ストーカーキューピット

1. 家に帰れなくなりました

4

「おまえ、彼氏いないのか?」

 頭を雑にタオルで拭きながら、シャワーから戻ってきた逢坂が汐にビールを渡してくれるのを受け取って、なんだかさっきも同じ質問をされたな、とぼんやり思った。

「いたら、ここにいませんよ」

 そんなものがいたら、真っ先に部屋が荒らされていたことを相談しているし、そこに行っている。
 間違っても、上司の家になんて泊まりにくるはずがない。

 すると同じことを思ったのか、だよな、と呟いた逢坂は、ソファに座ってテレビを見ていた汐の隣に腰を下ろした。

「明日は接待があるから、帰りは遅くなる。勝手に入って、先に寝てろ」

 言いながら差し出されたカードキーを受け取って、汐は、すみません、と肩身を狭くする。
 気にするな、と言って、わしゃわしゃと撫で回されながら、汐は、まるで自分がペットのようだな、と錯覚に陥ってしまう。

 今朝も思ったが、意外に優しいのだ、この上司は。
 いつも通りの仕事をこなしているだけでは、決して逢坂のよさはわからなかったかもしれないが、酔っぱらってしまった汐を介抱してくれたり、家が荒らされていたと言えば泊めてくれたり。

 そこまで考えて、もしかして、と一瞬思い、汐はじっと逢坂を見つめた。

「……なんだ?」

 汐に凝視された逢坂は、訝しげな表情で汐を見返すと、汐の頭を自分とは反対方向に押しやって顔を背けた。
 どうやら、見られるのは好きではないらしい。

「逢坂さん、ごめんなさい」

「……何がだ?」

「私……」

 ぐ、と息を飲み込んで、汐は逢坂をまっすぐに見た。

「私、逢坂さんとはお付き合いできません!」

「……は?」

 さも不可解な面持ちをした逢坂を気にもせず、汐は、今度は顔を伏せて逢坂の顔を見ないようにして言葉を続けた。

「逢坂さんが私に優しくしてくれるのは、私のことが好きだからなんですよね? でもごめんなさい! 私、逢坂さんのことは、好きじゃないっていうか、意識したことがないっていうか、そもそも、全然タイプじゃないっていうか……」

「……ほう?」

 勢いで言葉を繋げながらそう言うと、逢坂は少し目を細めて、それから? と続きを待つ。

 あれ? と逢坂の放つ空気が冷たくなったのを感じ、汐はちらりと逢坂を見た。
 眉間に皺を寄せて、こめかみには血管が浮き出ている。

(な、なんでー!?)

 逢坂の表情に怖くなった汐は、低姿勢で、逢坂さん? と名前を呼んでみるが、逢坂の雰囲気は温かくならない。
 さっきまで、普通だったのに。

「今すぐ出て行くか?」

「な、なんでそうなるんですかー!?」

「それはこっちの台詞だっ」

 びしっ、とデコピンが飛んできて、思わず、痛いっ、と叫ぶと、逢坂は手に持っていたビールを勢いよく開けて、ぐっと飲み干した。

「誰がおまえを好きだって? 自惚れるな」

「だって、優しくしてくれるのって、下心があるからじゃぁ……」

「世の中の男がみんなそうだと思うな! 下心だけじゃない男もいるんだよっ」

 そうなの? と痛む額を抑えながら、きょとん、と目を丸くした汐は、あ、と今度こそ閃いたと言わんばかりに声を上げた。

「逢坂さん、もしかして男の人が好き!?」

「お前の脳みそはどうなってるんだ、一体!?」

「い、いひゃい~っ」

 逢坂はビールを持っていない方の手で汐の両頬をぐに、と掴むと、タコの口になった汐が反論するように慌てた。

「りゃ、りゃって、ゆうべしょひゃあでねてたろも、あらひのことがしゅきだから、おにゃじベッドでねひゃら、れったいにてをだすからじゃにゃいんれしゅかー!?」

「どれだけおめでたいんだ、お前の頭は……」

 がっくり肩を落とした逢坂は、はぁ、と全身から盛大にため息を吐いて、汐から手を離した。

 汐は解放された頬を撫でながら、違うのかな、と不思議そうな表情で逢坂を覗き込むと、よし、と何か思い立ったように逢坂が声を上げる。

「じゃあ、今日は一緒に寝よう。おまえには興味がないんだと、はっきりわからせてやる」

「えぇ!? イヤです!」

両腕で自分の身体を守るように抱き締めると、阿呆、とゲンコツが頭に落ちてきた。

痛い。

「おまえが俺に興味がないのと同じように、俺もおまえに興味がないんだよ」

 一緒に寝るのに、何の不都合がある? と問われ、ゲンコツが落ちてきた頭と解放されたばかりでまだ痛む頬を別の手でそれぞれ擦りながらしばらく考えた汐は、それもそうか、と逢坂の言葉に納得し、ようやく落ち着いたのか、まだ開けてもいないビールのプルタブを起こした。

「おまえ……」

「はい?」

 心底呆れたような表情で逢坂に見られたが、汐は、きょとん、とした表情のまま、グビグビと美味しそうにビールを口に運ぶ。

 本当にわかってるのか……? という逢坂の不安気な呟きは、汐が笑いながら見ていたテレビの音にかき消された。



「じゃあ、電気消しますね」

「……ああ」

 部屋の電気を消した汐は、そろそろと逢坂の眠るベッドに足を滑らせた。
 そうして二人並んで、なんだか変な感じだな、なんて思いながら、両手を組んで枕にしている逢坂に、お休みなさい、と声をかけると、おまえ、と声が飛んでくる。

「実家は遠いのか?」

「いえ、めちゃくちゃ近いです」

 じゃあなぜ実家に帰らん、と月明りでもわかるほど睨まれて、だって、と拗ねたように唇を尖らせた。

「私、元々父子家庭だったんですけどね。パパが再婚して、弟ができたんです。あ、その弟って、パパの子供なんで、ちゃんと私の弟でもあるんですけど、なんか、パパとお母さんと弟と四人でいると、私だけ浮いてるっていうか、なんか、すごく違和感があって。ああ、私が邪魔なんだなって思って、気づいたらアパート契約してました」

 就職した時は実家暮らしだったので、当然、実家から通える範囲内の会社を探して、実家を出てアパート暮らしを始めても、当然、通える圏内だったので、必然的に実家の近くにアパートを借りることになった。

 あはは、と笑って話す汐に、そうか、と少し声を落として呟いた逢坂は、だが、と身体を汐に向ける。

「万が一の時は、ちゃんと実家に帰れよ」

「……そうですねぇ」

 そうしまーす、と軽く言うと、こら、と鼻を摘まれた。

「俺は、真面目に言っている」

「私も、真面目に答えてます」

 万が一の時って何よ、と思ったが、そこは言わずに、あのですね、と汐も逢坂に倣って身体を逢坂に向けた。

「帰りたくない事情だってあるんです。そこまで首を突っ込まないでください」

 いくら上司とはいえ。そこは、プライバシーの問題がある。

 睨むような眼差しでそう言い放った汐に驚いたのか、そうか、と今度はあからさまに声を落として、逢坂は、ごろん、と汐に背中を向け、お休み、と寂しそうな背中で言った。

 傷つけてしまっただろうか、と不安になって、逢坂さん? と窺いながら声をかけるも、返事はなく、沈黙を貫く背中に、そっと手を添わせて頭を寄せる。

「……すみません、いろいろ心配してもらったのに。でも、実家には頼りたくないんです」

 案の定、返事はないが、でも聞いているらしいことだけは伝わったので、汐は逢坂の寂しそうな背中に身を寄せたまま、目を閉じた。