ストーカーキューピット
3. そもそもの目的を失念していました
3
ふわ、と眠そうに欠伸をしながら、逢坂は吊り革を握る右手に自分の頭を乗せて目を閉じた。
「……やっぱり、眠れなかった、ですかね?」
「当たり前だ」
逢坂の隣に立つ汐が、申し訳なさそうに見上げると、眉間に皺を寄せた逢坂にすごい目で睨まれた。
ですよねー、と思いながら、汐は逢坂から視線を外し、ごめんなさい、と心の中で謝罪してみる。
夕べ、逢坂は同じベッドで、汐の願い通り、手を繋いで寝てくれた。
お互い、近付こうと思えば近づける距離にいて、でも数センチの距離を保ったまま、逢坂はそれ以上、近づいてはこなかった。
(ひとりで寝るには、寂しすぎたんだもん)
しょうがないじゃない、という汐の言い分を理解してくれていたのか、逢坂は文句も言わず、すんなり同じベッドで寝てくれた。
眠れなかった逢坂には悪いが、汐は対照的で、逢坂の手の温もりと、誰かが隣にいるという安心感から、ぐっすりと眠ることができた。
就業中、コーヒーの1本でも買ってあげようかな、と思ってまた見上げると、逢坂は手で隠すように、また欠伸をしていた。
「うしおセンパイ、逢坂さん」
葡萄川の駅で待っていると、絃里が元気よく、おはようございます、と駆け寄ってきた。
「おはよう。じゃあ、あとは頼むな」
「はい」
了解です、と絃里が答えると、逢坂はさっさと会社へ向けて歩みを進めた。
「じゃ、私たちも行きましょうか」
「そうだね」
逢坂が見えなくなったのを見届けて、汐は絃里と一緒に会社を目指す。
さすがに一緒に会社に行くわけにもいかず、汐は絃里に早めの電車に乗ってもらい、会社まで一緒に行くよう連絡をしていた。
昨日の今日なので、との逢坂の采配だ。
「お昼は、三浦さんと約束してるんでしたっけ?」
「そうなの。なんか、気に入られちゃって」
はは、と軽く笑って見せる。
絃里には、かのんが逢坂に好意を寄せていることは、言えなかった。
かのんが本気で逢坂を好きで告白していたのなら、それを他人である汐が、接点のない絃里に伝えていいはずがない、と思ったからだ。
絃里は妙に仲のよくなった汐とかのんに違和感を覚えているふうではあったが、そこにはあえて、触れてこなかった。
「三浦さんかー。私、あいさつくらいしかしたことないです」
私もだよ、と賛同したかったが、汐はぐっと言葉を飲み込み、ごめんね、と言葉を続ける。
「ちょっと場がもたないと思うけど、ついてきてね」
「もちろんですよー。逢坂さんに、頼まれてますからねー」
任せてください、と胸を張る絃里に感謝しながら、汐は今日のお昼をかのんと一緒に過ごすことに憂鬱を感じていた。
お昼のチャイムが鳴り、汐がバッグから財布を取り出して顔を上げると、もうすでに準備の済んだらしい絃里が、側に立っていた。
「お待たせ。行こうか」
「はい」
絃里と並んで玄関先まで行くと、待っていたかのんがすぐに気付いて駆け寄り、汐の隣にいた絃里に視線を移すと、ぺこり、と小さく頭を下げた。
あ、と思い、汐がさっと絃里をかのんに紹介する。
「同じ部署の、松澤絃里ちゃんです」
「松澤です。今日はお邪魔して、すみませぇん」
3課の三浦です、とかのんが握手を求めると、絃里は一瞬、迷った素振りを見せたが、すぐに順応して、どうも、とその手を握った。
「じゃあ、行きましょう。友達に教えてもらった、美味しいパン屋さんがあるの」
嫌いじゃない? と聞かれ、大丈夫です、とふたりで答えると、安心したようにかのんは先頭を歩き始める。
かのんについていくように歩みを進めると、ちょうど出先から戻ったばかりらしい淳太が玄関先へいるのが見え、軽く手を振ると、それに気付いた淳太が、3人でいるのに目を丸くしながら近寄ってきた。
「珍しい組み合わせだな」
「ま、まぁね」
淳太が言うのが、かのんがそこにいることだとわかり、はは、と乾いた笑いを浮かべる。
「何食いに行くの?」
「えーっと、パン。なんか、美味しいパン屋さんがあるらしくって、それで」
「じゃあ、俺にも2、3個買ってきてよ」
金は後で払うから、と言われ、わかった、と汐が返事をすると、淳太はかのんに頭を下げてからエレベータへと向かった。
「やっぱり、貴島さんもカッコいいですよね」
「……も?」
かのんの台詞に、敏感に反応したのは絃里だった。
「知ってます? 3課の間で、2課は別名、イケメン課って言われてるんですよ」
ふふ、とかのんが言うのに、絃里は至極面白くなさそうに、目を背ける。
そんな絃里に気づいた汐は、うーん、と微妙に頭を悩ませ、本人たちは否定していたが、やっぱり淳太と絃里には何かあったんじゃなかろうか、と思わずにはいられなかった。
かのんの勧めるパン屋は、会社から歩いて10分くらいの距離にある、小ぢんまりとした佇まいの、おそらく2階部分が居住スペースであるらしい2階建ての1階部分にあった。
イートインスペースは主にテラス席で、満席とまではなかったが、そこそこに埋まっている。
汐は、んー、と自分のパンを選ぶついでに、頼まれていた淳太の分も選んでいると、隣から、ひょい、とパンが乗せられた。
「貴島さんには、それがオススメです」
言いながら、もうひとつ、トレイに乗せられる。
見れば、ひとつは『まるごととまと』という名前のとおり、トマトが丸ごと、パンで包まれていて、少しばかり覗かせるトマトの頭の部分には、グラタンのようなものがかかっている。
もうひとつは、『とまなすぱん』という、これもまた素材がトマトで、こちらは細かく刻んだトマトと茄子、挽肉などを混ぜたものが、あんぱんの餡のように包まれていた。
「……淳太って、確かトマト」
「ええ、お嫌いだったと思いますよ」
にっこりと微笑みながら、何か問題でも? と言わんばかりの絃里に、だよね、と思い、うーん、と眉根を寄せた。
やっぱり、仲、悪いのかなぁ、と絃里に訊いてみようと思うも、ふたりのことだし、あまりおせっかいを焼くのもなぁ、と思い止まる。
まぁ、食べるのは淳太だし、と汐は絃里の勧めるパンをそのままに、自分の分と合わせてレジに向かった。
会計を済ませてテラスの方を見ると、常連なのか、慣れた様子で先に会計を終わらせていたかのんが席を取ってくれていたので、そちらへ足を向けると、すぐに絃里もあとについてきてくれた。
「そういえば午前中、うしおちゃんの婚約者の方が見えたわよ」
「ごほっ」
かのんの言葉に、汐は席に着いてすぐ、喉を潤そうと口に含んだオレンジジュースを、思わず噴き出した。
あらあら、と慌てて、かのんがバッグからハンカチを取り出して拭いてくれるが、汐は目が点になったまま、ちょっと待って下さい、と絞り出すように声を出した。
「こ、婚約者って、だ、ダレですかね!?」
逢坂のことはまだ知らないはず、と思いながら、訊いてみる。
いや、そもそも、逢坂とは婚約どころか、付き合っているのもあやふやなのに、と夕べ手を繋いで寝たことを思い出し、少し顔が赤くなったのをごまかすように、手を口元に運ぶ。
隣に座る絃里は、汐が噴いたオレンジジュースを布巾で拭いながら、かのんの言葉が気になったのか、ちらちらとふたりの会話を窺うように視線を動かしている。
逢坂の家に居候していることを知っている絃里にしたら、気になるセリフだっただろう。婚約者がいるのなら、逢坂を頼りにせず、そちらに行くべきなのだから。
すると、きょとん、と不思議そうな表情をしていたかのんが、名刺をもらったの、とポケットから名刺入れを取り出し、その中に収まっていた1枚を見せてくれた。
『眞山商事株式会社 取締役専務 経営企画室室長 眞山 良』
見せられた名前に、愕然とする。
マヤマ、だ。
偶然? いや、こんな偶然、あるはずがない。
いきなりかかってきた電話と、かのんの言う婚約者発言。
部屋を荒らしたのも、きっと眞山良に違いないだろうと思うのに、汐には理由が掴めなかった。
いつか、どこかであったのだろうか。だとしても、あちらの一方通行で、汐にはまったく、身に覚えがない。
それなのに、まるで彼氏のような電話越しの口振りを思い出し、汐は両手で肩を抱いた。
「あの、三浦さん。この眞山……さんて人、誰に用事だったんですか?」
「社長よ。眞山商事の社長とうちの社長、昔からの知り合いらしくって。眞山社長の方は何度も来られてたんだけど、息子さんは、今日初めてお会いしたわ」
社長の息子!? と汐は目を丸くする。
甘やかされて育っていれば、勝手をするのも納得がいくが、不法侵入は犯罪だ。あちらが一方的に彼氏だの婚約者だのと言っていても、汐は顔もわからない相手。
許されていいはずがない。
「この眞山さんて人、なんて言ってたんですか?」
絃里が、そう身を乗り出してかのんに問うと、ええと、とその時の会話を思い出すように、かのんが口を開いた。
「社長室に向かうエレベーターの中で、いきなり、及川汐を知ってますかって言われて、知ってますって答えたら、僕の婚約者なんですって。……もしかして、違うの?」
汐と絃里の様子から察してくれたかのんが、さっと顔色を変える。
否定すれば、勝手に婚約者を名乗る眞山は、よほど怪しい人物だとかのんに認定され、受付を通らずには会社に入れないのであれば、眞山対策には、かのんに打ち明けるべきかもしれない。
「三浦さん、今からの話、秘密にしてもらえますか?」
そう口を開いたのは、絃里だった。
「い、絃里ちゃん……」
「うしおセンパイ、いいですね?」
絃里の言葉に、汐はうなだれるようにして頷く。絃里は、かのんが逢坂に好意を寄せていることを知らないから、説明した方が賢明だと思ったのだろう。
だが逢坂の家に居候している事実を知っても尚、汐に協力してくれるとは、到底、思えなかったが、絃里が説明する気になっている以上、それを止めることもできず。
「その眞山って人、うしおセンパイの、ストーカーなんです」
「ス……っ!?」
驚いて声を上げ、かのんは慌てて口元に手をやった。それから周囲を探るように前屈みになり、絃里に顔を近づける。
「それ、本当なの?」
「間違いないです」
確信めいた絃里の表情に、汐は一瞬、そうなんだっけ、ととぼけたことを思う。
つき纏われているのだから、ストーカーに違いないのかな、と納得してふたりの会話を聞いていると、絃里のそのひと言で話は終わったらしく、汐が心配するような、逢坂の話は微塵も出なかった。
ほぅ、と安堵してため息を吐くと、後ろから、ふぅん、と色気のある声がして、肩に手が乗せられる。
「その話、詳しく聞かせてもらえるかしら?」
汐は思わず、唾を飲み込んだ。振り向かなくても、そこにいるのが誰で、かなり機嫌が悪いのがわかる。
急に現れた存在に、えっと、と戸惑う絃里とかのんに、汐は観念して、振り向いた。
「なんでここにいるの、カッちゃん」
「お客さん先がこの辺りで、たまたまあんたを見かけたから、店の中に入ってきたのよ」
汐の肩から手を退かして、そう言いながら腕を組むのは、すらりと背の高い、思わず見惚れてしまうような人で。
けれど、女性らしい格好をしていて、それもよく似合っているのだが、肩幅が広く見えるのは、着ている洋服のせいでないことだけは確かだった。