ストーカーキューピット

1. 家に帰れなくなりました

3

 仮眠室は6畳ほどの部屋で、シングルベッドが2台配置されており、徹夜明けの社員がその名のとおり、仮眠を取るために用意されているが、使い終わった後はシーツを新しいものに取り替えるなど色々規約はあるものの、体調が悪い社員がいれば、問題なく使うことができる。

「吐くか?」

 逢坂は汐をベッドに横にすると、洗面器を持ってきて頭元に置く。
 ふるふると頭を横に振ると、閉じている両目から涙が溢れてくるのがわかり、汐は目を開けた。

「何があった?」

 ふわり、汐の頭を撫でる逢坂に視線を向けると、仕事中には絶対に見せない優しい表情で汐を見つめていて、汐は少しだけ、胸のつかえが取れるのを感じた。

「……なんでも、ないです」

「嘘吐け」

 優しい声音に、涙が堰を切ったように溢れ出してきて、枕を濡らしていく。
 ひっ、と嗚咽を漏らす汐の頭をゆっくりと撫でながら、逢坂は問い詰めるでもなく、やんわりとした姿勢を崩さずに、おまえ、と声をかけてきた。

「どうして着替えて来なかった?」

「え?」

「家に、送ってやっただろう?」

「……」

 撫でる手は止まないが、質問の拍子に涙が止んで、どうしよう、と手が震える。 言ってもいいのだろうか、と不安になりながら、それでも誰かに打ち明けられなくて悶々としていたので、どうやら逢坂が聞いてくれる態度でいてくれることがありがたくて、部屋が、とぽつり、口を開いてみる。

「荒らされていて」

 言葉にした瞬間、今朝玄関のドアを開けた光景が蘇ってきた。
 タンスの抽斗ひきだしは一番上から下まで全部手前に引かれ、中身は部屋中に散乱。
 香水の瓶が割れたのか、部屋はキツいくらいの匂いが充満しており、雑然とした服の上には普段使っている化粧品や好きで置いていた観葉植物などがごった返していた。

 よろり、ふらついて、思わずその場を駆け出して、気付けば会社近くにある24時間営業のファミレスでコーヒーを飲んでいた。

 自宅からファミレスまで記憶が飛んでいて、全然思い出せないほどに恐怖を感じていたのだと身震いしたのは、出社時刻30分前のこと。
 着替えを購入しようにも、お店が開いている時間でもなく、仕方なく、そのまま出社した。

「空き巣か? 何か盗られたりとか……」

「わかりません。部屋に入る、勇気がなくて」

 入れませんでした、と涙ながらに言うと、逢坂は何を考えているのか、眉間に皺を寄せて黙ってしまった。

 言わない方がよかっただろうか、と思い身体を起こすと、逢坂はポケットから財布を取り出し、2万円を汐に手渡してきた。

「それで着替えを買って、とりあえず、今日は俺の家に来い」

「え? で、でも……」

「今朝そんな調子だったなら、夜は尚更、家には帰りたくないだろう?」

 言われて、う、と言葉に詰まる。

 今朝の惨状を思い出すと、家に近寄るのも恐くて、今日は最低限の着替えを買って、近くのカプセルホテルかネットカフェに泊まる予定だった。
 汐の一人暮らしに前向きだった親に言っても何にもならないだろうし、従兄妹の克己は、今、同棲中の彼女がいるので迷惑をかけたくない。

 今朝、ロッカールームで絃里に相談に乗ってもらうべきか悩んだが、最悪の事態を考えると、巻き込むわけにはいかないと思い、口を噤んだ。

 逢坂の申し出は、そんな汐の心の拠り所になってくれ、申し訳ないと思う反面、すごく安心したのも事実だ。

「週末、一緒にお前の家に行ってやる。だからそれまで、嫌だろうが俺の部屋で我慢しろ」

「イヤだなんて……」

 ありがたいです、と言おうとしたが、遮るように立ち上がった逢坂が、とにかく、と言葉を続けた。

「昨夜は俺のベッドでぐっすり寝ていたようだから眠くはないだろうが、仕事ができないようならここにいろ。迷惑だから」

 ぐさっ、と突き刺さる物言いに文句の一つも言ってやりたいとは思うものの、正論すぎて何も言えない。
 昨夜、逢坂のベッドを取ったことを根に持っているのだろうか。小さい男め、と悪態吐きたいが、昨夜世話になった挙げ句、週末まで面倒をかけるのだから、言うわけにはいかない、と思い止まる。

 なんにせよ、今日、宿にありつけたのは、ありがたかった。

 財布にもそこまで余裕があるわけではないのに、着替え一式を買わないと、3日続けて同じ服を着るのもどうかと思うし、カプセルホテルも空室がある保障はない上にファミレスやネットカフェで寝るのも疲れが取れないだろうなぁ、と色んな意味で気がかりだった。

「大丈夫です。仕事、できます」

 汐が横になったばかりのベッドから降りようと、足を出すと、逢坂が、怪訝そうな表情を向ける。

「無理はしなくていいぞ」

「平気です。お金も貰ったし」

 ぎゅ、と渡された2万円を握り締め、汐が逢坂に笑顔を向けると、そうか、と安心したように、逢坂が口元を綻ばせた。

「現金なヤツだな」

「そう言いますけどね? 平社員には、死活問題なんですよ」

 ホントに、と付け加え、お金をいそいそとポケットにしまい込むと、すでに入口付近に立っていた逢坂の隣にパタパタと駆け足で近寄る。

 先ほどまでの不安が、今は嘘のように晴れていた。
 清々しい気分で、今日の仕事に打ち込めそうだ、なんて呑気に構えていると、何やら視線を感じ、振り向くと、仮眠室から出てきたばかりの汐と逢坂をじっと見つめるかのんと、その同僚がいた。

 げっ、と逃げたくなったが、あいにく、逃げ場所はないため、相手の出方を待ってみると、にっこり微笑んだかのんが、お疲れさまです、と会釈をしながら、通り過ぎていった。

「近くで見たのは初めてですけど、本当にきれいな方ですねぇ、三浦さんて」

 色が白くて、スタイルがよくて、かわいくて。通り過ぎるときに、ほんのり甘い香りがした。
 もしも汐が男で、彼女に交際を申し込まれたなら、絶対に断らなかったと言い切れるくらい、羨ましいほどの美人さんだ。

 どうして逢坂さんなんでしょうねぇ、と口に出したつもりはなかったが、無意識に出ていたのか、じろり、と逢坂に睨まれる。

「俺の魅力を、理解してくださってるんじゃないですかねぇ」

「えー、絶対違うと思う……」

 汐の口調を真似て答える逢坂に、もの言いたげな目を向けると、なんだよ、と少しふて腐れたような表情をして、こつん、と拳を頭に乗せられた。

「仕事だ、仕事。8時には終わらせるから、飯食いに行くぞ。それまでに買い物すませておけよ」

 はーい、と返事をして、今日の仕事の割り振りを考えてみると、今朝方逢坂にもらった仕事は絃里が終わらせてくれているはずだし、うん、問題ないな、と定時で上がれることを確信し、どこに服を買いに行こうかなー、と嫌なことを忘れ、前向きに胸を弾ませた。

◇ ◇ ◇


 最低限の衣類を買って、ふぅ、とようやく一息吐くと、ちょうど逢坂から電話をもらった。

『買い物は済んだのか?』

「はい、とりあえず2日分だけ」

『じゃあ飯に行くぞ。今どこだ?』

「えーっと、今は……」

 場所を告げて電話を切ると、なんだか、恋人同士みたいだな、なんて思いながら、荷物を抱えて待ち合わせ場所に向かおうと顔を上げて、げ、と一瞬萎縮する。
 目の前から、かのんが歩いてきたからだ。

 別に、買い物をしていただけで、何もやましいことはない、とおまじないのように自分に何度も言い聞かせ、ふー、と息を吐き出すと、あら、とかのんの方から声をかけられた。

「お疲れさまです。ショッピングですか?」

「ショッ……、ええと、買い物です」

 なんとなく、自分には横文字は似合わない気がして、あえて日本語で言い直してみると、少しだけかのんは眉間に皺を寄せた。
 そうして、ちらり、汐の荷物を見ると、及川さんて、と口を開き、聞いてくる。

「彼氏いらっしゃるんですか?」

「え? いや、いませんけど……」

「……そうですか」

(な、なに? なんなの、この質問は!?)

 かのんの質問の意図がわからず困惑すると、かのんは右手を口元に寄せて考える素振りをし、余計なことかもしれないんですけど、と続けた。

「あまり、特定の男性と親しくするの、よくないと思いますよ。もしかしたら、その人を好きな人だっているかもしれませんし」

「特定の? ……ああ、逢坂さんのこと?」

 今朝、仮眠室から一緒に出てきたことを言っているのだろうと思い、口にする。あらぬ誤解を与えたくはない。

「逢坂さんのことなら、心配しなくても大丈夫ですよ。ただの上司と部下なんで」

 にっこり微笑んでそう言ってから、後悔した。心配しなくても、なんて、まるで、かのんが逢坂を好きな口振りになってしまった。
 いや、間違いではないのだが、汐がそれを知っているというところに問題がある。

 かぁ、と一瞬で顔を赤く染め上げ、かのんは両手で口元を覆うと、ぷるぷると小刻みに震え始めた。

「み、三浦さん、あの、今のは……」

 弁解しようとかのんの顔を覗き込むと、ぽつり、大粒の涙が溢れてきた。

(えー、どうしよう!?)

 汐が蒼くなってかのんに声をかけようとすると、失礼します! とそれより早く、駆け出して行ってしまった。

 ……最悪だ。

 あんなに早く走れたんだな、と感心するほど、ヒールの音を軽快に響かせながら、夜の街に消えていくかのんを呆然と見送ると、ポケットの中の携帯が震え、その着信を知らせる。

『おまえ、まだ着いてないのか?』

 今まさに、あなたのせいでかのんに誤解されてしまったんですよ、と声を大にして言いたかったが、やめて、すみません、と謝罪の言葉を口にしながら、汐はトボトボと待ち合わせ場所に向かった。