ストーカーキューピット
3. そもそもの目的を失念していました
2
ロッカーで着替えを済ませていると、うしおちゃん、と声をかけられて、思わず、う、と眉間に皺を寄ったのがわかり、額を手で撫でてから、はい、と笑顔で振り向いた。
「今から帰るの? 一緒に帰ろう?」
「あ、……はい」
曇りのない顔でかのんに言われ、断ることもできず、汐は項垂れるように頷く。
逢坂の家に帰るのに、と思うが、それはかのんは知らないことであるし、ましてや、知られてはいけないことである。
「三浦さんて、どこに住んでるんですか?」
探るように問えば、梨堀よ、と答えが返ってくるのに、梨掘か……、と肩を落として呟いた。
同じ駅じゃないか、と頭を悩ませるも、かのんは気付かずに、うしおちゃんは? と訊いてくる。
「……一緒です。梨堀」
「そうなの?」
同じだったんだぁ、とかのんが歩くのについて行きながら、今ここにいない絃里を、不条理に恨んだ。
いつもなら一緒に帰るのに、今日に限って絃里は用事がある、と先に帰ってしまった。
(誰よ、今日の絃里ちゃんを誘った奴は)
はー、と深くため息を吐くも、かのんはまっすぐに前を見て、他愛のない話をしている。
今汐が、逢坂の所に住んでいるなんて、微塵も思っていないんだろうなぁ、と思うと、なんだか不憫に思えてきた。
かのんは、逢坂に好意を寄せていることを汐が知っていて、協力してくれる、とでも思っているのだろうか。
だが生憎、両想いになったばかりの汐に、そんなことができるはずもないのだが、当然、かのんはそんなこと知る由もない。
かのんに、逢坂とつき合っているのか、と訊かれたときに、汐は、はっきりとつき合っていないと答えた。
それから1週間も経っていないというのに、今更、かのんに何と言えばいいのだろう。
目の前で、ころころと表情を変えて笑うかのんに申し訳なさを感じつつ、汐は、適当に相槌を打ちながら、かのんの後に続いて帰った。
「うち、ここなんで」
かのんと一緒に梨堀の駅で降りた汐は、歩きながら到着した自分のアパートを指差した。
「2階?」
「ですね。2階の……」
かのんに、部屋の場所を教えようと見上げて、ギョッとした。
――電気が、点いている。
「うしおちゃん?」
固まってしまった汐に、きょとん、とかのんが顔を覗かせてくるのにはっとして、ぎゅっとバッグを握る手に力を入れると、軽く息を吐き出した。
「2階の、電気が点いてる部屋です。今朝、消し忘れてたみたいですね」
はは、と乾いた笑みを漏らしながらも、汐は、震えが止まらなかった。
(どうしよう、逢坂さん……!)
この場にいるのも億劫で、心の中で逢坂に助けを求めてみるが、当然、逢坂にそんな言葉が届くはずもない。
じゃあね、と手を振るかのんを見届けてから、ふー、ともう一度息を吐き出して、2階の自室へ目を向けると、カーテンに、影が映った。
「……ッ」
汐は恐怖を感じ、震える足に何とか活を入れ、今来たばかりの道を引き返して駅に向かった。
カツカツとヒールが響く音が、誰かがつけてきているような錯覚を感じさせる。
息を切らしながら、途中、何度も振り返って人の多い駅まで着けば、汐は安堵からか、全身の力が抜けたようにその場に座り込んでしまった。
体を支えている両腕が、笑っている。呼吸が荒く、上手く息が吸えなくて。
逢坂に電話を、と思うが、バッグから携帯を取り出す元気もない。
通り過ぎる人達が、時折、大丈夫ですか、と声をかけてくるのに、ビクッと身体を震わせながら、はい、と答えるのが精一杯だった。
普段は煩わしく感じる人混みの喧騒が、今は汐に安らぎを与えてくれる。
(どうして、私が……ッ)
こんなに苦しまなければならないの、と思うと悔しくなって、握った拳をアスファルトに叩きつけた。
ガツっと鈍い音が汐に響くと同時、急にバッグが震え出し、汐は慌てて、バッグの中を探り携帯を見つける。
着信を表示している名前に、糸が切れたのか、涙が溢れた。
『及川?』
携帯から聞こえる逢坂の声が、頭の芯から足の先まで響いて、汐を放心させてくれる。
「お……、さか、さ……っ」
『及川? 今、どこにいる?』
汐が泣いていることに気付いたらしい逢坂が、一層心配そうに声をかけてくる。
ずず、と鼻を啜りながら、汐が、梨堀です、としっかり答えると、は? と案の定、怪訝な声を出された。
『お前、自宅に帰ったのか?』
「ち、違います。帰ったわけじゃなくて」
えーっと、と焦りながら言葉を探すと、尚更、言葉が見つからなくなって、違います、とだけを延々繰り返せば、落ち着け、と少し強めに声を張られた。
『迎えに行くから。梨堀の、どこにいる?』
「駅です」
はっきりそう言えば、わかった、と短めに言って、電話が切れる。
逢坂の声を聞いて、ようやく落ち着いた汐は、ポケットからハンカチを取り出し、それを目元に当てて立ち上がると、近くのベンチに腰を下ろして逢坂を待つことにした。
逢坂に声を張られたからか、汐は少し、落ち着きを取り戻していた。
ベンチに座り、ぼーっと駅の構内に出入りする人々を眺め、時折、じわりと滲む涙をハンカチで拭うと、また前を見る。
しばらくそうした後、手の中の携帯が震えて、着信を知らせた。
「はい」
『うしお?』
てっきり、迎えに来てくれた逢坂だろう、と名前も確認しなかった汐が、甘かった。
携帯から聞こえてきた声は、逢坂のものではなかった。
『どうして、逃げるの?』
「……っ」
声も出せず、頭がクラクラする。携帯を離せばいいのに、手が震えて、身動きができなくて。
『やっと、帰ってきたと思ったのに』
「!?」
瞬間、アパートの下にいたことがバレたのだとわかった。
あの影は、この着信主だろう。携帯の番号が、どうして、と思うが、家の中に契約書なり何なりあるので、すぐにわかる。
汐は固定電話を使っていないから、あらゆる契約を携帯で登録している。
家の中を自由に出入りしているのであれば、わからないはずがない。
『今から、迎えに行くね』
「い、いや……っ」
思わず、汐は携帯を投げ捨てた。どうしよう。どこにいればいい?
逢坂が来てくれるはずだが、それよりも先に、電話の男が来たら、どうすればいい?
投げつけられた衝撃で電池パックまで外れてしまったらしい携帯からは、もう声は聞こえてこないはずなのに、汐の耳には、男の声が未だに響いてくるようだった。
自分の体を、両手で守るように抱き締めて、地面の携帯を見つめる。
いつも持っている携帯さえも、自分のものではないようで。
まるでスピーカーが生きているように、携帯から男の声が響いてくる錯覚に、汐は身体を震わせた。
「こら」
ぽん、と頭に拳が乗って、汐ははっとした。
「なぜ電話に出ない?」
捜し回ってくれたのか、息を切らせた逢坂が、目の前にいて。
汐は言葉もなく、逢坂の胸に飛び込んだ。
ぎゅ、と力の限り逢坂の服を掴み、堪え切れない涙がどんどん溢れ出てくるが、汐はもう、我慢をするでもなく、溢れるがままに涙を溢れさせた。
まだ早い鼓動と、汗ばんだ逢坂の匂いが、ひどく汐を安心させ、恐怖を鎮めてくれる。
逢坂は、いきなり汐に抱きつかれて驚きはしたものの、電話に出なかった時点で何かあったのだと確信しており、汐が落ち着くように、黙って汐の頭を撫でてくれた。
道行く人々の視線がいささか気にはなったものの、今は他人の視線を気にしていられる余裕もなく、汐は逢坂の服を掴む手に、更に力を入れる。
逢坂が頭を撫でてくれる度、逢坂に、側にいるよ、と言われている気になって、汐は段々と、自身が平静を取り戻していくのを感じていた。
「落ち着いたか?」
「……はい」
すん、と鼻を鳴らして逢坂から顔を離すと、逢坂は両手で汐の頬を包んで、自分に目線を合わさせた。
「ブサイク」
「逢坂さん、ひどい」
ははっ、と声を出して笑う逢坂にムッとして、拳を握ると、逢坂がそれに気づいて、汐の頬から外した手でそっと掴み、口元に持っていく。
「あんまり、心配かけるな」
頼むから、という唇の動きが、汐の手に伝わって、初めて気づいた。
(……震えてる?)
家に帰って、汐がいなかったからなのか、汐が泣いていたからなのか。それとも、会社での汐の様子が変だったからなのか、理由はわからないけれど。
逢坂は、汐が心配だったのだ。
汐は、胸が締めつけられるようで、ぐ、と息を飲み、離れたばかりの逢坂の胸に、もう一度身体を預けた。
「ごめんなさい」
素直に言葉が出ると、ようやく逢坂も安心したのか、ふぅ、と吐き出した息で、震えが止まったようだった。
「とにかく、帰ろう」
逢坂は汐の手を握ると、ベンチの上に置き去りにされていたバッグを持ち、車へと足を向けた。
あ、と思い出し、汐は、ちょっと待ってください、と地面に落ちている携帯に手を伸ばすと、なんだ、それは、と逢坂が怪訝な表情をする。
「携帯を地面に叩きつけたくなるようなことが、あったのか?」
あったんですよ、と声を大にして言いたかったが、また逢坂を心配させるだけなので、やめた。
落としただけです、と小さく言って、繋いでいる逢坂の手に、きゅ、と力を入れる。
「帰りましょう?」
「……」
逢坂は納得していない様子だったが、諦めたように口元を緩めると、停めてある愛車へ向かって歩みを進めた。
◇ ◇ ◇
「きゃーっ!」
「うるさい、阿呆」
消毒液を、バシャっとかけられ、汐は、やめてほしい、と逢坂に訴えるが、手首をがっちり掴まれているため、逃げることができず、悶絶する。
「だって、痛いっ」
「当たり前だ!」
この馬鹿が、と頭ごなしに怒鳴られ、汐は身を竦めた。
「なんでこの状態で、痛みに気づかない?」
「き、気づいたから、治療されてるんですー」
「気づくのが遅いと言ってるんだ、このド阿呆!」
キーン、と耳を劈く声に、汐は目を瞑る。
すると、ふぅ、と盛大なため息の後で、ぴちゃ、と消毒液を含ませたガーゼを傷口に当てられ、恐る恐る、目を開けた。
「あんまり、自分に傷をつけるな」
「……はい」
優しく手当てする逢坂を見ていると、心が痛い。
逢坂と一緒に帰ってきた汐は、家に着くとすぐにシャワーを浴びに行ったのだが、お湯が手に触れた瞬間、全身に電気が走るような痛みに襲われた。
見れば、お湯で若干の血は流れていたものの、乾いた血がべっとりと手を覆い、どこから血が出ているのかわかりづらいほどで。
思わず叫べば、逢坂がすぐに脱衣所に飛んできてくれ、浴室に入るのは遠慮してくれたものの、手をケガしていた、と話すと、ものすごく怒られた。
いつケガをしたのか、と考えて、拳をアスファルトに叩きつけたことを思い出し、汐は項垂れながらシャワールームを後にした。
「痛いだろうが、我慢しろよ」
「はい」
逢坂が、汐の手に残るわずかな血痕を、湿ったガーゼで拭き取ってくれる。
手に触れられると痛むが、逢坂の優しそうな手つきを前に、そんな文句を言えるはずもなく、汐は黙って、逢坂が手当てをするのを見ていた。
やがて、乾いたガーゼの上に、くるくると器用に包帯が巻かれていくのを見ていると、逢坂が、今日は、と口を開く。
「どうして、家に帰った?」
「あ、それはですね」
汐は、帰り際にかのんに会い、逢坂の家に帰るわけにいかず、仕方なく自宅へ向かったことを説明すると、そうか、と逢坂は納得したようにため息を吐いた。
「で?」
「はい?」
「それだけじゃないだろう、報告することは」
言われ、汐は今日、会社にマヤマという人物から電話があったことと、自宅に誰かがいたこと、それから携帯にも着信があったことを、ゆっくりと、思い出しながら説明した。
「マヤマ、ねぇ」
ふーん、と呟いたまま、逢坂は黙ってしまう。
誰か、知ってる人でもいたのだろうか、と思い、汐が名前を呼ぼうとすれば、お前、と逢坂の方から声をかけられた。
「まさかとは思うが、眞山社長が関係してるとかじゃ、ないだろうな?」
「眞山社長?」
誰ですか、と首を傾げると、心底ほっとしたように、逢坂は汐の頭を、なんでもない、と言って撫でる。
そうした後で、逢坂は汐に背を向けて、救急箱を片づけ始めると、汐はおずおずとその背中に近づき、そっと頭を乗せた。
「怖かった、です」
「……ああ」
逢坂は救急箱から手を離すと汐の方を向き、そっと肩を抱き寄せて、とんとん、と規律正しく撫でてくれる。
心地いいリズムに身を任せながら、ようやく、力が抜けたように汐が盛大にため息を吐くと、明日は、と逢坂が口を開いた。
「松澤と貴島につき合ってもらって、ここまで帰ってくるといい。誰かに見られたら、部署会議があるとでも言えば、問題ないだろ」
幸い、全員同じ部署なんだし、とつけ加える。
「そう、ですね。そうします」
極力ひとりにはなりたくなかったので、申し訳ないが、事情を知っている絃里と淳太に協力してもらおう、と明日は逢坂の案に乗っかることにした。
「……逢坂さん」
「ん?」
逢坂に凭れながら、ちらり見上げてみると、逢坂は穏やかな表情をしており、それに癒されるついでに、とお願いしてみる。
「今日、手を繋いで寝てくれませんか?」