ストーカーキューピット

2. 週末は有意義に過ごします

3

「私たちの分まで、ご馳走様でした」

 絃里が顔を上げたまま、笑顔で頭を下げると、ああ、と軽く返事をして、逢坂はポケットから鍵を取り出した。

「帰るなら、送ってやるが。家、近いのか?」

「貴島さんの家は、近所だから、歩くと思います。私は、送ってもらってもいいですか?」

 了解、と返事をし、逢坂が鍵を手に駐車場へ足を進めるのを見送りながら、絃里は汐に近づき、こそっと声をかける。

「お邪魔です?」

「ううん、まさか! どうせ、家に帰ってからも一緒だし」

 言ってしまってから、はたと気づいた。
 へぇ~、と嬉しそうな表情の絃里に、違うからね、と何度も言うが、わかってますよ~、と軽く流されてしまうだけで、どうにもわかってはもらえていないように感じる。

 まだ2、3日しか経っていないというのに、逢坂の家にいることを当たり前に思っていた。
 家に帰ってからも一緒、なんて、和やかに同棲している人の台詞じゃないか。

 間違っても、汐はただの居候で、同棲しているわけではないのに。

「及川」

 存在を忘れていたつもりはないが、すっかり静まり返っていた淳太が、不意に声をかけてくる。

「空き巣の件だけじゃなくて、何かあれば、俺も、相談に乗るから。だから、いつでも、何でも言ってくれて構わないから」

 緊張しているのか、途切れ途切れになりながらも一生懸命な様子が伝わってきて、汐は一瞬、目を丸くしながらも、うん、と素直に頷いた。

「逢坂さんに最初に言ったのは、本当にたまたまなの。でも今度何かあれば、絃里ちゃんと淳太にも、ちゃんと相談するね」

「絶対ですよ、うしおセンパイ」

 絃里の言葉に、うん、と大きく返事をすると、ちょうど駐車場から車を出してきた逢坂が、三人の前で車を停める。

「じゃあね、淳太」

「お疲れさまでしたー」

 ああ、と淳太が口元を綻ばせると、あ、と気づいたように絃里が淳太に駆け寄ってきて、夕べは泊めてくれてありがとうございました、と汐に聞こえないように耳打ちしてくる。

「……こっちこそ。ありがとう、いろいろ」

「いえ」

 淳太にも、いろいろと思うことはあるだろうが、敢えてにっこりと微笑んで、絃里は誰も座っていない後部座席へと急いだ。



「なかなか思ったところがないなぁ」

 蜜柑坂の実家まで絃里を送り届けた後、汐は逢坂と不動産屋を2件巡って家に帰ってきた。

 会社から遠くなく、家賃は5万円以内で、そこそこ築年数が浅くて、できればオートロックの付いているマンションなんて、そうそうあるわけがなく、いくつか条件を削ったものですが、と渡された物件の資料と睨めっこをしていたのだが、やっぱり、どれも削りたくないなぁ、と汐はため息を吐く。

 はらり、と資料を捲って、一番好ましい物件を見てみるが、家賃は12万円。とてもじゃないが、払っていける自信がない。

 他は、完璧なんだけどなー、とまたため息を吐けば、ほら、と横から淹れたてのコーヒーを渡される。
 ありがとうございます、と言ってそれを受け取ると、少しだけ口に含んだ。

「今のところは、そんなに好条件だったのか?」

 テーブルに自分のカップを置いた逢坂が、汐にそう聞いてくるのに、まさか、と乾いた笑みを溢す。

「会社から遠くなくて、家賃が5万円以内だっただけですよ」

 他の条件は、今回追加した。

 今のアパートを契約するときは、何よりも急いて実家を出たくて、築浅だのオートロックだのという条件は二の次で、不動産屋を回った。
 会社から遠くなく、家賃が5万円以内の物件なら、いくらでもあるのだが、その分、古いアパートが多く、今の家も、外装をリフォームしてあるものの、部屋は古いままで、オートロックなんて言葉が普及する前に建築されたんだろうなぁ、と寝るときに天井を見ながら、しみじみ思ったものだった。

 でも今回は、逢坂には言えないが、逢坂の好意に甘えさせてもらっているおかげで、時間にゆとりがあるため、ゆっくりと吟味したいというのが本音だ。

 少し考える素振りを見せながら、逢坂が、お前さ、と口を開く。

「その条件なら、ここでいいんじゃないのか?」

「……はい?」

 逢坂の言葉に、汐は思い切り首を傾げながら、目を丸くする。
 ここって、と逢坂を見てみるが、逢坂は何も言わず、汐を見ているだけで。

 逢坂の言う『ここ』は、きっと、逢坂の住まいのことだろう。
 会社から遠くなく、オートロックで築浅。なるほど、と思うが、家賃は? と訊ねれば、いらん、と返事が来る。

「俺がいるっていう不便さはあると思うが、他はおまえの条件に合うだろ?」

「それは、まぁ」

 そうですが、と言ったあとで、いやいやいや、と首を振る。

「でもそれじゃあ、逢坂さんがカノジョとか呼べないじゃないですかっ」

「別に、無理にとは言わん。ただ、お前の言う条件に合うんじゃないかと思っただけだ」

「……」

 まさかの提案に、汐は呆気にとられ、口をぽかんと開けた。

 汐の探していた物件の条件にぴったり合うし、家賃はいらないというのなら、尚更、ありがたい申し出である。
 それに、ここ2、3日一緒にいて思ったが、逢坂は、ただの上司として付き合っているときには気づかなかったが、割と親しみやすい性格で、一緒にいてもそんなに苦ではなかった。

「条件は?」

「ん?」

「何か、条件があるんでしょう? でなきゃ、何か、裏がある?」

「……おまえなぁ」

 はぁ、と盛大なため息を吐いたあとで、ゆっくりと近づいてきた逢坂から、びしっと大きな音を立ててデコピンが飛んでくる。

 痛いっ、とここ数日で、何回逢坂からデコピンを贈られたことだろう、と思い、額を押さえて、きっ、と逢坂を睨むと、向こうも汐を睨んでいた。

「なんだってそんなに捻くれてるんだ? 他人の好意を、素直に受け取れんのか、おまえは?」

「だってぇ……」

 額を擦りながら、段々と小さくなっていく汐に、再度ため息を吐いて、じゃあ、条件を出そう、と逢坂が口を開くと、えぇ!? と声を上げられた。

「そんな、無理に条件とか作らなくてもいいですッ」

「どっちなんだ、一体……」

 がく、と肩を落として脱力すると、逢坂から手が伸びてきて、またデコピンされる!? とその身を竦ませれば、今度は優しく、頭に手を乗せられるだけだった。

「面倒くさい奴だな、本当に」

「あ、ありがとう、ございます?」

 疑問符をつけたように言うと、褒めてない、と逢坂は口元を綻ばせて笑った。

「でも、そうだな。条件というか、取り決めだけは作っておこうか」

「取り決め、ですか」

「ああ。ある程度の約定は、あった方がいいだろう」

 なるほど、と頷き、その前に、と挙手してみると、なんだ、と目を細めて見られた。

「ここって、家賃はいくらなんですか?」

「……気になるか?」

「な、なりますっ」

 さっき見た物件が12万だったのを考えると、15万円くらいだろうか、と思いながら、ごく、と唾を飲み込んで言えば、逢坂は少し言うのをためらっているようで、手を口元にやり、悩む素振りを見せたあとで、ここはな、と口を開いた。

「賃貸じゃなくて、分譲なんだ。父親が死んだときに、買ってもらった」

 だから、家賃はない、とわずかに寂しそうな笑顔を向けて答えられて、思いもよらなかった答えに、はあ、と気の抜けた返事が出た。

「お父さま、亡くなられてたんですか……」

 いつ頃亡くなったのかはわからないが、汐にも母親がいなかったため、その存在がいない寂しさだけはわかる。

 小学校の課題で、お母さんの顔を描いてきましょう、というのが一番ツラくて、でも父親には相談できずに、写真を見ながら、隠れて描いていた記憶が甦り、思わず目頭を熱くすると、逢坂から、言っておくが、と忠告が入る。

「おまえが思うような寂しさを感じたことは一度もないぞ。だから、おまえがそんなに落ち込むこともない」

「……でも、お父さまは、いらっしゃらないんですよね?」

「今は、いる」

 逢坂の言葉に、ん? と首を傾げると、逢坂は面倒そうに頭を掻き、あー、と簡単に説明を始めた。

「俺が幼稚園のときに母親が再婚して、父親と姉ができた」

 それから、小学校の時に母親が他界、中学校で父親が再婚するが、高校に上がった際にその父親が亡くなり、5年ほど前に母親が再婚して、弟と父親ができたため、父親はいるにはいるが、血が繋がっているわけではない。
 血縁関係は皆無だが、家族と呼べるのは、その両親と、姉、弟だけだ、と淡々と言ってのけるが、汐は頭の中で相関図を作成していて、ぐるぐる回ってきた。

「えーと。じゃあ、今のお父さまは、というか、お父さまもお母さまも、それから、お姉さまも弟さんも、逢坂さんとは血が繋がっていない?」

 そうだ、と頷きながら、逢坂はテーブルのコーヒーに手を伸ばす。

「あまり難しく考えるな。要するに、この家は、高校の時に死んだ親父の形見だ」

「高校生のときから、ここに住んでるんですか?」

「3年の夏からな」

 まだ湯気のあるコーヒーを啜りながら、逢坂は何でもないようにそう話すが、唯一の肉親であった母親が小学校の頃に他界してしまってから、ずっと他人の中で生活をしてきて、苦労がなかったわけはないように思う。
 他人とはいえ、家族になったわけだから、極端な嫌がらせだとかはなかったにせよ、気を遣わずにはいられなかっただろうな、としみじみ逢坂を見れば、すっと手が伸びてきて、ぎゅ、と汐の鼻を摘まんだ。

「何ですか?」

「まぬけな表情、してるから。気にするなって言ったろ?」

「……だって」

 そうは言うものの、感情移入せずにはいられない。
 汐なんて、そこに血の繋がった肉親がいても、他人の輪を作られているようで入っていけなかったのに。

 汐が俯いて黙り込むと、ふぅ、と息を吐いた逢坂が汐の隣に座り、肩を抱き寄せながら頭を撫でてくる。

「おまえに、そんな表情をさせたかったわけじゃないんだ」

「……はい」

 返事をして、自分が鼻声なのに気がついた。

 汐と逢坂の事情が被っている部分があって、もちろん楽しかったこともあるけれど、ツラかったこともあって、思い出したら涙が溢れていた。
 逢坂が同じ思いをしていたとは思わないが、連鎖反応で浮かんできた。

 逢坂には、もう血の繋がった両親はいないけれど、汐には父がいる。たまには連絡して、元気だよ、の一言でもすればいいのかもしれないな、と思い、ふと気づいて、汐は顔を上げた。

「逢坂さんの、本当のお父さまは……?」

「さぁ? 会ったこともないし、聞いたこともない。今更、どうでもいいしな」

「……」

 どうでもいい、か。最初からいなければ、そんなものなのかもしれないな。

 思いながら、汐は逢坂が頭を撫でるのに甘え、逢坂の肩に頭を預ける。

「別に、仲が悪いわけでもない。特に弟は、年齢の離れた俺をよく慕って、実家に帰れば、犬みたいに寄ってくるし」

「お兄ちゃんですね」

「まあ、兄ちゃんだな。そんなにかわいらしいものでもないが」

 弟のかわいさを思い出したのか、逢坂は口元を綻ばせて、穏やかな表情をしながら、静かに汐の頭を子供を宥めるように撫で続けてくれ、その心地よさに段々と目蓋の重くなってきた汐は、そのまま目蓋が落ちるのに従った。