ストーカーキューピット

3. そもそもの目的を失念していました

4

 それで? とその女性――のような格好をした男は、話の続きを訊いてくる。

「今、よからぬことが聞こえてきたけど。あんた、ストーカーにつき纏われてるの?」

「こ、声が大きいよっ」

 しー、と人差し指を立てて、汐は辺りを見回しながら、とりあえず、とかのんの隣に座るよう促す。変わらず、戸惑いを隠せない絃里とかのんに、えっと、と申し訳なさそうに、汐は口を開いた。

「イトコの、克己くんです」

「どうも~」

 克己が手をひらひらと振り、明るく、絃里とかのんにあいさつをすると、それに圧倒されながら、ふたりもペコリと頭を下げ、軽く名字だけ名乗ってくれる。

「それで? ストーカーって、どういうことなの?」

 ずい、と身を乗り出してきた克己に、知らない男から電話が来たこと、今日会社に来た時に、汐の婚約者を名乗っていたことを簡単に説明した。
 部屋が荒らされていたことは、かのんの手前、言うのは控えた。

「眞山良、ねぇ」

 ふーん、と名刺を見ながら、克己は汐の皿に乗っているパンに手を伸ばした。

「リョウって名前だけなら、心当たりがあるんだけど。眞山じゃなかったわね、確か」

「カッちゃん、知ってるの?」

 パンをひと口分ちぎって口の中に入れ、ちらり、と呆れたように汐を見やる。

「あんたの実家の近所に住んでたでしょ、昔。泣き虫リョウちゃん」

「……あっ」

 言われて、古い記憶が呼び起こされる。

 近所の公園に遊びに行くと、いつも泣かされている男の子がいて、汐はいつも、それを助けていた。木の棒を振り回し、いじめっ子たちをやっつける姿は、さすがに今思い出すと、甚だ恥ずかしいものがある。

「名字が違うから、何とも言えないけど。あたしの知ってるリョウは、その子くらいかしらね」

 リョウは小学1年の頃に引っ越しして、それ以来、会っていない。
 克己に言われるまで思い出さなかったが、確かに汐の記憶の中にも、リョウはいた。

 だがとても、あのあどけなかったリョウが、そんな卑劣な行為をするような人間に育っているとは思えなかった。

「おじさんは、知ってるの?」

 不意に、睨まれるように言われ、う、と言葉に詰まる。

「……言ってない」

「まったく。何かあってからじゃ遅いのよ?」

 あんたは昔から……、とお説教が始まるかと思ったが、あ、と思い出したように腕時計を確認すると、克己は急に立ち上がった。

「次の仕事に間に合わなくなるから、行くわね」

 克己の言葉に、失礼だがほっとした。やはり、あまりいい話題ではないから、身内にどうこう言われるのは嫌だった。

「お邪魔しちゃってごめんなさい。汐のこと、よろしく頼むわね」

 絃里とかのんに向かって頭を下げると、今度は汐を向いて、ぽん、と頭を撫でてくる。

「何かあれば、すぐに電話して。あとから知らされるこっちの身にもなりなさい」

「……うん。ごめんね」

 できることなら、克己にもバレたくなかったのだが、と思う汐ではあったが、バレてしまった以上、仕方がない。
 克己にバレることは本意ではなかったが、実際、相談できる味方ができたことはありがたかった。

 克己が来たことにより、思っていた以上に時間が過ぎてしまったので、さっさと食事を済ませて店を出ると、うしおちゃん、とかのんが神妙な面持ちで汐を見やった。

「さっきの、ストーカーの件なんだけど、取引先の専務さんだから、あまり無下にはできなくて。でも、うしおちゃんのことは、極力、話さないようにするわね」

「そうしていただけると、助かります」

 かのんの申し出に、汐はありがたく頭を下げる。
 逢坂のことを言えない後ろめたさもあり、苦手意識があったのだが、話してみると案外、悪い人ではなさそうな気がした。

 今回の件が解決したら、いよいよ、逢坂とのことは話さなければならないだろうが、今しばらくは、黙っていることに影ながら謝罪して、会社への道を絃里と3人で並んで帰った。



「淳太、はい」

「サンキュー」

 オフィスに戻ると、汐はすぐに手に持っていた淳太へのパンを、1階の自動販売機で買ったコーヒーと一緒に淳太のデスクへ置いた。
 淳太は出張報告書を書いている途中だったが、それを止めてざっくりと机の上を片付けると、すぐにパンの入った袋を開けて、げ、と嫌な声を出した。

「これ、お前が選んだの?」

「ううん、絃里ちゃん」

 汐の言葉に納得したのか、ああ、と項垂れながら返事をし、ちらりと絃里へ視線を送る。

「ケンカしてるの?」

 順太の視線の先に気付いた汐が、体を屈ませて、こっそり淳太に訊ねると、うーん、と煮え切らない感じで、頬杖を突く。

「よくわかんねーけど。まぁ、怒らせた気がしないでもないような」

「どっちなのよ?」

「だから、わからないんだって」

 言いながら袋に手を入れて、トマトが頭をのぞかせている『まるごととまと』を口に頬張る。
 う、と眉間に皺を寄せ、それでも淳太はむしゃむしゃと口を動かし、コーヒーで流し込むように一気にそれをたいらげた。

「そこまでして食べなくても……」

「いーんだよ。っていうか、松澤サンが選んだんだったら、食うし」

 ふぅ、と息を吐いて、もうひとつのパンに手を伸ばす淳太のセリフに、おや、と汐は目を丸くする。
 ちょっとこじれてるだけで、やっぱり、そういう関係になっているのかな、と少し気にはなったが、淳太も絃里も、きっとそれには触れて欲しくないだろうと思うので、汐はあえて何も言わず、それ以上は言わないようにした。

 涙目になりながら調理パンふたつを完食すると、淳太は残りのコーヒーも飲み干し、財布から千円札を取り出して汐に差し出した。

「足りる?」

「お釣りがくるよー」

「じゃあ、松澤さんにコーヒーでも買って渡しといてよ。ごちそうさんって」

「うん、わかった」

 もらった千円札を折りたたんでポケットに入れて自分のデスクに向かおうとした汐は、あ、と今日の帰りのことを思い出し、念の為にと確認する。

「淳太、今日の帰りは……」

「わかってるよ。逢坂さんちでミーティングだろ?」

 心配するな、と目で言われ、汐は安心してデスクへ戻った。

「絃里ちゃん、淳太がお駄賃くれたから、あとでジュース買いに行こうよ」

 汐の言葉に、絃里は、え、と目を大きく開いた。

「貴島さん、あれ、食べたんですか?」

「え? うん、食べてたよ」

 かなり無理してたけど、とは言わずにおいたら、そうですか、と顔色を曇らせて、絃里は淳太の方へ視線を向ける。
 意地悪をしている自覚は、やっぱりあったんだな、と思いつつ、汐は散らかっているデスクの上の書類に手を伸ばし、午後の仕事に就いた。

◇ ◇ ◇


 1時間ほどの残業を終えて、うーん、と背伸びをすると、後ろから、お疲れ、と声をかけられた汐は、そのまま頭を後ろに倒した。

「淳太」

「終わったか?」

「うん、なんとか」

 姿勢を戻して振り返ると、淳太が手に持っていたカフェオレを渡してくれるのを受け取って、帰り支度を始める。

「ごめんね、遅くなっちゃって。今準備するから」

「気にすんな。どうせ、逢坂さんも遅いんだろ?」

 うん、たぶん、と言いながら逢坂のデスクに視線を移すが、そこには誰にもおらず、未決済の書類が山積みになっていた。
 外出先からまだ戻っていないらしいが、あの山は、今日中に目を通すのだろうか。考えただけでも、ぞっとする。

「晩飯は? 何か食って帰る? それとも弁当でも買うか?」

「うーん、どうしようかな。絃里ちゃんは、なんて?」

 絃里の名前を出した途端、淳太は、眉間に皺を寄せ、聞いてない、と素っ気なく答える。

 一緒にいる機会が多いのに、こうもギクシャクした様子だとなかなかにやりづらいのだが、まぁ淳太と絃里の都合もあるだろうからな、とは思うものの、そこは男である淳太がなんとかすべきなんじゃなかろうか、と汐は淳太を睨んだ。

「ケンカするのは勝手だけど、その空気、家まで持って帰るのは止めてよね」

「わ、わかってるよ」

 汐に凄まれ、淳太は焦るように視線を反らして、オフィスからそそくさと出て行ってしまった。
 まったく、とため息を吐いて、汐は自分の端末がシャットダウンされたのを確認すると、淳太を追うようにオフィスを後にした。

 着替えを済ませて玄関先まで行くと、遠目に絃里と淳太の姿が見え、汐は足を急がせた。
 汐の姿に気付いた絃里が、あ、と声を出すと、淳太も汐が来たことがわかり、ほっとした顔付きになった。

「お待たせ」

「いえいえ。じゃあ、帰りましょうか」

「うん」

 絃里は汐に腕を絡ませると、淳太から目を反らすように顔を背ける。
 仲直りしろって言ったのに、と思いながら淳太を睨むと、淳太は申し訳なさそうに、悪い、とひと言だけ呟いて、頭を掻いた。

「絃里ちゃん、ご飯、どうする?」

「何でもいいですよぉ。でもうしおセンパイのためには、お弁当買って、逢坂さんの家で食べた方がよくないです?」

「それもそうだね」

 狙われている、とまで言っていいのかわからないが、そういう状況の中で、悠長に外食などしている場合ではないかもしれない。
 結局、近くのコンビニでお弁当を買って、早々に逢坂の家に向かうことにした。

◇ ◇ ◇


「なんだそれ、気持ち悪いな」

 コンビニで適当に買ったお弁当を食べてから、汐は今日かのんに聞いた眞山の話を淳太にすると、淳太はつまみの枝豆を口に放りながら、心底、嫌そうな表情をした。

「だから、ストーカーなんですよ」

 淳太の言葉に、ふい、と視線を合わせずに、絃里がそう漏らしたことに、汐は眉間に皺を寄せ、はぁ、と大きくため息を吐く。

「絃里ちゃん」

 汐に呼ばれ、はい? とかわいらしく返事をすると、びしっ、と人差し指を前に持ってこられ、目を丸くする。

「淳太と何があったか知らないけど、いい加減、仲直りして。こんな空気、もうイヤ!」

「……」

 大きな声で言われ、う、と泣きそうになりながらも、絃里はちらりと淳太へ視線を向けるが、やっぱり無理、と言わんばかりに、首をぶんぶんと左右に振った。

「いーとーりーちゃーんー?」

「は、はいっ」

 汐の声が怒気を含んでいるのがわかり、絃里はキュッと唇を噛み締め、淳太を向くが、どうにも言葉が出ず、くう、と喉を鳴らした。
 そんな絃里の姿に、汐は弱い者いじめをしているような気分になるが、仲違いをした理由があるのなら、話せばきっと元に戻るはずだと心を鬼にし、立ち上がる。

「私、お風呂に行ってくる」

「う、うしおセンパイ……」

「淳太、悪いヤツじゃないよ。話せば、わかってくれるから」

 絃里ちゃんが思ってること、言えばいいよ、と微笑んでから、汐は風呂場へと姿を消した。
 汐のいなくなったリビングで、絃里は顔を上げることもできず、唇を噛んだまま下を向いていた。
 静まり返った部屋に、カチ、カチ、と時計の音だけが響く。

 テレビを点けさせてもらえばよかった、と思った矢先、松澤さん、と淳太に声をかけられた。

「あの……、ごめん」

 とりあえず、と言わんばかりに謝罪の言葉を発した淳太に、カッと目を見開いて、絃里は顔を上げた。

「それ、何の『ごめん』ですか?」

「え? いや、だって、怒ってるから」

「だから、理由もわからないのに、謝ったりしないでくださいっ」

「怒ってる理由も、教えてくれないのに?」

 はぁ、と面倒そうにため息を吐いて、淳太はゆっくりと絃里に近付く。
 絃里は近付いてくる淳太に気付きはしたものの、逃げるのを堪え、ぐっと拳を握った。

「ちゃんと、話そう。何が、気に入らなかった?」

「……」

 向き合って話そうとしてくれる淳太に、絃里は、だって、と声を震わせる。

「私、責任取ってほしいなんて、言ってない」

 そこまで言って、ぽつり、大粒の涙が膝の上に置いてある絃里の拳に落ちた。

「私、責任を取ってもらいたくて、貴島さんと」

 寝たんじゃない、と言葉にしたところで、ぐい、と淳太に抱き寄せられた。

 一瞬、目を丸くしたものの、淳太の体温に触れ、それまでピンと張り詰めていた糸が切れたように、はらはらと涙が零れ始める。

「責任とか、そういう気持ちで、一緒になんて、いたくない」

「……」

 淳太は絃里の言葉を、黙って聞いていた。

 一度だけ、絃里を自宅に泊めて、その時に関係を持った。
 その翌日に焼き肉屋で汐と逢坂に会って、ふたりが実は付き合っていなかったという事実を知って、迂闊にも絃里の目の前で喜んでしまった。

 恋愛感情はなかったとはいえ、そういうことをした女性の前で、あまりにも不謹慎だったと反省し、淳太は絃里に交際を申し込んだのだが。

 どうやら絃里は、それが気に入らなくて機嫌を損ねていたのだと、ようやく理解した。

「無責任なことをしたって思ってる。でも、松澤さんを大事にしたいと思ったのも、事実だから」

 汐と逢坂を、羨ましそうに見つめている絃里を見て、もちろん、責任を取ろうという気持ちがなかったとは言えないが、絃里の、そういう相手になれればいいな、と思ったのも事実だ。

 だが絃里には、淳太が罪滅ぼしのように交際を申し込んできたとしか思えず、面白くなかったのだろう。