ストーカーキューピット
1. 家に帰れなくなりました
2
「おい、及川」
起きろ、と身体を揺さぶられて、ううん、と呻き声を出せば、途端に逆流してくるものがあって、うっ、と反射的に身体を起こした。
「バカ、ここで吐くなっ」
「うう……。気持悪い……」
胃液が上がってきそうになったのを何とか堪えるが、それでもまた上がってくる波が押し寄せてくる。
「洗面器持ってくるから、少し待ってろ」
言われてバタバタといなくなった存在に、はたと気付く。……ここは、どこだろう。
ゆっくりと顔を上げて、うん、と自分の部屋でないことを確認する。そうして、部屋の中をぐるりと見渡した。
モノトーンの落ち着いた色調の家具が置かれ、一面を支配する窓から光が射し込まれるのが寝起きには痛い。窓辺に足を向けようと、そっとベッドから出ようとして、自分がブラとパンツしか着けていないのに気付き、慌てて布団を頭から被った。
(いやいやいやいや。ないないないない)
ぶるぶると頭を横に振り、ぐわん、と眩暈がして、一層吐き気がする。
何をやっているんだか、と自分でも呆れ返りそうになりながら、もしかして、と思うが、パンツを穿いているのだから、それはないか、と安心するも、いや、行為後に穿いた可能性も捨てきれないな、と段々不安が押し寄せてくる。
それ以前に、ここはもしかして、と嫌な予感が頭を過った瞬間、その予感が的中していることを知った。
「ほら、洗面器」
「……ありがとうございます、逢坂さん」
頭から布団を被っていることなんてお構いなしに、逢坂に洗面器と一緒に濡れタオルを渡されて、汐はそれを素直に受け取りながら、じっと逢坂を見つめると、その視線に気付いた逢坂が、ああ、と思い出したように口を開いた。
「言っておくが、何もないからな。服は、おまえが勝手に脱いだんだ」
「あ、そうですか」
言われて、至極恥ずかしくなる。
ほんのりとだが、記憶が呼び起こされてきて、確かに、熱い! と叫びながら、ぽんぽんと着ていたものを1枚1枚脱いでいって、あろうことか、それを逢坂に投げつけたという最悪な場面までが脳裏を掠める。
(いっそのこと、忘れたままでいたかった)
付き合ってもいない男性の部屋で、下着1枚でうろついて、挙句、ベッドまで占領していたなんて。
思い、ん? と首を傾げる。
「あのぅ、逢坂さん。ちなみに、昨夜はどこでお休みに?」
「リビングのソファで、ゆっくり寝かせてもらったが、何か?」
じろり、と睨まれて、すみません、と小さくなるしかなくなった汐は、せっかく貰った濡れタオルを、顔面にバフッと当てた。
「少し早いだろうが、シャワーを浴びて目を覚まして来い。それから、家まで送ってってやる」
早朝会議があってな、と腕時計を見遣る逢坂にそう言われ、ええ!? と部屋の中を見回して、壁に掛かっている時計を確認すると、確かに汐にはまだ早い、5時30分という時間を指していた。
汐の始業時間は9時なのだが、早朝会議は、一体何時からやっているのだろう、と思い、そういえば、いつも始業前には終わっているのだから、8時くらいなのだろう、と完結させる。
なんだ、8時なら余裕じゃん、と安堵すると、それを読み取ったのか、逢坂が、7時だ、と補足するように答えた。
「そ、それは、急がなきゃですね……」
「おまえ、確か梨堀って言ってたよな。30分もあれば着くから、6時にはここを出たい」
「あれ? 逢坂さん、私の家をご存知で? ……もしかして、ストーカー!?」
「阿呆」
「痛いっ」
ぴしっ、とおでこにデコピンが飛んでくる。地味な行為だが、ものすごく痛い。
「夕べ、おまえが自分で言ったんだろう? タクシーの中で」
「そ、そうでしたっけ……?」
駄目だ、まったく記憶にない。
うーん、と唸っていると、時間がないぞ、と鬼上司の声が聞こえ、思わず、急ぎます! と軍隊のあいさつのように敬礼すると、それが面白かったのか、逢坂は一瞬、目を丸くしたあとで、ふ、と口元を綻ばせた。
(あ、笑った……)
普段仕事をしている上で、逢坂の笑顔なんて見たことがなかったため、それはすごく新鮮で。なんだ、笑うと、案外かわいいじゃないか、と呑気に思いながら、ほぅ、と胸を撫で下ろすと、それ、と指を差された。
「誘ってるなら襲ってやってもいいが。そうでないなら、隠した方が、いいんじゃないか?」
それ? と首を傾げて、すぐさま青くなる。
敬礼をしたせいで、身体を覆っていた布団が剥がれ、下着姿を逢坂に晒していた……。
「いい加減、機嫌を直したらどうだ?」
「……」
逢坂の車の助手席に座り、汐は頬を膨らませていた。別に、機嫌が悪いわけではない。ただ、少し拗ねているだけで……。
「逢坂さんは、デリカシーがなさすぎます」
「褒め言葉か?」
「ち、違います!」
なんだ、この人は!? 今の流れで、どうやったら褒め言葉だと受け止められるのだろう、と運転席の逢坂に目を向け、驚きを隠さずに汐はわなわなと唇を震わせた。
「夕飯をご馳走してやって、酔っぱらって帰れないおまえを介抱して、朝は朝でちゃんと起こして、シャワーを貸して、朝食まで用意して、自宅まで送っていってやってる途中のこの俺に対して、褒め言葉じゃない意味がわからん」
そこまで一気に言われ、ぐ、と汐は言葉に詰まる。ド正論だと思ったからだ。
「……面倒見がいいんですね」
ぼそり、呟いてみる。悔しいが、言葉では逢坂に敵わない気がしたものの、黙っているのは腹が立つので、精一杯の、汐なりの皮肉だった。
「弟が、いるからな。小学生の」
「わ、私は、小学生レベルですか!?」
違うのか、と言わんばかりの表情で、逢坂はちらりと汐に視線を送ってくる。くっ、と唇を噛み締めて、汐は窓の外に視線を向けた。
これ以上逢坂と話をしていてもイライラするだけのような気がして、ぷぅ、と頬を膨らませると、それが面白かったのか、運転席から人差し指が迫ってきて、膨らみを潰された。
「そういうところ、弟にそっくりだ。いじりたくなる」
くっくっ、と声を殺して笑う逢坂に、半端涙目で睨んでみるも、それも全部逆効果で、逢坂を喜ばせているだけだということに気付き、汐は全身の力を抜くように、はー、と大きく息を吐き出した。
「早朝会議が終わったら、おまえのデスクに今日中の仕事を置いておく。終わったら、俺のデスクに置いておけ」
「……はーい」
まだも楽しそうな表情をしたまま、逢坂が今日の仕事を汐に言いつけたところで、汐の暮らすアパートが見えてきた。
「あ、ここら辺でいいです。うち、あれなんで」
言いながら指を差すと、どれ? と身を乗り出して逢坂が汐の指す方向に視線を向けると、思った以上に距離の近くなった逢坂の匂いが、ふわ、と汐の鼻を掠めた。
(シャンプーの匂い……)
どこかで嗅いだ記憶のある香りに、一瞬考えを巡らせて、すぐに落ち着いた。どこかで、なんて、他人事すぎる。
今朝使った逢坂の部屋のシャンプーが自分からも香っていることに気付いて、なんだかものすごく、くすぐったくなった。
「送って頂いて、ありがとうございました」
「ああ。遅刻するなよ」
「はい」
ばっ、とまた敬礼して、逢坂を見送る。逢坂は、ふっ、と口元を綻ばせたあと、じゃあな、と言って車を発進させた。
(……悪い人じゃ、ないんだよなぁ)
会社にいる間は、厳しくて、とてもいい人だなんて思えなかったけれど、夕べから今朝にかけての逢坂は、厳しさを微塵も見せなくて、優しさだけを汐に注いでくれた。
そもそも、なんで逢坂と食事をすることになったんだっけ、と思い、ああ! と嘆くように汐は声を上げた。
二人で食事に行ったなんて、かのんにバレたら、それこそ何を言われるかわかったもんじゃない。かのんは何も言わなくても、受付嬢のお姉様方に目を付けられたら最後、会社にはいられなくなる。確実に。
ぶるるっ、と身震いして、気をつけます、と再度、既にいなくなった逢坂に向かって敬礼すると、カバンから部屋の鍵を取り出して軽快な足取りで階段を駆け上がった。
部屋の前に着いて、早速鍵穴に鍵を差し込むと、かち、と軽い音がして、あれ、と訝しむ。
鍵が、開いていた。
◇ ◇ ◇
「あれー、うしおセンパイ?」
就業前、ロッカールームで着替えようとしたら、隣にいた後輩の松澤絃里に声をかけられて、汐は思わず、びくっ、と肩を震わせた。
それ、と前置きをした上で、絃里は汐に近付いて、小声になる。
「昨日と同じ服ですね」
ふふ、と笑顔で言う絃里の脳裏は、きっと素敵なお花畑が咲き誇っているに違いないであろう。
やっぱりバレたか、とため息を吐きながら、汐は、違うの、と絃里に聞こえるだけの声で弁解をしようとするが、絃里にはどうにも伝わらないらしく、またまたぁ、と嬉しそうな表情で汐の肩を叩いてくる。
「どこにお泊まりだったんです?」
「どこって……」
お泊まりには違いないが、絃里の思っているような甘じょっぱい夜があったわけではない。
ちらり、とロッカールームの奥で着替えている受付嬢集団を視界に入れながら、絶対に逢坂の名前だけは出さないぞ、と意気込んで、んん、と軽く咳払いをする。
「絃里ちゃんが思ってるようなことは何もないから。ほら、早く着替えて、行くよ」
「えぇ、そんなぁ」
つまらない、と言わんばかりの声と表情を出しながら、絃里が汐に置いて行かれまいと早々と着替えを済ませて汐に着くと、二人はロッカールームを後にした。
「これか」
机の上に置かれた書類を手に取り、汐はそれをパラパラと捲ってみながら、側に置かれたメモを見る。
『合計がおかしい』
雑な文章だが、言いたいことはわかる。
椅子に座って早速電卓を弾き始めながら、合計の合わない場所を確認してチェックをしていると、隣のデスクから、すすー、と椅子を滑らせた絃里が近付いてきて、そういえば、と汐の顔を覗いた。
「さっきも言おうと思ったんですけど、顔色ヒドいですよ。大丈夫ですか?」
「え?」
言われて、そうなのか、と顔色が悪いことを実感すると、急に血の気が引いたような錯覚に陥って、瞬間、眩暈と吐き気に襲われる。
う、と口元を覆うと、うしおセンパイ!? と焦ったような絃里の声が聞こえてきたが、それに応えられる余裕もなく、きつく目を閉じた。
「どうした?」
回避できない苦しみをどう対処しようかと悩む汐に、そう逢坂の声が降ってくると、絃里が汐の代わりに応えてくれる。
「急に、具合悪くなっちゃったみたいで。仮眠室に連れていってもいいですか?」
それは構わんが、と返事をしたあとで、いや、待て、と制されて、絃里は汐の机の上に置いてある書類を渡される。
「俺が連れていくから、これを頼んでいいか? 今日中なんだ」
「了解しました。じゃあ、うしおセンパイのこと、お願いします」
汐のやりかけの書類を絃里が引き継ぎ、逢坂が汐を仮眠室に連れていくということで話がついたようで、絃里は不安そうな表情をしながらも、自分のデスクに戻って書類を広げる。
及川、と肩に手を置いて汐を立たせようとするも、足に力が入らずに立ち上がれないのを感じた逢坂は、椅子を引いて、軽々と汐を抱き上げた。
うわ、と室内にいた全員が息を飲むのがわかったが、そんな場合でないことは全員が承知していたため、ちらちらと逢坂と汐の様子を見ながらも、みんな黙々と仕事を進めていく。
元気があれば、降ろして下さい、と反発もできただろうが、とてもそんな元気もなく、汐は同僚の見守る中、自分と同じ石鹸の匂いに身体を預けた。