんなものは吹っ飛んでいた。
『週末には、一度そっちに帰る』
「週末ですか」
『ああ。仕事が早く終われば、金曜の夜には帰る』
言われて、部屋にかけられているカレンダーに目線を移す。今日はまだ水曜日だから、早ければ明後日の夜には一緒にいられる。
じゃあ、ひとりでいるのなんて、実質、あと1日だ。
そう思って、ほっとした。
よくよく考えれば、そうなのだ。
本社勤務から九州支社へ異動になったからといって、自宅に戻らないわけはない。
当然、会社もそれぐらい、理解しているだろう。
それなのに、もう二度と逢坂に会えないんじゃないかと本気で思って、落ち込んで、焦ったなんて、絶対に逢坂には気付かれたくはない。
絶対に、馬鹿にされる。
その時、ピンポーンと室内に音が響いて、とっさに、はーい、と返事をして、汐は慌てて口を塞いだ。
随分と寛いではいるが、ここはあくまでも逢坂の家であり、汐の家ではない。
この家のインターホンが鳴るということは、逢坂目当ての客が来たということになるため、汐が返事をするのはよくないだろう。
電話先にもインターホンの音が聞こえていたのか、えっと、と迷う汐に、案ずるな、と逢坂が声をかける。
『たぶん、貴島と松澤だ。それ以外は、無視して構わん』
無視してって、と思うが、インターホンのモニターを覗いてみれば、逢坂の言うとおり、淳太と絃里が映っており、ほっと胸を撫で下ろした。
「逢坂さん、当たりです」
ドアホンから、鍵開けるね、と伝え、モニターの隣にあるエントランスの自動ドアの開閉ボタンを押すと、ドアが開いて、ふたりが中に入るのが見えた。
「よくわかりましたね」
『さっき、連絡があったからな』
ふー、と息を吐き出しながらの声が聞こえ、タバコを吸っている姿が想像させられる。
『今日、及川が仕事を休みました。今から、松澤さんと逢坂さんの家に向かおうと思いますって』
「……そうですか」
わざわざ、逢坂に連絡を取ってくれたのだろうか、と思うと、申し訳なくなる。汐は逢坂の話を聞いて、冷静でいられなくて、会社を飛び出したというのに。
『俺が側にいれない分、貴島にお前のことを頼んだからな』
気を抜くなよ、と忠告され、じんわり、気持ちが暖かくなる。
急にいなくなったけれど、ちゃんと、汐のことは気にかけてくれていて、淳太に汐のことを頼んでいてくれた。
それだけなのに、こんなに嬉しいなんて、まったく、どれだけ逢坂のことが好きなんだ、と汐は恥ずかしくなる。
『じゃあ、そろそろ切るけど。明日は、ちゃんと出社しろよ。ああ、でも、社内でも、なるべくひとりにはなるなよ。松澤と行動するように』
「わ、わかってますよぅ」
本当は今日、ひとりで家に帰ったというのも、叱咤したいくらいなんだ、と念を押され、はい、と小さく頷く。
眞山に遭遇しなかったからよかったものの、実際、会ったらどうなるかなんて、わからない。
そこまで言われて、汐はちゃんとそれを受け止め、今度はしっかり、はい、と返事をした。
「気をつけます」
汐の言葉に納得した逢坂が、よし、と満足そうな声を出すと、今度は、ポーン、という控え目な音がした。
『じゃあな。また電話する』
「はい。お疲れ様でした」
音に気付いた逢坂が、早々に電話を切ろうとするので、汐もそれにならって、素早くあいさつをすると、もう一度、ポーンと鳴った。
逢坂のマンションは、エントランスで用がある部屋番号のインターホンを押すと、その部屋につながり、その部屋からエントランスの入り口を開けてもらって部屋の前まで来れるようになっている。
その後、部屋の前のインターホンをまた押すことになるのだが、このなんとも気の抜けた音は、一体どうしたことだろう。
逢坂が決めたわけではないだろうから、きっとこのマンションを建築した人の趣味なんだろうが、違和感が半端ない。
思いながら、汐は玄関のドアを開けて、淳太と絃里を逢坂の家へと招き入れた。