ストーカーキューピット

1. 家に帰れなくなりました

6

「そういえば三浦さん、何の用事だったんですか?」

 すっかり忘れていた話題を振られ、汐は危うく、口に含んでいたワインを吹き出しそうになったのを堪え、手元のおしぼりで口を拭いた。

「三浦? 三浦かのん?」

「そうですよぉ。今日の帰り、いきなりうしおセンパイに声かけてきて。っていうか、面識あったんですね、うしおセンパイ?」

「……」

 面識があったというか、何というか。

 最初から話をすると、どうしてもかのんが逢坂に告白したところから話をいけないことになるので、そうなると、かのんが逢坂にフラれたというのを言いふらしてしまうことになるのではないだろうか、と躊躇し、思わず汐は黙り込んでしまった。

「……あのぅ、うしおセンパイ? 黙っちゃうと、何かありましたーって言ってるのと同じなんですが」

「何もないよ」

「いやいやいやいや」

 絃里が顔を覗き込んできたので、すぐさま答えると、絃里と淳太は声を揃えて、呆れたように否定した。

「俺らしかいないんだし、言えよ」

 言いながら、淳太は汐のグラスにワインを注いでくる。

 勝手には言えないの! と言いたいが、それもできなくて、汐は、何でもないよ、とまた言いながら、ワインでいっぱいになったグラスを口につけた。

「何かあったんなら、相談に乗りますよ」

「……」

 言ってもいいのかなぁ、と不安になりながらグラスを空にすると、また淳太が注いでくれる。

「三浦さんて、無駄にかわいいよなー。ああいう子、彼女に欲しいわ」

「えー。貴島さんて、顔で判断するタイプだったんですねー。ちょっとショックー」

「並んで歩くなら、かわいい子がいいでしょ」

「でも性格悪そうじゃないですか」

「それって、ヒガミだよね」

 瞬間、ぴしっと亀裂が入った音がしたのは、汐だけだろうか。

 絃里ちゃんと淳太って、仲悪いんだなー、なんてのんびり思いながら、汐はほどよく回ったワインに意識を奪われつつ二人を見やる。

「ああいう人って、フラれたことないから、常に上位でいるんですよ。付き合ったら、絶対に疲れると思います」

「それは、付き合ってみなきゃわからないよね? 案外、松澤サンだってそう思われてるんじゃないの?」

「それって、私のことがかわいいって言ってるんですか? ありがとうございますー」

「常にポジティブシンキングな人って、嫌いじゃないけど、度を過ぎるとウザいよね」

 そんな二人のやりとりを聞きながら、ふと、間違っている部分に気づき、汐はぽつりと口を動かした。

「三浦しゃん、フられてたよ」

「え?」

 そう漏らされた言葉に目を丸くして絃里が存在を忘れかけていた汐を見ると、汐はカクカクと首を上下に動かしながら、意識を飛ばしかけていた。

「うしおセンパイ? なんで三浦さんがフラれたって知ってるんですか?」

「らって、あらし」

 見てたから、と言おうとして、そこまで言葉を発せたかどうかは自信がない。

「うしおセンパイ!?」
「及川っ」

 ぐらり、身体が大きく揺れて、汐が意識を手放すと同時、座っていた椅子から投げ出されたのを、すんでのところで淳太が抱きかかえた。
 がたーん、と椅子が倒れる音がして、慌ててウェイターが、大丈夫ですか、と駆け寄ってくる。

「すみません、大丈夫です」

 少し大きめに声を出して淳太が答えると、店内の客も安心したようにまた食事に戻り、ウェイターも椅子を戻して、軽く会釈をしてから仕事に戻っていった。

「貴島さん、うしおセンパイは?」

 こそ、と小さく絃里が駆け寄ると、汐は、くた、としなびたタオルのように淳太に身体を預け、すーすー、と健やかな寝息を発てていた。

 そんな汐の様子に、ほっとしたのも束の間、こんにゃろう、と小突きたいのを我慢して、淳太は汐を横抱きにかかえると、絃里に背中を向けた。

「松澤さん、会計お願いできる? 俺のズボンのポケットに財布入ってるから」

 はい、と素直に承諾して、絃里は淳太の財布を抜き取ると、素早く自分と汐のバッグを手にして、会計に向かった。

「松澤さん、及川の家って知ってる?」

「いえ、わかりません」

 そっか、と呟いてから、及川、と汐に呼びかけてみるも、返事がなく、困ったな、と淳太はため息を吐いた。

「及川って、酒弱かったんだな」

「私も知りませんでした。そういえば、うしおセンパイがお酒飲んだの見るの、初めてかも」

「マジか」

 はぁ、と淳太が大きく項垂れると、ブーブー、という振動が聞こえ、ん? と絃里と二人、携帯を確認するが、どちらの携帯も鳴っておらず、それでも振動音は響いているので、仕方なく、絃里は汐のバッグから汐の携帯を取り出した。

「……え?」

「どうした?」

 画面を見て固まった絃里につられるように、淳太も画面を覗き込む。

 『逢坂さん』と表示されているそれに、淳太と絃里は訝しげに目を合わせた。

「も、もしもし?」

『及川?』

 今どこだ、と訊いてくる声は、間違いなく上司である逢坂のもので、絃里は困惑するも、すみません、と返事をする。

「私、松澤です。うしおセンパイ……、ええと、及川さんは……」

「貸せ」

 汐を米俵のように肩に担ぎ変えた淳太が、しどろもどろになった絃里から奪い取るように携帯を耳に当てた。

「お疲れさまです、貴島です。及川は今話せる状態じゃないんですが、どうかしましたか?」

『いや、家に帰ったらいなかったから、どこにいるのかと思っただけだ。もう帰るなら、迎えに行くが?』

「は?」

 家に帰ったら? と逢坂の言葉を頭の中で反芻してみる。

 聞いてるのか、とちょっと苛立った様子の逢坂に、ちょっと待って下さい、と淳太は慌てて声を出す。

「どういう意味ですか? 一緒に住んでるんですか?」

『……迎えに行くが、今どこだ? どうせ、酔い潰れてるんだろう、及川は』

「酔い……、ええ、まぁ、はい。……ええと」

 仕方のない奴だ、と呆れ口調の割に、どこか優し気な言い方に呆然としながら、淳太は、駅前の文具屋の角を曲がった……、と居場所の説明を始めた。

 わかった、と言って切られて、ツーツーという電子音が鳴り響く携帯を耳に当てながら、淳太は現実を受け入れられないでいた。
 どうせ酔い潰れているんだろう、というのは、一度経験していないと汐が酒に弱いことなんて知るはずがない。

 貴島さん? と絃里が顔を覗き込んできても、なかなか衝撃的な事実を目の当たりにした後では、きちんとした受け答えをすることができなかった。