ストーカーキューピット
3. そもそもの目的を失念していました
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「ふわぁ」
大きな欠伸を溢し、汐は朝の通勤ラッシュの電車に揺られていた。
週末を焼き肉と水族館で満足に過ごしたあとの月曜日は、なんでこんなに身体が重いのだろう、とため息を吐きながら、ぎゅうぎゅうに詰められた車両の中、入り口のドアにもたれかかる。
たった10分の距離だから我慢できるものの、これが1時間近くともなると、とても我慢なんでできたものではない。
絃里は毎日、45分も我慢してるんだから、すごいよなぁ、と感心していると、葡萄川~、というアナウンスが聞こえてきて、10分の速さを実感する。
汐のアパートがある梨堀から葡萄川までは15分だったので、5分も短縮されているという事実に気付き、なんだか儲けたような気分で電車を降りると、ちょうど反対車両に乗っていた淳太が降りてくるのが見えて、おーい、と大きく手を振った。
「おはよー」
駆け寄って声をかけると、まだ眠そうな淳太が、おはよう、と返してくる。
「逢坂さんは?」
「先に出た」
汐の言葉に、ふーん、と頷きながら改札を通り、人混みを逸れて自動販売機に向かうあとをついて行くと、何がいい? と聞かれたので、カフェオレ、と答えると、ちゃんと汐のぶんまで買ってくれた。
「ありがと」
「どういたしまして」
駅を抜けて、買ってもらったカフェオレを飲みながら一緒に歩いていると、昨日は、と淳太が話しかけてくる。
「ずっと、逢坂さんの家にいたのか?」
「ううん。水族館に行ってきた」
「水族館……」
なんとも言えない表情を浮かべ、淳太は、あー、と頭をくしゃくしゃに掻きながら、汐を見ては前を見、また汐に視線を送り、と何度か繰り返し、いい加減、その淳太の態度にイラッとした汐が、何よ、とグーで肩を殴ると、決心したように立ち止まった。
「こ、今度は、俺と、動物園に行かないか?」
「動物園?」
なにを急に、と言いかけて、ふと、逢坂から言われた、おまえは水族館っていうか動物園だよな、という台詞を思い出し、コイツもか、と眉間に皺を寄せ、頬を膨らませる。
「絶対に行かないっ」
ふんっ、と鼻息を荒くして、汐は淳太から顔を背けてカツカツと会社に向けて足を急いだ。
置いて行かれた淳太は、えー、と眉尻を下げながら、あそこまで拒絶されるとは思いもしなかったのか、がく、と肩を落とし、とぼとぼと汐のあとを追いかけるように会社へと重い足を動かした。
汐の勤める会社は、駅から徒歩5分の距離にあり、比較的出入りがしやすいことから、飛び込みの顧客も多いので、受付には他の社員より1時間早く出勤している人もいる。
不正侵入を防ぐために裏口はなく、フロアを通ってロッカールームに行くのが決まりなので、当然、毎朝あいさつをしながら通り抜けるのだが、今日に限っては、うしおちゃん、と名前を呼ばれて、眉根を寄せながら、汐は受付の方を向いた。
「おはよう、うしおちゃん」
「……おはようございます、三浦さん」
カツカツと軽快なヒール音をさせながら、かのんが近付いてくるのに、一応、あいさつを交わしてから、そのうしおちゃんて、何ですかね? と訝しげに聞いてみると、え、と不思議そうな表情を返された。
「名前、合ってるわよね?」
「合ってますけど」
そうじゃなくて、と思うが、ほんわかとした空気を前に、汐は何も言えなくなった。
金曜日まで『及川さん』だったのに、土日に何も接触がなかった人から、急に『うしおちゃん』なんて呼ばれれば、そりゃビックリするわ! と言いたい気持ち抑え、じゃあこれで、と過ぎようとすれば、あのね、と肩を叩かれる。
「私、明日は12時から休憩なの。お昼、一緒にどうかなって」
「お昼、ですか」
1課や2課は通常、9時から18時までの勤務で、12時から1時間休憩を取ることになっているが、かのんの所属する3課は受付業のため、汐たちと同様の勤務時間の人もいれば、8時から17時までの人や10時から19時までの人もいる。
出勤時間によって休憩時間も異なるため、かのんが汐と同じ時間に休憩が取れることはときどきしかない。
明日はたまたま、通常の勤務時間だったのだろう。
初めての誘いに戸惑いながらも、断るのもどうかと思うので、汐は、わかりました、と承諾の返事をした。
「じゃあ、明日ね」
手を振りながら、かのんが受付へ戻っていくのを見届けて、汐は瞬間、思い出さなければよかったことを思い出した。
かのんは、逢坂に好意を寄せている。
それを知っていて、汐は逢坂の家に寝泊まりし、挙句、付き合うことに……、なった?
夕べの会話を思い出し、お互い、想いを打ち明けはしたが、交際を開始するとかそういったことは、まったく話さなかったな、と軽くため息をこぼし、かのんのことに頭を抱えながら、ロッカールームへと足早に消えていった。
「おはようございまーす」
汐があいさつをしながら2課のフロアに入ると、既に仕事を始めていた数名から、ちらほらと返事がある。
遠目にも、逢坂がさくさくと仕事を進めているのが見えて、あの人と今、生活してるんだよなぁ、とぼんやり思うと、なんだか急に気恥ずかしくなって、頬を赤く染めながら自分のデスクへと足を向けた。
「あ、おはようございます、うしおセンパイ。週末はお疲れさまでした」
「絃里ちゃん、おはよ。またご飯食べに行こうね」
汐の言葉に、はい、と笑顔を返すと、ちょうど内線がなり、それを素早く絃里が取るのを見届けて、汐は椅子に腰を下ろした。
なんだかんだ、週末は楽しかったなぁ、と振り返り、パソコンの電源を入れる。
金曜日のパスタも、土曜日の焼き肉も美味しくて、日曜日の水族館は楽しかったし、とても充実した週末を過ごした。
会社で、上司として付き合っているだけでは見えなかった逢坂の一面もたくさん見れて、逢坂のいいところがわかり、意外に付き合いやすいことが判明して。
一緒に寝ることは拒否られて、相変わらず逢坂はソファで寝ているけれど、それは汐を好きだから、という理由があるからで、好きな人と一緒にいられるのだから、居候は、逢坂にとってもプラスになっているんじゃないか、とさえ思っていた。
「うしおセンパイ、1番にお電話です。マヤマさんて方から」
「マヤマ?」
聞き覚えがないな、と考えながら、汐は受話器に手を伸ばし、電話を取る。
「お待たせしました、及川です」
『……』
「もしもし?」
『……』
電波が悪いのかな、と首を傾げた汐は、受話器から聞こえてきた言葉に、ガツン、と頭を殴られた衝撃を覚えた。
週末が、楽しすぎて。すっかり、抜け落ちていた。
『――どうして、家に帰ってこないんだよ』
どうして、逢坂の家に居候することになったのか。
『俺は、毎日、待ってるんだよ。うしおが帰ってくるのを。毎日、毎日、一人で』
「……っ」
受話器を握る手に、力が入る。
電話の相手は、汐を知っている。汐が、家に帰っていないのを知っている。
一体、誰? 思うも、声にならなくて。思考回路が崩壊して、考えも、まとまらない。
『土曜日は、びっくりした。――オウサカって、うしおの何?』
視界がグラグラと揺れ始め、地震かと思ったが、自分が揺れていることにすぐ気付き、受話器を持つ左手を、ぐ、と右手で鎮めるように握るが、どちらも震えているので、あまり効果はない。
は、は、と呼吸が苦しくなり、手に汗が滲んでくる。
『やっと帰ってきたと思ったら、男と一緒で。俺が、どれだけショックだったかわかる?』
土曜日に、家に帰ったのを知っている? 逢坂のことを知っているのは、見ていたから? じゃあ、名前は? どうして、逢坂の名前まで知ってるの? 聞いていた? いつから? どこから?
聞きたいことは山ほど出てくるのに、言葉は出てこなくて、ドクドク脈打つ心臓が、汐を壊していく。
『今日は、帰ってくるだろ? 俺、うしおの作るビーフシチュー、大好きなんだ』
作ってくれるだろ、というマヤマの声が、頭に響く。
ビーフシチューは、汐が好きで、頻繁に作っていたメニューである。
それを知っているのか、知らないのか、あえてビーフシチューをリクエストされたことに恐怖を感じる。
額には汗が滲み、目尻には涙さえ浮かぶのに、電話を切ることも、声を出すこともできなくて、ただただ震える身体を抑えることしかできなかった。
「お電話代わりました」
震える汐に気付いたらしい逢坂が、横から受話器を取り、さっと応対してくれるが、マヤマは電話の相手が代わったことにイラついたのか、舌打ちをして、さっさと電話を切ってしまった。
切られた、と言って、逢坂が受話器を置き、汐に視線を移すと、汐はまだ、左手を耳元に添えた状態で固まっている。
「及川」
逢坂が声をかけると、はっとして顔を上げ、助けを求めるような視線を送り、でもここが会社であることを思い出したのか、また俯いて涙を拭うと、仕事します、と震える声で言った。
ふぅ、と汐の傍らに立つ逢坂からため息が聞こえ、それにビクッと身を竦ませると、震える手で持った書類が、バサバサと音を立ててフロアに散らばった。
「す、すみません」
慌ててそれをかき集めれば、逢坂も汐と同じようにしゃがんで、書類を一緒に集めてくれる。
「あ、ありが……」
「帰ったら、話聞くから」
数枚の書類を手渡しながら、頑張れ、と声をかけると、逢坂は優しく、汐の頭を撫でた。
帰ったら。そうだ、今汐は、逢坂の家に居候している。帰るのは、逢坂の家に、だ。決して、マヤマのところにじゃない。
それを思い出して、全身に安堵が駆け巡る。
恐怖に蝕まれていた汐は、その逢坂のひと言で、すーっと震えが引いていくのがわかった。
手のひらを見て、震えが止まっていることを確認すると、ぐ、と拳を作り、胸の前に持っていく。
そうして、ふー、と息を吐き出してから、汐は、よし、と気を持ち直して、集めた書類を手に、デスクに戻ると、絃里が心配そうに、こちらを窺っていた。
「うしおセンパイ……」
「ごめんね、びっくりさせて。大丈夫だよ」
微笑んで、手元の書類に神経を集中させると、それ以上言うことを諦めたのか、絃里も机上の書類に手を伸ばす。
気が落ち着いてきた汐は、小学校から大学まで、マヤマの名前を探ってみるが、どうにも記憶には残っていないらしく、マヤマの正体が皆目、見当もつかない。
だがはっきりとわかったのは、汐の部屋を荒らしたのはただの空き巣ではなく、マヤマという人物だったということ。
不特定多数ではなく、汐を狙ってのことだった。
思い、ぶるっと身震いして逢坂に視線を向ければ、頭を悩ませながら、目の前のパソコンと書類を交互に見ていて、その様子に、ふ、と心が癒されていく。
(仕事、しなきゃ……!)
よし、と気合を入れ直して、汐は作業に取りかかった。
余計なことを考えたくなかった為、汐は、ろくに休憩も取らず、今日一日を過ごした。
部署内の電話が鳴る度に、びくっとその身を震わせて、自分にかかってきた電話ではないことに安堵して、また仕事を再開する。
そんな様子だったので、なかなか思うように仕事は進まなかったが、なんとか今日するべき仕事は終わらせることができた。
夕方6時前になってようやく腹が鳴り、昼の休憩を取らなかったことを思い出し、急激に空腹に襲われ始めると、夜は何を食べようか、といろいろなメニューが頭を駆け巡る。
「ハンバーグ、すき焼き……。ラーメンもいいなぁ」
「そんなに食うのか?」
声に出したつもりはなかったのだが、漏れていたらしい呟きに、いつの間にか後ろに立っていた逢坂が呆れたように言うのに、むっとして、食べません、と口を尖らせる。
「何食べるか考えてただけですー」
「幸せそうで、何よりだ」
言いながら、ぽん、と頭を撫でられて、もしかして、心配してくれていたのかな、とじんわり胸が熱くなり、はい、と頷いた。
「あ、そういえば、逢坂さん」
「ん?」
振り返り、言葉を出そうとして、汐はここがまだ社内であることを思い出し、はっと口を噤むと、どうした、と逢坂が訝しげな表情で覗き込んでくる。
「いえ、何でもありません」
今日の帰りは早いんですか? なんて、社内で訊くべきことではない。
言ってデスクの上を片づけ始めると、ふーん、とあまり納得のいってなさそうな声を出した後で、また、ぽん、と頭を撫でられた。
「まっすぐ家に帰れよ」
どっちの? と瞬間、恐怖を感じ、思わず逢坂の顔を見上げれば、ふ、と口元を綻ばせて、なんだよ、と聞いてくる。
「今、お前がいる家に、まっすぐ帰れよ」
「……っ」
汐の考えを読んでくれたのか、そう口を開いた逢坂に、思わず抱きつきたくなる衝動をぐっと抑え、はい、と小さく頷いた。