ストーカーキューピット

2. 週末は有意義に過ごします

5

「逢坂さん、逢坂さん、見てみて!」

 子どものようにはしゃぐ汐に、んー? と返事をしながら逢坂が近づくと、嬉しそうに、ほら、と指さした。

「ちんあなご!」

「……」

 かわいい~、とほのぼのした様子の汐の後ろ姿にため息を吐いて、逢坂は汐の隣に立った。

「この何も考えてない感じが、かわいいですよね~」

 呆れたように、そうだな、と相槌を打たれ、むっとして汐は、何ですか、と逢坂を睨んでみせると、別に、と返事が来る。

「逢坂さんが来たいって言ったくせに」

「その俺より楽しんでるおまえが、かわいいと思ったんだよ」

 そう頭を撫でながら言われ、思わずドキッとする。
 何をしれっと言ってるんだか、と思うが、汐は、顔が火照ってくるのがわかり、ぶんぶんと首を横に振ると、それにギョッとした逢坂が、どうした、と顔を覗かせた。

「な、んでもないです……」

 ふ、と口元を綻ばす逢坂につられて、汐まで笑顔を浮かべながら、この男は、実は天然系のタラシなんじゃないのかな、と失礼なことを考えた。
 それと同時に、やっぱり、と以前から疑惑の残っていた、逢坂が汐を好きなんじゃないか、という思いが、ますます強くなっていく。

 じーっ、と逢坂を見つめていると、なんだよ、と言いながら、逢坂は汐の頭を撫でてきた。
 黙って頭を撫でられながら、うん、と一呼吸置いて、汐も真剣に逢坂のことを考えてみる。

 真面目でイケメン。面倒見がよくて、営業的な愛嬌もそこそこある。おまけに、確かまだ35にはなっていなかったと思うが、早くに課長に就任していて、有望株。
 汐は、そもそもタイプではないと思っていたが、これだけ好条件を並べてみて、じゃあどういう男ならいいんだ、と逆に自分を叱責する。

 数日一緒に暮らしてみて、不都合は特になく、穏やかでいられたのも事実。断る理由なんて、どこにもない。

 そこまで考えたあとで、ふと、告白も何もされていないことに気づき、考えていた自分が恥ずかしくなった。いい加減、告白してくれれば、断ったりしないのに、と理不尽なことを思いながら、逢坂を見れば、次に行くぞ、と言われ、はいっ、と元気よく頷いてあとを追った。

「そういえば逢坂さんて、どういう人がタイプなんですか?」

 並んで歩きながら、思ったことを口にした汐は、思わずはっとする。

 もしそれで、お前だ、とでも言われたら、どうしよう、なんて顔を緩めると、何にやけてるんだ、と冷たい目をされた。

「別に、にやけてなんてないですー」

 唇を尖らせて汐が言うと、逢坂は、そうだなぁ、と思い出しながら、高校の時、と口を開いて語り始めた。

「ずっとそばにいた人が、なんとなく気になり始めて。今思うと、付き合ってた女は、みんなその人に似てた気がするな」

 だから、その女性がタイプなのだろう、と納得したように言われ、なんだか汐は、面白くなくなり、自分から聞いたくせに、そうですか、とそっけなく顔を背ける。

「急にどうした?」

 訝しげに顔を覗かれ、別に、と更に顔をよけようと身体を捩れば、近くにいた男性にぶつかり、慌てて、すみません、と頭を下げると、何やってるんだ、と呆れたような逢坂の声が届いた。

「何て答えて欲しかったんだ?」

 ふぅ、とため息混じりに言われ、汐はカッと赤くなる。

 そんなの、おまえだ、なんて、言えるわけがない。言われなかったことに、ショックを受けているなんて。

「……ちょっと、トイレに行ってきます」

 どれだけ自意識過剰だったのだろう、と自己嫌悪に陥り、平静を装いながら、汐は化粧室を探して歩みを進めた。
 そのあとを、逢坂がついてくる。

 なんでついてくるのよ、と思うが、一緒に来ているのだから、当然だよな、と諦めて、汐は足早に化粧室へと姿を消した。

 はぁ、と盛大にため息を吐きながら、汐はバッグから化粧ポーチを取り出すと、徐に化粧を直し始めた。

「最悪」

 ぽつり、呟くと、はらりと涙が流れてきた。
 慌ててハンカチで押さえるが、涙は止まることなく、次から次へと溢れてくる。

 結局、どういう女性がタイプなのかは聞けなかったけれど、今となっては、聞かなくてよかったのかもしれない。
 汐は、止まらない涙に、確信せざるを得ない気持ちだった。

 ――逢坂に、惹かれている。

 だから、頭ではわかっていたけれど、実際、逢坂に彼女がいたのだという話を聞いて、ツラくなってしまった。汐にだって彼氏がいた時期はある。汐より年上の逢坂に、いないはずはないのに。
 急激に近づきすぎて、距離感がわからなくなってしまっていた。

 逢坂が汐を好きだなんて、本人から聞いたわけでもないのに、勝手に疑惑を確信に変えて、自分の都合のいいように解釈して。こんな、惨めな気持ちになるなんて。



「お待たせしました」

 ようやく化粧室から姿を現わした汐に、遅かったな、と声をかけて、逢坂はギョッと目を丸くした。

「ど、どうした……?」

 あまりに泣きすぎて、顔を洗ったくらいじゃあ目の腫れを隠すことなんてできなくて。それでも、30分以上も化粧室に行っていたため、そろそろ戻らなければならないな、と意を決して出てきたのだが。

「なんでもありません」

 口元は笑ってみせるが、目はごまかせず。
 逢坂を見ていると、止まったはずの涙が、また、うるうると滲んでくる。

 どうしてこの人は、私を好きじゃないんだろう。

 嫌いと言われたわけでもないのに、勝手に飛躍して、落ち込むと、顔面にハンカチが飛んでくる。
 何事!? とそれを外そうとすれば、急に手を握られ、ぐい、と身体を引かれた。

「帰ろう」

 それだけ言うと、逢坂は汐の手を引いたまま、ずんずんと歩みを進めてしまう。
 汐は、黙ってそれについていきながら、視線は、自分と逢坂を繋いでいる手へ送っていた。

(……結構、ゴツゴツしてる)

 手を繋いで水族館を歩いているなんて、まるで恋人同士みたい。そんな呑気なことを思って、汐は逢坂のハンカチで顔を覆い、口元を緩める。

 絶対に今、だらしない表情をしていることはわかっていた。
 汐が泣き腫らした目をしていたから、急に帰ろうと言い出した逢坂には悪いが、汐は今、この状況を喜んでいる。

 ごめんなさい、と心で謝罪しながら、汐は、繋いだ手に、少しだけ力を入れた。

◇ ◇ ◇


「落ち着いたか?」

「はい」

 シャワーを浴びてリビングへ戻ると、逢坂がテーブルにできたてのパスタを並べてくれていた。
 匂いにつられ、ぐぅ、と汐の腹が音を出すのに、ふ、と笑って、逢坂が、食べようか、と声をかけてくれる。

 水族館を出て、電車に乗っている間も、逢坂はずっと手を繋いでくれていた。
 汐は、会社の人がいるとまずいな、と顔をずっとハンカチで覆ったまま、結局、家に着くまでそれに甘えていた。

 シャワーを浴びながら、逢坂と繋いでいた手に余韻を感じて心を落ち着かせ、すっきりとした気分で逢坂の作ってくれた食事に手を伸ばす。

 そういえば、朝食を用意してもらっていたことはあるが、トーストとコーヒーだけだったので、ちゃんとした手料理は初めてだな、と思いながら一口含めば、男性の作る料理とは思えないほど繊細で、美味しかった。

「意外です。逢坂さんて、料理上手だったんですね」

「高校のとき、イタリア料理の店でバイトしてたからな」

 パスタは得意なんだ、と言われ、納得する。確かに、お店で出る味つけだ。言われてみると、逢坂のキッチンには小洒落たグッズが多数置いてあった。
 高校の時から一人暮らしをしているくらいだから、自炊も慣れたものだろう。

 ちらり、とキッチンへ視線を向けると、今しがた料理を作っていたとは思えないほど、片づいており、汐は自分の料理の作り方を思い直す。
 汐は、作るときは作る、片づけるときは片づける、といった感じで、食事をするときに台所が片づいていることはなかった。

 見習うべきところだな、と感心しながら食事を進めていると、何やら視線に気づき、顔を上げる。

 目の前に座る逢坂が、穏やかな表情で、汐を見つめていた。

「な、何ですか?」

 ドキマギしながら声を出すと、いや、と言いながら、それでも汐を見てくるので、何とか回避しなければ、と思いついたことを言ってみる。

「私のことが好きだからって、そんなに見つめないでくださいー」

 言ってから、後悔した。
 だから、言われてないんだって! と自分でツッコんで、急激に恥ずかしくなり俯くと、そうだな、と声が飛んできた。

 そうだな? と頭の中で復唱して顔を上げれば、逢坂が、安心した、と手を伸ばしてくる。

「よくわからんが、俺だろう、泣いていた原因は」

「……えっと」

 そうです、とは言えず、言葉に詰まると、伸ばされた手が頬に触れて、途端に緊張が走る。
 じっと見つめられ、また汐も逢坂を見つめ返したまま、しばらく経過したのち、汐は、キュッと唇を咬んで、気合を入れてから口を開いた。

「そうやって逢坂さんが私に触れる度に、私は錯覚します」

「錯覚?」

 はい、と頷いてから、逢坂さんが、と思い切って言った。

「私のことを、好きなんじゃないかって」

「逆だろ?」

 さらり、と言い返されて、ぽかん、と口が開く。

「俺が、じゃなくて、おまえが、俺のことを好きなんじゃないのか?」

 言われた途端、ぼんっと沸騰したように顔が赤くなった。
 自覚したのはついさっきだが、その前から、兆候はあったのかもしれない。だから、逢坂に気づかれたのだろう。

 最悪だ、と呟いて、汐は真っ赤に染め上げたままの顔を両手で覆った。こんなの、これ以上、一緒に住むことなんてできないし、逢坂も、きっとそれはさせないだろう。

「言い方が悪かったな」

 がたっと音をさせながら逢坂は立ち上がり、いつの間にか空になっていたパスタ皿を手に取ると、汐に近づいてきて、そっと汐の頭を皿を持っていない方の手で自分の胸に寄せた。

「俺もだ」

 頭上に、逢坂の顔が寄せられたのがわかった。
 髪に軽くキスをすると、逢坂は何事もなかったかのようにキッチンに立ち、皿を洗い始める。

 いまいち状況の飲み込めない汐は、うん? と頭を捩らせて、まだ火照る顔を逢坂に向けた。

「……逢坂さん」

「ん?」

 皿を洗い終えた逢坂が、首を傾げながら近づいてくる。
 どうした、と言われ、えっと、と言葉に迷いながら、あの、と勇気を振り絞った。

「逢坂さん、私のことが、好きなんですか?」

「だから、そう言ってるだろう?」

「い、言ってないっ」

 汐が声を荒げて立ち上がると、そうか、と逢坂は不思議そうな表情をしていた。

「まあ、そうじゃなきゃ、泊まらせない」

「そうって、どうなんですか!?」

 意地でも逢坂の口から、好きという言葉を聞きたい汐は、そう逢坂に詰め寄るが、逢坂はそれがわかったのか、あえて言葉にはしない方向で、さらりとそれをかわす。

「おまえは、違うのか?」

「はい?」

「おまえは、好きでもない男の部屋に、何度も泊まるのか、と聞いている」

「す……っ!?」

 好きでもない男の部屋に、何度も泊まってましたよ! と言いたかったが、言ってしまうと、汐は尻軽に思われるだろうし、かといって、そんなことないです、と言ったら、汐が逢坂を好きだと認めたのも同然な気がして、パクパクと口を開けながら言葉に迷っていると、ほら、と軽くデコピンされた。

「おまえだって、認めたくないくせに」

 悔しいけれど、逢坂の言うとおり、素直に認める気にはなれないし、それを逢坂に言うなんて、絶対に嫌だった。

 だけど、最初は、本当に好きじゃなかったし、と言い訳がましく思ってみるが、今思うと、あれがあったから今があるのだし、あれはあれでよかった気がする。今は、ちゃんと好きだから、と言えるから、と思いはするものの、言葉にするのは負けた気がして言いたくない。
 せめて、逢坂に先に言わせたい。

 むー、と頭を悩ませながら頬を膨らませると、笑って、逢坂が頭を撫でてくるのに、せっかく一緒にいるのに、もったいないな、と汐は、どうせ逢坂も自分を好いてくれているのなら、と思い切って体当たりするようにその胸に顔を埋めてみた。
 逢坂は別段、戸惑った様子も見られず、胸の中に飛び込んできた汐の頭を、変わらず撫でてくれる。

 いつか、言ってくれるかな。そんな淡い期待を持ちながら、汐は、逢坂の背中に回した手に、ぎゅっと力を入れた。



「断る」

 きっぱりとそう言い切った逢坂に、汐は不満そうに、えー、と漏らした。

「私のことが好きなら、いいじゃないですかー」

「だから、だろうがっ」

「痛いっ」

 言って、デコピンが飛んでくる。
 痛む額を摩りながら、だってぇ、と口を尖らせれば、まだ言うか、ともう一度デコピンが飛んできそうだったので、それ以上はやめて、のそのそとソファの上で体育座りをして見せると、おい、と呆れた声が聞こえた。

「俺が寝れないだろう。退け」

「だって、私がずっとベッドを占領してるし、ソファで寝てたら、疲れだって取れないし、私のことが好きなら、一緒に寝たって何も問題ないじゃないですかーっ」

 わー、と叫ぶように一息で言って、抱えた膝に顔を押しつけると、はぁ、と盛大なため息が聞こえてきた。

 今のは絶対、呆れ返ったため息だな、と思っていると、隣に座る気配を感じて顔を上げれば、頭を肩に寄せられた。

「一緒に寝て、何もしない自信がない。だから、別に寝てくれ」

 頼む、と優しく諭すように言われては、無理強いすることもできなくて。逢坂の肩に預けていた頭を、ゆっくりと離し、じっと逢坂の目を見つめる。

「疲れが、取れません」

「きっと、一緒に寝た方が疲れる。気持ちがな」

「……」

 大丈夫だから、と言って、頭を撫でられる。

 納得はできなかったものの、渋々、汐は立ち上がり、寝室へと足を向けたが、やっぱり気になって振り返り、逢坂さん、と声をかけた。

「何かしてもいいですよ、とは言いませんが、一緒に寝ましょうよ、やっぱり」

 言った汐の言葉に、鬼か、おまえは、と心底呆れた逢坂の呟きが聞こえてきた。