ストーカーキューピット

2. 週末は有意義に過ごします

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「……ん」

 混沌とする意識の中、汐が目を開けると、右手が見えた。
 どうやら、手を伸ばして寝ていたようだ、と思い、布団の中に入れようとしてすぐに、自分の手が胸元に折り畳まれていることに気づき、汐は勢いよく身体を起こした。

「……起きたか?」

「お、はよう、ござ、います」

 寝起きで回らない頭でも、見えていた右手が逢坂のものだとすぐに理解できる。

 逢坂は右手を真横に伸ばし、左手を枕にして寝ていたらしく、汐が起きたのに気づいて目を開けたものの、まだ眠たいのか、すぐに目を閉じた。
 腕枕をしてもらっていたのだ、とすぐにわかる逢坂の体勢に戸惑い、汐は硬直したまま、どうしてこうなったのか、と経緯を遡ってみる。

 逢坂とリビングでコーヒーを飲みながら、不動産屋から貰った書類に目を通している途中、逢坂の家族の話になって、それから逢坂が頭を撫でてくれて、それから……。

 それから、なぜこんなことになった!?

 頭を撫でられて、ふわふわした気持ちになって、気持ちがよくて睡魔に襲われて、そのまま寝落ちしたのだということは理解できるが、汐はちゃんと、寝室のベッドに寝ていた。
 逢坂の、隣で。

 とするならば、きっと、逢坂が運んでくれたのだろう。
 ああ、また運ばせてしまった、と反省する中、壁掛けの時計に目をやれば、時計の針は、5時を指していた。

 夕方、帰ってきたのが4時頃だったはずで、それから1時間くらいはしゃべっていたとしても、一体何時間寝ていた計算になるのか、と考えたら、自分でも驚くほどの時間であることは間違いないと気づき、一気に脱力感が襲ってきた。

「よく、寝てたな」

 くわ、と欠伸をしながら、逢坂が目を開けて汐を見てくるのに、汐は慌てて正座をして、頭を下げる。

「す、すみません。私、また運ばせてしまったみたいで」

「疲れてたんだろ。気にするな」

 んー、と寝たまま背伸びをすると、逢坂はようやく、身体を起こして汐と目線を合わせた。

「誤解のないよう、先に言っておくが。おまえが、俺を離さなかったんだからな」

「へ?」

 逢坂の話によれば、昨日、リビングで座ったまま寝入ってしまった汐を抱えて寝室のベッドまで運んだあと、汐は逢坂の服を掴んだまま放そうとしなかったらしく、やむをえず同じベッドに入った、ということらしかった。

「そ、それは……。重ね重ね、本当に、申し訳ありません」

 穴があったら入りたい。汐は今、心底そう思った。
 一体、どれだけ逢坂に迷惑をかければ気が済むんだ、と自分に問い質したいほど、自分が憎い。

 あまり眠れなかったのか、逢坂はもう一度、大きく背伸びをしてベッドから降りると、首を回しながら寝室のドアを開けた。
 はっとして、汐も慌てて後に続くと、逢坂は台所に立って、コーヒーを淹れようとしていたので、それを制するように逢坂からコーヒー豆を取り上げる。

「わ、私が淹れますっ」

 それくらい、させて下さいっ、と鼻息を荒くして言うと、じゃあ、頼む、と頭を撫でて、逢坂は汐に任せてくれた。
 少しだけほっとしてコーヒーを準備しながら逢坂に視線を移せば、逢坂は気怠そうにタバコに火を点け、煙と共に疲れを吐き出しているようだった。

 以前、一緒だと眠れない、と言っていたが、夕べもきっと、そうだったのだろう。
 逢坂の顔には、疲労が見え隠れしている。

 それが汐のせいだというのは明らかだったので、申し訳ないと思いながら、汐はポコポコと音を立てるコーヒーメーカーをじっと見つめていた。

「……魚、見に行くか」

「は?」

 いつの間にか背後に来ていた逢坂に、汐はびくっとその身を竦ませて、様子を窺うと、まだ目が覚めきっていないのか、ぼーっとした表情のままの逢坂が、これ、とコーヒーメーカーを指さして、口元を綻ばせた。

「音、聞いてたら、魚見たくなった」

「……はぁ」

 寝ぼけてるのかな、と思いたくなるほど不自然な繋がりに、汐は眉間に皺を寄せて、じっと逢坂を見るも、逢坂は目だけは虚ろそうにしているものの、しっかりとした様子で、沸いたばかりのコーヒーをカップに注いでいる。

「昔、実家で熱帯魚を飼ってて」

 話しながら手渡されたコーヒーを受け取ると、のそのそとソファに腰を下ろしてテレビを点けた逢坂の隣に、汐も同じように腰かける。

「コーヒーのさ、あの沸く音っていうか、お湯が注がれる音っていうか、あれを聞いてたら、水槽の、エアーポンプを思い出して。たまに、無性に魚が見たくなって、一人でも行ったりするんだけど、水族館」

 行かないか? と嬉しそうに誘われて、思わず、はい、と頷いていた。

 魚って、水族館か、と合点がいった汐が、ちらり、逢坂を見ると、逢坂は心なしか、ウキウキとした様子で、天気予報を見ている。
 そんな無邪気な様子の逢坂に、ふ、と笑みを溢しながらコーヒーを口に含むと、ふと、逢坂がこちらを見て、でも、と口を開いた。

「おまえは、水族館っていうか、動物園だよな」

「……どういう意味ですかね、それ?」

 いや、別に、とコーヒーを啜りながら、くつくつと笑う逢坂を見ると、どうにも馬鹿にされている気がしてならなくて、汐は、もうっ、と怒り、逢坂の肩を叩けば、今度は、牧場だったかな、と言われ、絶対にいい意味で言われてないっ、と頬を膨らませる。

 するとそれが面白かったらしく、逢坂は汐の膨らんでいる頬を摘まみ、膨らみを潰したかと思えば、今度はふにふにとその弾力を楽しんでいる。

「気持ちいいですか?」

「気持ちいいな」

 嫌味を込めて言うも、さらりとかわされて、言っても無駄か、と汐が諦めると、汐の頬を弄っていた手が止み、逢坂は残っていたコーヒーを一気に飲み干して立ち上がった。

「眠気覚ましにシャワー浴びてくる。おまえも、出かける準備しとけよ」

 空になったカップを台所に置いて浴室に向かった逢坂に、了解です、と返事をして、汐も残りのコーヒーを片づけて寝室へと足を向けた。

◇ ◇ ◇


「車かと思いました」

 駅で切符を買っていると、そう汐に言われ、いつもならな、と返事をしながら、逢坂は買ったばかりの切符を汐に手渡した。

「夕べ、寝てないからな。運転する自信がない」

 言われて、あっと気づき、すみません、と小さくなる。
 やっぱり、寝不足だったのか、と思いながら、ふと、逢坂を見上げると、別にそれを気にした様子もなく、穏やかな表情で汐を見つめていた。

「逢坂さんて」

 言いかけて、はっと止めると、なんだよ、と続きをせがまれる。

「いえ、別に」

「途中で止めるな」

 本当に、何でもないんです、と言いながら、勢いで続きを言ってしまわなくてよかった、と汐は思った。

 逢坂さんて、やっぱり私のこと好きですよね? なんて、絶対に怒られるに決まっている。たとえ本当に逢坂が汐のことを好きだとしても、逢坂はそれを認めない気がする。

 絶対に、逢坂は汐のことが好きなのに、と思いながら逢坂を見れば、なんだか逢坂のことがかわいく見えてきて、ふふ、と思わず笑みを溢せば、気持ち悪いな、と冷たい目で見られた。
 だが今は、そんな表情さえも愛しく感じられる。

 逢坂さんが、私を、ねぇ、としみじみ見れば、見るな、と手で顔を押された。

「兄ちゃんっ」

 もう、とそれを退かそうとすると、弾んだ声が聞こえ、見れば、リュックを背負った男の子が、嬉しそうに手を振りながらこちらに駆け寄ってきているところだった。

一平いっぺい

「兄ちゃん、どこに行くの?」

 一平と呼ばれた男の子は、嬉しそうに目を輝かせながら、逢坂に抱きついてくる。
 それを軽々と抱き上げると、一平は逢坂の首に手を回して、ぎゅーっと抱き締めてから、あのね、とにこやかに話し出した。

「兄ちゃん、俺ね、この間、レギュラーに選ばれたんだ。3年で、俺一人!」

「そうか。すごいじゃないか」

 逢坂が褒めてやると、えへへ、と満足そうに微笑んで、それからね、とまた別の話を始める。

 よっぽど、逢坂に伝えたいことがいろいろあったのだろう一平は、息を吐く暇も与えないほど、次から次に話題を変えていた。

「隼斗くん」

 名前を呼ばれ、逢坂が声のした方に体を向けると、瞬間、ぴしっと逢坂が背筋に力を入れたのがわかった。

「ご無沙汰してます」

 一平を抱いたまま、軽く会釈をすると、近づいてきた二人も、それに倣ったように頭を下げる。

「一平が、寂しがってるよ。また、顔見せに来て」

 男性が言うのに、そうします、と逢坂が微笑むのを見ながら、逢坂と年のそこまで変わらなそうな二人だが、昨日の話と一平の様子から、なんとなく、逢坂の両親なのかな、とぼんやり想像する。

「ほら、一平、デートの邪魔になるから、早く行くぞ」

 父親らしき男性が、逢坂から一平を取り上げるのを見て、逢坂さん、デートなんだ、と思い、瞬間的に、相手、自分じゃんっ、と気づき、慌てて顔を上げれば、母親が、穏やかな表情で汐を見ていた。

「こ、こんにちは」

 戸惑いながらも汐が言葉を発すると、こんにちは、と笑顔で二人が返してくれる。

 これはまずい、と汐が逢坂に助けを求めようと見上げれば、逢坂に抱っこされている一平が汐をじっと見ていて、うぅ、と身を怯ませると、兄ちゃん、と一平が口を開いた。

「こいつ、カノジョ?」

「かっ……!?」

 ち、違いますー!! と汐が言うより先に、逢坂が、そうだよ、と返事をする。

 そうだよ!? と相反する答えに驚いた汐が、口をパクパクさせながら反論しようとするも、逢坂がご丁寧に、及川汐さん、と両親に汐を紹介してくれるものだから、反射的に、はじめまして、と頭を下げてしまい、ああ! と身悶えした。
 これでは、逢坂の言葉を肯定したことになるのではないだろうか。

 案の定、まぁ、と嬉しそうに顔を綻ばせて、母親が笑顔を見せてくれ、その傍らにいた父親が、お邪魔になるから、と一平を逢坂から引っぺがしてくれる。

「兄ちゃん、次はいつ来る?」

「まだ決めてないけど。近いうちに、帰るよ」

 絶対だよ! と嵐のように去っていく三人に呆然と手を振りながら、逢坂さん、と名前を呟けば、すまん、と声が返ってきた。

「私は、逢坂家に嫁ぐことになるのでしょうかね?」

「だから、悪かったって」

 謝ってるだろ、と言い、逢坂は汐の頭をわしゃわしゃと撫で回す。

 本気で謝ってるつもりですか? と疑問に思いながら見上げれば、視線に気づいた逢坂は撫で回すのを止め、気分を切り替えるように、行くか、と改札へ足を向けるのに、むー、と不満そうな表情をしつつ、汐は、はいっ、と大きく頷いて、逢坂のあとを追いかけた。