ストーカーキューピット

1. 家に帰れなくなりました

7

 しばらくすると、淳太が指定した場所に車でやってきた逢坂が、面倒をかけたな、と言って淳太たちに近づいてきた。

 相変わらず呆然としたままの淳太は、いえ、と軽く会釈をしながら、自分の肩から汐が離れ、逢坂の腕に抱かれるのを見ていた。

「ついでだから送って行ってやる。二人とも、乗れ」

「わー、ありがとうございますぅ」

「……」

 絃里が嬉しそうに言いながら、行きますよ、と淳太の手を引いて逢坂の車の後部座席まで誘導する前で、かろうじて意識を取り戻したらしい汐が、とろん、とした目付きで、逢坂を見る。

「逢坂さん?」

「おまえ、弱いんだから、もう酒は飲むな」

「逢坂さん。私、逢坂さんに、ごめんなさいって」

「わかったから、少し寝てろ」

「……うん」

 汐は少しだけべそをかきながら、きゅ、と逢坂のシャツを掴み、逢坂の胸に顔を埋める。
 逢坂に会ったら、一番に謝らなくてはと思っていた。それができたからなのか、ほっとして、逢坂の言われたとおり眠ろうと目を瞑ると、すぐに助手席に降ろされて、逢坂の体温が離れていく不安が押し寄せ、掴んでいたシャツを、更にきつく握った。

「わかったから」

 逢坂の声が聞こえ、目元にふわっと柔らかい温もりが与えられると、安心したように汐は意識を手離し、シャツを握り締めていた手も、だらり、と足の上に落ちた。

「……いつから付き合ってるんですか?」

 そんな二人の光景を見ていて確信した淳太は、眉間に皺を寄せて、挑むような目で逢坂を睨む。

「逢坂さんが、部下に手を出すような男だなんて思いませんでした」

「……そうか」

 肯定するでもなく、否定するでもなく、軽くそう流して、逢坂が運転席に乗り込むと、少しムッとした顔で声を上げようとした淳太を制して、絃里が、さっさと乗って下さい、と後部座席に淳太を押し込んだ。

蜜柑坂みかんざかまでお願いしまーす」

「了解」

 絃里に言われ、逢坂は助手席に汐、後部座席に淳太と絃里が並ぶ車を蜜柑坂に向けて走らせた。

「貴島の家は?」

「……」

「ちょっと、貴島さん?」

 逢坂に問われても返事をしない淳太に、焦った絃里が肩を揺すって声をかけると、えっ、とようやく覚醒したように目を丸くした。

「おうち、どこですかって、逢坂さんが訊いてますよ」

「うち? ……うちは、林檎山りんごやまです」

「じゃあ、先に貴島を送ればいいな」

 林檎山を通り過ぎて蜜柑坂があるので、順路的にはそれがいい。
 どちらにせよ、逢坂の自宅がある苺森いちごもりとは真逆の方向なので、かなり遠回りをして家に帰ることにはなるのだが。

「逢坂さん、ちょっと、エアコン弱めてもらえません?」

 ぶるっ、と身震いをしながら、絃里が後部座席から顔を覗かせると、エアコンの温度は18℃に設定されており、ぎょっ、と目を丸くする。

「悪いな。こいつ、酔うと暑がるから」

 つい、と言って、エアコンの温度を上げてくれる。そんな些細な心遣いに、汐は愛されているんだなぁ、と勘違いをするのも仕方のない絃里は、へぇ~、と羨ましさを滲ませる表情で、すやすや眠る汐に視線を送った。

「うしおセンパイとそんな話をしたことなかったけど、そっかぁ。逢坂さんと、お付き合いしてたんですねぇ」

 そっかそっか、と納得する絃里を尻目に、あの、と淳太が身を乗り出して逢坂に声をかける。

「俺は、逢坂さんが及川と付き合ってるの、認められませんから」

「ちょっと、貴島さん?」

 ぐぐ、と前に出てきた淳太を座席に戻すように、絃里が肩を押しやる。

「うしおセンパイが誰と付き合ってたって、貴島さんには関係ないし、放っておいてくださいって感じですよ」

 そう正論を言われ、淳太は、う、と言葉に詰まって肩を落とし、はー、と全身から深いため息を吐いて窓の外を眺めると、貴島、と逢坂から声が飛んできた。

「……なんスか?」

「家はどこら辺だ?」

「……」

 淳太が言った言葉はまるで逢坂には届いていなかったかのように、逢坂はそのことに触れることもなく、淳太の家を聞いてくる。

「……ここで、いいです。ここで停めて下さい」

 淳太の声を聞き、逢坂が駐車しやすい場所に車を寄せる。ありがとうございました、と言って淳太が車を降りると、それにつられるように、絃里も車を降りてきた。

「私、ここから歩くから大丈夫でーす。あ、うしおセンパイのバッグ、後ろに置いておきますね」

「近いのか?」

「はい。送ってくださって、ありがとうございました」

 絃里が丁寧に頭を下げると、そうか、と言って、逢坂は車を走らせる。

 逢坂の車が見えなくなると、途端に力の抜けた淳太は、また盛大にため息を吐いて、その場に座り込んだ。

「おまえ、知ってた? 逢坂さんと、及川」

「私? 全然、知りませんでしたけど。貴島さんが、うしおセンパイを好きだったってことも」

 淳太と同じ目線になって、ふふ、と絃里は微笑んだ。

「いつから好きだったんですか?」

「入社してすぐくらいからかなー。同期でつるんでて、なんか、いいなーって思ってて。あいつヌケサクだから、カレシなんてできないって思ってたんだけど」

 逢坂さんかー、と淳太はまた、大きく息を吐き出して、とうとう地面にお尻をつけて足を延ばし、ゴロンと道路に寝そべる。
 その隣に、絃里も同じようにお尻をつけ、膝を抱えた。

「入社してすぐって、結構長いこと片想いしてたんですねー」

「近くにいりゃあ、その内、俺で手を打つんじゃないかなって思ってたんだよ」

 甘かったなー、と乾いた笑い声を発しながら、はぁ、とため息を吐いて締め括ると、淳太に見えていた月が大きな影に隠れ、唇に一瞬、温もりを感じた。

 淳太が目を丸くすると、少しだけ離れた影も、同じように目を丸くしていて。
 でもすぐに、目を細めて笑顔を見せたので、淳太も、ふ、と口元を綻ばせ、同情? と軽く聞いてみると、もちろんです、と当然のような台詞が返ってきた。

「うしおセンパイが逢坂さんを選んだように、貴島さんを選ぶ人だって、絶対にいますよ」

「……そうだな」

 絃里の言葉が、淳太の心に妙に落ち着いて、淳太は口元を綻ばせて身体を起こし立ち上がると、うーん、と大きく背伸びをして座ったままの絃里に手を差し出す。

「おまえ、いつもこんなことしてんの?」

「こんなことって……、ああ、キスですか?」

 上から見下ろされ、まさか、と笑いながら、絃里は差し出されたてを握り、反動をつけてお尻を上げた。

「誰にでもするわけじゃないですよ。でも、貴島さんが特別ってわけでもないです」

 ふーん、とつまらなそうな声が聞こえたかと思ったら、次の瞬間には、絃里の唇は、淳太のそれで覆われていて。
 あっという間に、後頭部を手で押さえられ、口内を舌が駆け巡ってくるのを、絃里は戸惑いながらもすぐに順応し、受け入れると、淳太は安心したのか、後頭部を押さえていた手を首元に移動させる。

 そうしてしばらく、絃里とのキスを堪能した淳太は、ようやく絃里の唇から離れると、自身に引き寄せそのまま抱き締めた。

「……延長料金、取りますよ?」

「マジで。今日奢ったから、まけてよ」

 えー、と言いながらも、絃里は淳太に抱き締められたまま、ぽんぽん、と背中を撫でてくる。
 一定間隔で送られるその振動が、失恋したての淳太の目頭を熱くして、でも決して涙は流すまいと、きつく、唇を噛んだ。

 後輩の、それも女の子の前でなんて、絶対に泣きたくない。
 そう思うものの、4年も片想いをしていた女の子に彼氏がいたという事実を何の前触れもなく突きつけられてしまっては、なかなか、ツラい気持ちを隠すことなどできそうになかった。

◇ ◇ ◇


「よ、いしょ……っと」

 どうにか汐をベッドに横たわらせると、どっと疲れが押し寄せてきて、逢坂は、はー、と深く息を吐いた。ようやく休める、と安堵して、シャワーを浴びながら、ふと思う。

 今日は、どこで寝るべきなのだろう……。

 汐を泊めた初日は、リビングのソファで寝たが、夕べは、一緒に同じベッドで寝た。

 寝たとは言っても、逢坂は横になっていただけで、とても睡眠をとれる心境ではなかったので、ちゃんと睡眠をとるのなら、間違いなくリビングのソファで寝るべきなのだが。

 そう思いながら風呂場から出ると、ぼーっと亡霊のように俯いた汐がソファに座っていて、逢坂は本気でビクッと身体を震わせた。

「お、起きてたのか……」

「逢坂さん」

 恐怖にドキドキしながら逢坂が汐に近づき隣に座ると、汐は顔を上げて、ソファの上に正座をした。

「夕べは、すみませんでした」

「……ん?」

「心配してくださったのに、邪険にして。嫌な思いを、させてしまって」

 何に謝罪をしたのか見当がつかなかったが、理由がわかり、ああ、と頷いてから、逢坂はまだシャワーを浴びたてで湿り気のある手で汐の頭を撫でる。

「俺の方こそ、すまなかった。余計な詮索をして」

「いえ。私の言い方が、悪かったんです」

 本当にすみませんでした、と汐は再度、頭を下げる。

 謝らなければならないのは、自分だったのではないだろうか、と逢坂は思っていた。
 今朝、汐を起こさずに家を出たのも、汐を傷つけたのだとしたら、どう声をかけていいかわからなかったからで、決して怒っていたわけではない。

 人間、誰しも触れられたくない過去の一つや二つはあるものだ。逢坂は、きっと汐のそれに触れてしまったのだと思っていた。
 だとしたら、汐に余計なことを思い出させてしまったのではないのか、と申し訳なく思っていたのだが。

 まさか、汐の方から謝罪の言葉を贈られるなんて、思ってもみなかった。

「明日、午前中にはお前の家に行こう。鍵を取り換えてもらったりしなくちゃならんだろうし」

「……そっか。そうですね」

 鍵か、と思う。
 家の中が荒らされていたことで動転していたが、犯人がどこから侵入してきたのかはわかっていないし、施錠し忘れた窓からにしろ、玄関からにしろ、鍵は換えてもらうべきかもしれない。

 だとすれば、午後から行動するよりも、午前中に行動を起こしていた方がよさそうだ。

「俺はリビングで寝るから、おまえはベッドを使え」

「……えっ!?」

 昨日は一緒に寝たのに? と一瞬、逢坂の言葉の意味がわからなくて、汐は目を丸くした。

「ソファじゃ、疲れが取れませんよ。昨日も寝たし、一緒に寝ましょう?」

「……おまえなぁ」

 はぁ、と心底呆れたようなため息を出し、びし、と逢坂にデコピンをされた汐は、痛いっ、と大きな声を出して、弾かれた額を右手で押さえる。

「昨日はああ言ったが、さすがに嫁入り前の女と同じベッドには寝られん。別にしてくれ」

 頼むから、と逢坂に頭を下げられて、汐は慌てながら、わかりました、と返事をしたあとで、でも、と少し悩む素振りをしてみせる。

「それって、やっぱり逢坂さんは、私のことが、す……」

「殴るぞ、本気で」

「……」

 好きなんじゃないですか? と言おうとしたが、言葉を遮ぎるように逢坂の拳が見えて、汐は押し黙った。
 わずかながら、こめかみに青筋が走っているのが見える。

 口には出せないが、なんだかんだ、逢坂は自分のことが好きなんじゃないのかな、と思い、へへ、と口元を綻ばせると、気持ち悪い、と言わんばかりの表情を向けられたので、汐はそのまま、逃げるように寝室へと入っていった。