ストーカーキューピット
3. そもそもの目的を失念していました
5
「もう、いいです」
右手で淳太の胸を押しやって、絃里は淳太から離れ、すん、と鼻を鳴らした。
「よくないでしょ。松澤さん、誤解してる」
「誤解じゃないです、全然」
「そんなの、俺じゃないのに、どうしてわかるんだよ?」
淳太は自分の胸に添えられた絃里の右手を掴み、離れて行こうとする絃里をもう一度引き寄せた。
「ちょっと。止めて下さい」
「止めない」
絃里が離れないよう、先ほどよりも腕に力を入れて、淳太はきつく絃里を抱き締める。
「松澤さんが、ちゃんと理解してくれるまで。離さない」
「……」
淳太の胸の中、絃里は反発する磁石のように離れようとするが、淳太の力には敵わず、どうしようか、と頭を悩ませた、その時。
「――痴話ゲンカなら、他所でやってくれないか?」
疲れ切った顔の逢坂が、リビングのドアにもたれかかって、淳太と絃里を呆れたように見ていた。
「お……っ」
「――つ、かれさまです」
逢坂の姿に驚き、淳太の力が抜けた瞬間、絃里が胸を押していた力に促されるように、淳太は、カーペットの上に仰向けに倒れ込んだ。
一体、どこから見られていたのかと、絃里は淳太との会話を思い返しながら、手の甲で頬を伝っていた涙を拭うと、立ち上がり、もう一度、お疲れ様です、と頭を下げた。
「俺が、どうこう言うことじゃないとは思うが」
ふぅ、と息を吐きながらネクタイを緩めて外すと、逢坂はそれをダイニングチェアにかけて、ちらりと絃里に目をやる。
「多少は、男の我儘を聞いてやってもいいんじゃないか?」
逢坂の言葉に、絃里は、う、と声を詰まらせる。
ある程度、会話を聞かれていたのだと確信して、絃里は顔を赤くしながら、顔を下に向けた。
「まぁ、それ以前に、責任を取らなきゃならんようなことをした貴島が、一番の問題だとは思うがな」
変わらず仰向けになったままの淳太に視線を落とすと、淳太ははっと気付いたように起き上がり、違います、と逢坂に詰め寄る。
「いや、違わないんですけどっ」
「どっちなんだ」
わけがわからん、と顔をしかめ、ワイシャツのボタンを外しながら風呂場の方へと足を向けた逢坂を見送って、淳太は絃里を向いた。
「どこから見てたんだと思う?」
「知りませんよ、そんなのっ」
まだ赤い顔で絃里が淳太を睨んだ瞬間、きゃーっ、という汐の叫び声がリビングまで響き渡り、そういえば、と汐がお風呂に入っていたことを思い出した。
「まだ膨れてるのか?」
お風呂から上がってきた逢坂が、頭をタオルで雑に拭きながら、食器を洗う汐に近付いてくるのに返事をせず、黙々と食器を洗い続けた。
「初めてってわけじゃないんだから、今更だろ?」
「そ、そういう問題じゃありませんっ」
飄々とそう言ってのける逢坂にカッとなって振り向くと、思った以上に近かったらしい逢坂に、思わず目を丸くする。
お風呂に入って、体を拭き終え、今からパジャマ代わりのスウェットを着ようかとしている途中、まだ下着姿だった時に脱衣所に入って来られ、しっかりとその中途半端な格好を見られてしまった。
思えば、確かに初めて逢坂の家に泊まった翌日、下着姿を晒していたかもしれないが、初めてじゃないからいいというわけでもない。
思い出して、ぷぅ、と頬を膨らませると、ふ、と口元を綻ばせた逢坂が、くしゃ、と頭を撫でてきた。
「次期社長夫人に、失礼だったな」
すまん、と何気なく言われ、え、と青くなる。
「弁当、これ食っていいのか?」
「あ、どうぞー。私たちは、先に食べちゃいましたー」
まだコンビニの袋に入ったままのお弁当を取り出しながら言うと、絃里がそれに気付いて、お茶を入れようと立ち上がるが、汐は固まったまま、動けなかった。
「逢坂さん、どうして……」
知ってるんですか、とは言葉にできなかった。
完全に青くなってしまった汐に、ソファに腰を下ろして手招きをすると、汐はゆっくりとそれに従うように逢坂に近付き、逢坂の隣に座った。
「松澤も、ちょっとこっちに座れ」
「はい」
逢坂に呼ばれ、さっさとお茶を入れた絃里は、逢坂の目の前にお茶を置いて、カーペットの上にあぐらをかいている淳太の隣にペタンとお尻をつけた。
「今日、眞山専務と話をした」
「……え?」
汐は、瞬間、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「2課の及川汐は、自分の婚約者だ、と。あれは、俺に対する牽制だったな」
やはり、と逢坂の言葉に、愕然とする。
全然関わりのないかのんに、わざわざご丁寧に『汐の婚約者だ』だと言うくらいだから、逢坂に話すのも、不思議ではない。
汐は、一度、眞山に逢坂のことを訊かれている。
どういう経緯で逢坂と眞山が話すことになったのかはわからないが、逢坂が2課の課長だと名乗って、汐の側にいたオウサカと結びつかないわけがない。
外堀から固められていくような眞山の行動に、汐は気付けば手が震えていた。このまま、眞山の思うとおりに事が運んで、眞山と結婚することにでもなったら……。
「及川」
体を揺さぶられ、はっとして逢坂を向くと、ぼたっと大粒の涙が膝の上で握る拳の上に落ちて、ああ、自分は泣いていたんだ、と悟った。
自分が泣いていることさえわからないくらい、恐怖を感じていたのだと同時に気付き、汐は眉を八の字にして、流れる涙に抗わず、ひっ、と嗚咽を漏らした。
及川、と声をかけながら、逢坂は汐の背中を撫で、泣き止まそうとするも、逢坂の腕の中にいる安心感と、眞山の言動による不安感で、涙は止まず、逢坂のスウェットを湿らせていく。
しばらくその状態が続くと、痺れを切らしたらしい淳太が絃里の腕を掴んで立ち上がり、あの、と気まずそうに逢坂に声をかけた。
「俺たち、帰ります。明日の朝、駅で及川を待ってますから」
「は? ちょっと、貴島さん?」
半ば担ぐように絃里を引きずって、淳太は玄関へ足を向けるが、貴島さん、と文句を言いながら暴れる絃里の所為で、なかなか前へ進まない。
「私、帰るなんて、言ってませんっ」
「じゃあ、逢坂さんの家に泊まるつもりだったのか?」
絃里の言葉にカッとなった淳太が足を止めて絃里を睨むと、絃里もそれにカチンときたようで、いけませんか、と眉間に皺を寄せた。
「逢坂さんの家に泊まるのに、貴島さんの許可は必要ないですよね?」
「必要だろ!? 俺は、松澤さんの何なんだよ!?」
「ただの同僚でしょう!?」
「はぁ!?」
段々と声の大きくなってくるふたりに、汐は驚いて泣くのを止め、目をパチクリさせる。
「松澤さんは、ただの同僚とああいうことするの!?」
「その話、何回目ですかね!? いい加減にしてくださ……っ」
淳太は絃里の顎を掴むと、そのままぐっと自分に引き寄せて、絃里の唇を自身のそれで塞いだ。
あっ、と思わず声を出しそうになった汐の口を、逢坂がそれまで背中を撫でていた手で、さっと封じる。
んーっ、と淳太の腕の中で絃里はもがくが、淳太はそれでも絃里を放さず、顎を掴む反対の手は、きつく腰を引き寄せていた。
同僚同士の思いがけない場面に、汐は見てはいけないと思いつつも目を離せなくて、心の中で、きゃー、と歓喜の声を上げながら、じっくりとふたりを見入っていると、口元に添えられていた逢坂の手がゆっくりと離れ、見れば、逢坂は机の上にあった弁当に手を伸ばしていた。
(あ、ごはん……)
まだ食べてなかったんだ、と思い出し、こそっと耳元で、温かいお茶、入れ直しますか、と訊いてみると、いや、と首を左右に振られた。
「逢坂さんて、マイペースですよね」
淳太と絃里を気遣い、やや小声でそう話しかける。
これでもかというほど、汐のペースに合わせて、神の領域に達するんじゃないかというくらい理性を保ってきた逢坂は、まさかの言葉を投げられて、かろうじて繋がっていた理性の糸が切れた音がした。
部下が目の前でキスしている中、よくも平気で食事が摂れるものだと思い、訊いてみたのだが、逢坂は箸を置き、お茶を勢いよく流し込んだ後で、にっこりと微笑んで汐の両手を握ってきた。
「俺のペースに合わせて、キスくらいしてもいいってことだよな、それは」
「そ、そんなことは言ってませんーっ」
なんでそうなるんですか!? と顔を近付けてくる逢坂から離れようとするが、手を掴まれているため、汐はそのまま、ドスン、とソファに背中を預ける形になる。
急に、どうしてスイッチが入った!? とパニックになる汐に対して、逢坂は嬉しそうに微笑んでいる。
逢坂が、潔いな、と覆いかぶさってきて、汐はぎゅっと目を瞑った。
逢坂のことは好きだけれど、こんな状況じゃなくて、もっとムードとか、そういうのがあってもいいんじゃないかとは思うが、今までさんざん、逢坂には甘えて、我慢させていたことを考えれば、キスのひとつやふたつ、それこそしてあげてもいいのかもしれない。
だけど、でも、と汐が迷っていると、ちょっと、と凄みのある絃里の声が聞こえてきた。
「何してるんですか、逢坂さん!?」
◇ ◇ ◇
「うしおセンパイ、いつも逢坂さんに、ああやって襲われてたんですか?」
寝室のベッドの中、汐の腰に手を回してぎゅっと抱き締めてくる絃里にそう言われ、汐は慌てて、そんなことないよ、と否定する。
「あれは、ただの悪ふざけ。逢坂さん、一緒に寝ても何もしてこなかったし」
多少、我慢はさせていた感はあるが、と思って口にすると、意外だったのか、絃里は目を丸くして、そうなんですか、と呟いた。
汐が逢坂に襲われている光景を目の当たりにした絃里は、有無を言わさず、逢坂の家に泊まることを決め、汐がいつも使っているという寝室に汐を連れ込み、さっさとベッドに入り込んだ。
本当はシャワーを借りたかったが、また汐が襲われるかもしれないと思うと断念せざるを得ず、汐に予備のスウェットを借りるとありがたくそれに身を包んだ。
「逢坂さん、よっぽどうしおセンパイのこと大切にしてるんですね」
それに比べて貴島さんは、と頬を膨らませた絃里に、ねぇ、と汐が首を傾げる。
「絃里ちゃんは、淳太のことが嫌いなの?」
毛嫌いしているようにも見えないけれど、それほど好いているようにも見えなくて、汐は素朴な疑問をぶつけてみる。
すると、汐の腰に回していた手を離し、仰向けになって、よくわかりません、と声を曇らせながら答えた。
「嫌い……じゃ、ないと思います。でも、好きかって聞かれれば、それも違う気がして」
なんなんでしょうね、と絃里も混乱している様子で、ふぅ、とため息を吐く。
「今まで、男の人にあんなに執着されたことなくて。正直、困ってます」
眉根を寄せてそういう絃里の表情は、困っているというより、どちらかといえば嬉しそうにも見えて、汐は布団の中から手を出して、よしよし、と頭を撫でた。
「淳太、ああ見えて、割と一途みたいだよ。入社した頃から好きな人がいるみたいで、告白とかされても、ずっと断ってたみたいだし」
「……それって」
うしおセンパイのことですよね、と言いかけて、やめる。
ん? と訝しげな表情をした汐に、なんでもありません、と言うと、だからね、と言葉が続いた。
「もし淳太が絃里ちゃんを好きになったんだとしたら、きっと、大事にしてもらえると思うよ」
「そう、ですかね」
けれど淳太のあれは、ただ責任を取ろうとしているだけで、絃里のことを好きだからではない。
もちろん、嫌いではないのだろうが、やっぱり、絃里よりは汐の方が好きなんだと思うし、その気持ちはよくわかる。
絃里がもし男だったら、自分よりも汐と付き合いたいと思うだろうから。
絃里は身を捩り、また汐の腰に抱き着くと、ゆっくりと目を閉じた。
「私、うしおセンパイになりたかった……」
「え?」
ストーカーなんてされたくはないけれど、逢坂にも淳太にも大事にしてもらえて、素直でかわいくて。
ひねくれている絃里とは、正反対で。
「絃里ちゃん?」
汐は心配そうに声をかけるが、すぅすぅ、と規則正しい寝息が聞こえてきたので、布団を肩までかけて、絃里を抱き締めるように体を動かすと、お休み、と小さく声をかけて、ゆっくりと目を閉じた。