ストーカーキューピット

2. 週末は有意義に過ごします

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「あっちが来客用の駐車場です」

 汐の言葉に、了解、と返事をしながら、逢坂は汐に言われた場所までゆっくりと車を走らせる。
 3つある空きスペースの1ヶ所に車を停めると、汐は逢坂と一緒に車を降りて、アパートの前まで足を動かし、階段を登ろうとして、足が竦んでいることに気がついた。

 あれ、と思った時には、心臓は異常なほどに速くなり、足がまったく動かず、階段を登ろうとしない。
 どうした、と逢坂に声をかけられる瞬間まで、汐は逢坂が側にいることさえ忘れかけていた。

 ばっ、と思い切り振り向くと、驚いた表情の逢坂が、軽く汐の肩を抱き寄せ、耳元で、大丈夫だ、と落ち着かせるように声をかけてくる。
 汐は大きく息を吸って、1歩ずつ、ゆっくりとではあるが、階段を上がった。部屋が近づくにつれ、動機が激しくなり、眩暈がしてくる。

 は、は、と呼吸が荒くなると、逢坂が背中を擦ってくれ、存在を知らせてくれるのに落ち着きながら、なんとか階段を上り終えて部屋の前で足を止めると、ここか、と隣に並んだ逢坂が確認しながら、ドアノブに手を伸ばした。
 カチャ、と鈍い音と共にゆっくりとドアが開かれると、部屋は案の定、目を覆いたくなるほどの惨状から変化は見られず、急激に涙が込み上げてきた。
 夢であって欲しかった、と心底願っていたが、残念ながら、現実だったのだと受け入れるしかなくなった。

 閉め切った部屋に充満した香水の匂いが、大好きなもののはずなのに、嫌悪に変わる。
 ボーナスが出た時に、部屋のインテリアとして買った大きな観葉植物が、助けてくれ、と横たわり、その存在をアピールしているようにしか見えなくて、悔しくなった。

「ちょっと待ってろ」

 ぽん、と背中を軽く叩かれ、逢坂の温もりが離れていく。部屋に足を忍ばせた逢坂は、一通り部屋の中を歩き回り、人の気配がないことを確認すると、大丈夫そうだ、と言って汐の元に戻ってきた。

「とりあえず、必要な物を持って出よう。片づけもしたいだろうが、鍵を取り換えてからがいいかもしれん」

「……でも、私、一人でここに帰ってくる勇気はないです」

 ぽつり、本音が出てから気づいた。逢坂のところに居座る気、満々じゃないか。
 これにはさすがの逢坂も呆れているかもしれない、と思って顔を上げると、逢坂は眉間に皺を寄せ、それもそうか、と呟いた。

「新しい部屋を契約してから、ここは解約するといい。それまでは、まぁ、うちにいればいい」

 お前がイヤじゃなければ、と付け加えられ、慌てて、助かります、と素直に頭を下げてから、1歩、家の中に足を踏み入れてみる。

 3年も住んでいた馴染みのある部屋は、どこかもう他人の物のような不思議な気配を漂わせていた。
 ぐるり、家の中を見渡してみるも、そこにあるのは、確かに汐の私物なのに、それらがすべて、自分の物ではないような錯覚。

 さすがに、通帳と印鑑は持ち出そうと思ったが、それ以外の物は正直、持って出る気にはなれなかった。

「逢坂さん、出ましょう」

「え?」

 居るに堪えられなくなった汐は、バタバタとタンスの引出しから通帳と印鑑だけを取り、後ろを振り返らずに自宅アパートを後にした。

 駐車場からアパートを眺め、涙が滲むのをごまかすように唇を咬んで、誰だかわからない犯人を憎む。

(どうして、私がこんな思いをしなくちゃならないの……っ)

 父と二人で暮らしていた頃は平和だった。父が再婚して家に居づらくなって、アパートを借りて、やっと安息の場所を見つけたと思ったのに。

 どうして、私が落ち着ける場所を、取り上げるの!?

 悔しくて、悲しくて、はたはたと両目から流れ出る液体を止められなくて、じっとアパートを睨んでいると、後ろから、逢坂が抱き締めるように両手で汐の目を覆った。

「……」

 大丈夫。言葉はなくても、背中からそう言葉が伝わってくる思いがあって、汐を安心させていく。
 背中から逢坂の心音が伝わり、風に乗って逢坂の香りが汐の鼻をくすぐる。

 その二つが、汐を安息の地へと運んでくれているようだった。

「飯でも食いに行くか」

 ほどなくして落ち着いた汐から両手を外し、運転席のドアを開けながら、逢坂がそう微笑みかけると、振り向いた汐は、はい、と力強く返事をして、助手席に回り込んだ。

「焼き肉が食べたいです」

 鼻息を荒くして汐が言うと、ふ、と口元を綻ばせて逢坂は笑い、了解、と車を発進させる。

「林檎山に、美味い焼き肉屋があるらしい。行ってみるか?」

「らしい、ですか」

「俺は、行ったことがないからな」

 じゃあ、誰情報ですか? と首を傾げながら聞くと、上奥うえおく部長だ、と答えが返ってきた。
 上奥といえば、汐の所属する2課と隣の1課をまとめる統括部長であり、食にうるさく、グルメだという噂がある。この前の忘年会のとき、幹事が、食事が美味しいところじゃないと、上奥部長の機嫌が悪くなる、と必死で会場を探していたのを思い出した。

 その上奥が美味いというのだから、味は確かなのだろう。
 安心しきって、座席に身体を預けた汐は、ふと、そういえば、と思い、逢坂を見た。

「行動範囲、広すぎません? 上奥部長って、確か……」

無花果通いちじくどおり。俺の家から、更に30分離れたところだ」

 はー、と感心したように、汐は息を吐いた。
 グルメになると、やっぱり近所だけでなく、少し離れたところまで食事に行ったりするんだな、と思いながら、初めて訪れる焼肉屋に心躍らせて、林檎山か、と思い当たる人物が脳裏を掠める。

「林檎山といえば、淳太が住んでるんですよー。わかります? 貴島淳太」

 同じ部署の部下をわからないと思われていたのが心外で、当たり前だ、と返したあとで、逢坂は、おまえ、と言葉をかけ、躊躇した。

「はい?」

「……」

 運転をしながら、少しだけ横目で汐を見たあと、はぁ、と盛大にため息を吐いて、なんでもない、と一言呟いた逢坂に、なんですか、と少しムッとした表情で汐は返す。

「言いたいことがあるなら、どうぞ?」

「……いや、大したことじゃない」

「えー。気になるから、言って下さい」

「本当に、気にするな」

 そうは言っても、気になるものは気になる。
 ふて腐れた表情のまま、じっと運転席の逢坂を見つめていると、観念したのか、お前、と逢坂は話を切り出した。

「彼氏はいないって言ってたよな?」

「何ですか、いきなり? いませんよ」

「じゃあ、貴島は、何なんだ?」

「は? 淳太?」

 きっと、今汐の頭の中を覗いたら、『?』がぴょんぴょん飛び跳ねているに違いない。

 なぜいきなり淳太の話になるんだろう、と考えて、ああ、とひとつの答えに辿り着いた汐は、違います、ときっぱり否定した。

「夕べ、一緒にご飯食べてたからでしょう? 知ってると思いますけど、淳太は同期で、仲がいいんです。でも、それだけですよ。淳太が彼氏とか、まずないです」

 そうきっぱりと言われて、昨夜淳太にケンカを売られたばかりの逢坂は、すぐに淳太の汐に対する想いに気がついたのに、汐はきっと、これっぽっちもそんなこと、想像していないんだろうな、と少し、淳太を不憫に思いながら、上奥が絶賛していた焼肉屋へと車を走らせた。