ストーカーキューピット
1. 家に帰れなくなりました
5
「……逢坂さん?」
朝汐が目覚めると、逢坂はもう家を出た後だった。
簡単な朝食がテーブルに用意されており、それを見た途端、ぐ、と涙が込み上げてくるのを感じた。
一人、テーブルにつき、すっかり冷めてしまった朝食に手をつけながら、昨夜のことを思い返す。
逢坂の親切は、ちゃんと汐に届いていた。逢坂が本気で心配してくれているのはわかっていたし、感謝もしている。
だがそれと、家庭の事情とは別問題だ。
弟が産まれるまではちゃんと『お母さん』をしてくれていた父の再婚相手は、弟が産まれてから、途端に汐を蔑むような目で見始めた。
それでも父は、ちゃんと仲裁に入ってくれていたし、決して汐を邪険にすることはなかったのだが、間に入ってやつれていく父を見ているのが忍びなくて、家を出た。
父は引き止めたそうでもあったが、それでも実際、ほっとしていたようでもあったから、尚更、家には帰れないし、連絡なんてそれから一度もしていない。
そんな事情を逢坂が知るはずもないのだから、実家に帰れ、というのは当たり前かもしれない。
逢坂は、汐を心配していただけなのに。
(帰ってきたら、ちゃんと謝ろう)
そもそも、怒らせてしまったのに、今日、ここに帰ってきてもいいのだろうか、と不安になり、本当ならここに帰るべきではないだろうが、実際、逢坂の家に帰らせてもらう方がありがたいので、会社に着いたら、一番で謝罪しようと心に決め、汐は残りの朝食をバタバタと口にかけ込んだ。
◇ ◇ ◇
『逢坂、直帰』
全員の当日の予定が記入されているホワイトボードの1番上の逢坂の欄には、直帰の2文字があった。
出鼻を挫かれてしまったな、と思いながらもデスクに向かうと、及川、と声をかけられ、振り向けば、缶コーヒーと書類を持った同期の貴島淳太がいた。
「これ、データが飛んだみたいで。文書に起こしといて。で、これが賄賂」
「ええっ、安い!」
「ばーか、これでも平社員にはいっぱいいっぱいなんだよ。160円もするんだぜ?」
よろしくな、と肩を叩いて、淳太は何事もなかったかのようにいなくなった。汐に、仕事を押しつけて。
逢坂と話がしたいから、今日は、何が何でも定時には帰って、玄関先で逢坂の帰りを待つ予定だったのに、とブツブツ言いながらデスクにつくと、今度は、うしおセンパイ、とにこやかに絃里が近づいてきた。
「今日、夜食べに行きません? パスタの美味しいお店、見つけたんです」
今日? と考えて、そう言えば、逢坂は今晩、接待で遅くなると言っていたな、と思い出し、だったら汐も外食して帰れば、同じくらいの時間になりそうだな、と快く絃里の申し出を受け入れた。
「それ、おニューですね」
帰り際、ロッカールームで着替えをしていたら、真新しい汐の洋服に気づいた絃里がそう言った。
「うん、まぁね」
「いいなぁ、給料日前の買い物。私もしたーい」
とは言っても、快く買い物に出かけたわけではなく、仕方なくだったのだとは言えなくて、汐が黙っていると、及川さん、と声をかけられ、振り向けば、なるべくなら会いたくなかったかのんがいた。
「少し、お話ししてもいいですか?」
「え? わ、私、ですか?」
「はい」
「……」
い、絃里ちゃ~ん、と助け船を求めるように絃里に視線を送ると、どうぞどうぞ、と言うように、玄関で待ってますね、と笑顔で手を振られた。
違うー! と声を大にして言いたかったが、とてもそんな雰囲気ではなかったので、汐はしぶしぶ、腹を括る。
「あの、お話しって?」
逢坂さんのことなんですけど、とかのんが少し音量を落として切り出すのに、ですよね、と妙な納得をして、汐は続きを待つ。
「お付き合いされてるんですか?」
「い、いいえ、してません」
「でも、私が逢坂さんをお慕いしてるって、ご存知でしたよね?」
「それは……、はい」
隠しても無駄そうなので、汐は素直に頷いて、すみません、と告白現場を覗いてしまったことを正直に話すことにした。
「実は、この間、倉庫にいたんです、私」
「え? それじゃあ……」
「がっつり、見てました」
「……」
かのんは一瞬、ぽかん、と呆気に取られたように口を開けると、すぐに閉じ、顔を真っ赤に染め上げた。
「そ、それで、ご存知だったんですね」
「ごめんなさい。わざとじゃなかったんです」
「いえ。私も、確認しなかったから……」
「いやいや、私も、知らんぷりしてればよかったんですけど」
そうこうお互い謝罪を繰り返しながら、なんだか気恥ずかしくなり、じゃあこれで、と汐はそそくさと絃里の待つ玄関ホールに足を急ぐ。
汐が玄関ホールに着くと、絃里と楽しそうに話す淳太がいた。
「なんでアンタが一緒にいるのよ」
「退屈だったから、おしゃべりさせてもらってたんですよぉ」
「っつーか、なんでおまえはそんなに不機嫌なんだよ?」
言いながら、淳太は汐の眉間に寄った皺を伸ばすように、ぐー、と人差し指で押してくる。
そんなつもりはなかったのだが、淳太がそうするのなら、きっとしわくちゃだったんだろうな、と少し反省して、ごめん、と言葉にすると、すぐに、ぐー、と汐のお腹が空腹を知らせた。
「お腹空いた」
「色気ねぇなぁ」
うるさいよ、と言いながら、汐はぐーで淳太の肩を殴る。
「せっかくだから、貴島さんも行きません?」
「どこに?」
「パスタです」
麺か、と呟いて、少し考え込むように淳太が黙ると、行きましょうよ、と絃里がその淳太の腕を取り絡ませた。
「こんなにかわいい女の子に囲まれて食事ができるって、なかなかありませんよ? 絶対に、行かなきゃ損です」
「で、俺に会計しろって?」
「もちろんです」
にっこり、絃里がほほ笑むと、わかったよ、と諦めたように淳太は項垂れる。
「松澤サン、かわいい顔して、悪魔みたいだね」
「ありがとうございますぅ」
淳太の嫌味を華麗にかわして、絃里は満足そうに店へと足を向けた。