ストーカーキューピット

3. そもそもの目的を失念していました

6

「ぶえっくしょいっ」

 盛大なくしゃみが聞こえて、汐ははっと目を開けた。

 目の前には、穏やかな寝息をたてている絃里がいて、夕べ一緒に逢坂の家に泊まったことを思い出し、起こさないようにゆっくりとベッドから降りてリビングのドアを開けた。
 鼻水をすすりながらコーヒーをカップに注ぐ淳太が目に入って、おはよ、と声をかけると、同じように返してくれ、ついでにと汐にもコーヒーを入れてくれる。

「淳太も泊まってたんだね」

「……悪いかよ」

 機嫌悪く答えた淳太に、そんなこと言ってないじゃん、と頬を膨らませて、渡されたカップを受け取った。

「逢坂さんなら、先に出たぞ」

「え?」

 キョロキョロとリビングを見渡しているのが目に入ったのか、淳太が言いながら、欠伸をする。
 さすがに、一緒に通勤するわけにはいかないか、と汐はあまり深く気にせずに、ダイニングテーブルについてコーヒーを口に含んだ。

 そうした後で、ふと思い、じっと淳太を見れば、なんだよ、と眉間に皺を寄せて、淳太は汐の正面に腰を下ろした。

「淳太、どこで寝たの?」

 さすがに、逢坂とソファでくっついて寝たとは思えないが、他に寝る場所なんてないし、まさか、と思い聞いてみると、呆れた表情で答えが返ってくる。

「カーペットの上だよ。お前、まさか俺と逢坂さんが、ソファで一緒に寝たとか思ってないよな?」

 そのまさかだよ、とは口にせず、そんなわけないじゃん、と小さく言って、残りのコーヒーを一気に飲み干した。



「貴島さん、今日はどうするんですか?」

 逢坂さんの家に泊まります? と絃里に訊かれて、淳太はじーっと絃里を見つめた後で、松澤さんが泊まるなら、と答えた。
 通勤途中の電車の中、吊り革を握る汐を挟んでの会話に、おお、と汐は表情には出さずに感激する。なんだかんだ、やっぱり、そうなんじゃん、と勝手に納得し、嬉しくなる。

 何よ、それ、と恥ずかしそうに俯いた絃里を見つめているのではなかろうかと思った淳太に視線をやれば、目が合って、汐はぎょっとして顔を背けた。

「な、なんで」

 私を見てんのよ、と言いかけて、絃里の手前、言うべきではないだろうとやめると、あのさ、と言いづらそうに淳太が口を開いた。

「……」

「何?」

「いや、いい」

 なんでよ、と汐は睨むが、淳太はそれ以上、口を開こうとはしなかった。
 疑問には思ったものの、淳太が言う気がないのがわかったので、深く追及はせず、汐も倣って口を閉じると、絃里が、うしおセンパイ、と横から手を引いてきた。

「今日、1回家に寄ってからでもいいですか?」

「もちろん。着替えでしょ?」

「はい」

 汐と一緒に逢坂の家に行って、また泊まることになった場合のことを考えると、賢明な判断だった。3日続けて同じ洋服を着たくない気持ちは、よくわかる。

 電車を降りて、3人で並んで会社に向かうが、やっぱり真ん中は汐で、その立ち位置に、汐は、うーん、と頭を悩ませた。
 淳太と絃里の関係なら、絃里が真ん中にいるのがいいんじゃないかと思うが、そうしないのはきっと、まだふたりが、並んで歩くのが自然でないからであろう。

 じれったいな、と思った刹那、うしおちゃんっ、と切羽詰まったかのんの声が聞こえ、汐は前を向いた。

 正面からカツカツとヒール音をさせたかのんが走り寄ってきて、汐は、おはようございます、と言おうとするが、それよりも早く発せられたかのんの言葉によって遮られた。

「逢坂さんが九州支社に異動って、本当なの!?」

 瞬間、目の前が暗くなる。言葉の意味を、理解するのに時間がかかった。

「それ、本当ですか?」

 かのんの言葉に食いつくように、絃里がそう訊くと、少し涙目になったかのんが、ええ、と力強く頷いた。

「今朝、社内掲示板に、辞令が出てて。私、全然知らなかったから、ビックリして」

 そんなの、私だって知らなかったです、と思ったが、汐は声に出ていないことにも気付けないほど、ショックを受けていた。
 九州支社に異動なんて話、聞いていない。

 夕べだって、普通に家に帰ってきたし、今朝も、会ってはいないが、そんな大事なことがあったなら、起こしてくれたって全然いいのに。

 汐が何も言わずに、社内掲示板があるロッカールームの前へと駆け出すと、淳太と絃里もつられるように走り出した。
 受付を通り過ぎて、奥のロッカールームへ向かうと、そこには来たばかりの社員だろうか、数人が群がっており、それを掻き分けて先頭へ出ると、かのんの言葉通りの辞令が貼り出されており。


『以下の者、本日付で総務部2課課長の任を解き、九州支社への異動を命ずる』


 その文言の下には、しっかりと逢坂の名前が記されてあった。

「及川っ」

 かくん、と膝が落ちた汐を、後ろから淳太が支えてくれるが、それに対する感謝の言葉も出せず、汐は呆然としていた。

 逢坂とは、付き合っているつもりだった。
 けれど、こんなに大事な話をしてもらえないなんて、結局、付き合っていると思っていたのは汐だけで、逢坂はそう思っていなかったということなのだろう。

 悔しくて、悲しくて、でもそれよりも、驚きが一番だった。
 逢坂の九州支社への異動もそうだが、あれだけ側にいて、思いを伝え合っていた筈なのに、言葉として『付き合おう』というのがなかったからなのか、黙っていなくなるなんて。

 じわじわと、悔しさが増してくる。
 ひっ、と嗚咽を漏らし始めた汐を無理に立ち上がらせて、淳太はずるずると引きずるように廊下の隅へと移動すると、遅れながら、絃里とかのんも心配そうに後に続く。

 掲示板から離れると、淳太はゆっくりと汐から手を退けた。
 支えをなくなった汐は、ぺたん、と冷たい廊下に腰を落とし、はたはたと零れる涙を拭わずに流れるに任せていると、さっとポケットからハンカチを取り出したかのんが、汐の顔に当ててくれる。

 だがそれでも汐は動くことができなくて、目を大きく見開いたままだった。

「及川」

 淳太が屈み込み、汐と視線を合わせようとするが、焦点の定まらない汐に、ちっと舌打ちをした後で、気まずそうに、逢坂さんは、と口を開いた。

「うちの取引先の専務の婚約者をストーキングしてて、飛ばされたんだ」

「……は?」

 淳太の言葉に、ようやく正気を取り戻した汐が、思い切り眉間に皺を寄せて、淳太を睨んだ。

「ちょっと、待って。それって、もしかして……」

 『専務の婚約者』という嫌なワードに、嫌な予感しか浮かばない。
 汐と淳太を囲むようにして側にいた絃里とかのんも、それを悟ったのか互いに目を合わせた。

「昨日、眞山商事の専務が、うちの社長にそう相談しに来たらしい」

「ちょっと待って」

 淡々とした淳太の言い方に、声が震える。
 一度、頭を整理させて欲しいという願いを込めて言ったが、淳太は言葉を続けた。

「本当はクビにするのが筋なんだけど、今までの逢坂さんの功績があるし、クビにしてうちの会社界隈をうろちょろされるよりは、遠くに行かせるのが賢明だっていう社長の判断だ。眞山専務も、それで納得して……」

「だから、ちょっと待ってってばっ」

 頭が追いついて行かなくて、汐が大きな声を出すと、淳太は、ふぅ、と息を吐いて立ち上がり、廊下の壁にもたれかかった。
 淳太の説明どおりだと、流れ的に、眞山の婚約者というのは汐のことだろうから、逢坂は汐のストーカーで、それの代償として九州支社へ異動になったということになる。
 汐が実際、ストーカーに脅えていたのは事実ではあるが、逢坂はそれから守ってくれていただけで、本当に汐を苦しめていたのは眞山ではないか。

 汐を守っていたはずの逢坂が、実はストーカーだった?

 ……いや、違う。それは、側にいた汐が、一番わかっているはずだ。

 それなのに、汐は今、わからなくなっていた。
 汐が眞山の婚約者で、逢坂がストーカーで、それが真実であるように会社の辞令が発表されている。

 汐は、逢坂に騙されていたのだろうか。
 逢坂の家に居候するように、逢坂に仕組まれていた?

「――…っ」

 汐は歯を食い縛り立ち上がると、外へと駆け出した。
 後ろから淳太たちの声が聞こえた気がしたが、それに耳を傾ける余裕もなく、会社の外へと出て、近くにいたタクシーに乗り込むと、逢坂の家を目指す。
 タクシーの車内で、カバンから携帯を取り出して逢坂にかけてみるが、移動中なのか圏外で繋がらない。

 涙が目尻に浮かび、零れそうになるのをぐっと堪え、汐は車窓から流れる景色を見ていた。

◇ ◇ ◇


「逢坂さん?」

 家の鍵を開けて玄関をくぐるも、当然、返事はない。
 汐はしんと静まり返る部屋へと足を進めて、廊下の途中にあるクローゼットの扉を開けた。

「……少ない」

 明らかに量が減っているスーツに、はぁ、とため息が出る。

 汐はクローゼットに1歩足を踏み入れて、残されたスーツにそっと触れると、その袖を自分の鼻先に持ってきた。
 すー、と鼻から空気を吸い込んで、スーツに残された逢坂の匂いを感じる。
 そうした後でふと我に返り、まるで自分が逢坂のストーカーのようであることに気付き、汐は自虐的に口元を緩めた。

 やっていることは、眞山と変わらないのかもしれない。
 どこで接触したのかはわからないけれど、それほど、眞山が汐に執着しているのだというのは窺える。

 勝手に婚約者を名乗ってみたり、逢坂をストーカー呼ばわりしてみたり。そうして、自分だけが汐を守れるのだとでも言いたいのだろうか。

 ――冗談じゃない。

 汐は、きゅ、と唇を結び、バタンと勢いよくクローゼットを閉じると、寝室に入り、そのままベッドへ体を預けた。