ストーカーキューピット

1. 家に帰れなくなりました

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「好きです!」

 書類を片付けるように言われ、倉庫にひっそりと身を潜めていた及川汐おいかわうしおは、思わず持っていた書類をバサバサと床に落としそうになった。

 静まり返った倉庫では、唾を飲み込む音さえ響いてしまうのではないかと思ったが、飲まずにはおられず、ゴク、と飲み込むも、どうやらありがたいことに汐の存在がバレている様子は感じられない。

 ほっとしたのも束の間で、どうにかこの瞬間をやり過ごさなくては、と汐の中で妙な使命感が芽生え、音を出さないよう、じっとその身を石にする。

「今は、誰とも付き合う気はないんだ」

 悪いな、と突き放すような言い方をする声に、おや、と思う。聞き覚えがあるにはあるのだが、うーん、と悩むも顔が思い出せず、悪いと思いながらも、好奇心が勝った。

 棚に詰められたファイル同士の間のわずかな隙間から、現場の様子を覗き見るため、そっと身を捩らせて目を凝らすと、その先に二人の姿が見えた。
 社内で一番の美人と名高い受付嬢の三浦みうらかのんらしき女性が見える。あの美人でも、告白してフラれるんだな、なんて呑気に思いながら、かのんの目の前に立つ長身の男に視線を移せば、汐が所属する2課の課長である、逢坂隼斗おうさかはやとの姿があった。

(三浦さん、逢坂さんみたいなのがタイプなんだ……。まぁ、黙ってればカッコいいし、三浦さんと並べば、美男美女のカップルだけど)

 普段、逢坂の下で働いているが、逢坂を異性として一度も見たことのない汐には、どうにもかのんの好みは理解し難いが、それでも口を開かずに見ているだけならば、確かに絵になる二人ではある。

「いえ、いいんです。お話し聞いてもらえて、すっきりしました。ありがとうございました!」

 パタパタと音を響かせて、かのんの足音が倉庫から遠ざかっていく。

(あれ? 逢坂さんは?)

「盗み聞きは感心できんな」

 倉庫から出た様子のない逢坂の場所を確認しようと身を乗り出した汐は、背後から聞こえた逢坂の声で、瞬間、青くなった。

「お、逢坂さん……」

 一体いつの間に、汐の後ろに回り込んでいたのか。気配なんて、微塵も感じさせなかったのに。

「可哀想に。精一杯の告白を、誰かに見られてたなんて。彼女が知ったら、どう思うだろうな?」

 にこやかに、そう汐に微笑みかける逢坂に、この悪魔! と悪態吐きたいのを我慢して、にっこりと、逢坂に負けず劣らない笑顔で、汐は申し出た。

「今晩、お食事でもどうですか?」

◇ ◇ ◇


「だから、悪気はなかったって言ってるじゃありませんか!」

 ざわざわと騒がしい居酒屋で、どん、と汐はテーブルに飲みかけのビールジョッキを置いた。

「だから、奢られるだけで許してやるって言ってるだろ」

 しれっとそう言いながら、逢坂はビールを口に運ぶ。

 倉庫での告白の場面を、悪気はなくとも汐が覗いてしまったのは事実で、それを武器してどんな無理難題を押しつけられるやもしれないと危惧した汐は、早々と逢坂の口を塞ぐため、就業後、会社から2駅離れた居酒屋へ足を向けていた。

「給料日前なのに」

 ぽそり、呟いて、汐はジョッキに残っているビールを一気に飲み干した。

 汐は、さっさと逢坂を酔わせてホテルに連れ込み、二人で映った裸の写真を撮って、責任取って下さい! という文句を言うついでに、告白現場を覗いたことを黙らせようと思っていたのだが、そもそも酒に弱い汐が、なんでそんなことをしようと思ったのか、今では皆目、見当もつかない。

(それもこれも、カッちゃんのせいだ)

 その場にいもしない従兄妹に、そう悪態吐いてみる。

「男を酔わせて裸の写真でも撮れば、それだけで確実、立場は上になるわよ~」

 それは、従兄妹である克己かつみの口癖だった。

 アルコールが入る度にそう聞かされてきた汐には、単純に、そんなものなのか、とインプットされていたのだが。自分の酒の弱さは、想定外だった。
 汐の目の前は、ぐわんぐわん、と回っているのに、逢坂はというと、あっけらかんとした表情で、くるくると変化する汐の表情が面白いのか、じっと汐を観察していた。

「じゃあ、今日は俺が出すから、今度、給料日に奢ってくれ」

 ほら、と箸で掴んだキュウリの漬物を目の前に出されて、思わず、パクリと口に含む。

 コリコリと音をさせてキュウリを噛みながら、れもぉ、と舌足らずな口で、言葉を発した。

「そしたら、逢坂さん、言っちゃいません、三浦さんに? そしたら、彼女、傷ついちゃいますよね、絶対」

 私だったら、絶対に嫌だもん。精一杯の告白を、誰かに見られるなんて。

 思いながら、やっぱり興味本位で覗きなんかするもんじゃないな、と教訓として胸に刻んだあと、かくん、と汐の頭が落ちてテーブルにぶつかった。

 ごつん、と小気味いい音が店内に響いて、目の前の逢坂が、目を丸くしている。

「だ、大丈夫か?」

 恐る恐る、逢坂は汐がぶつけたらしい赤くなっている額に手を添えて、そっと撫でてみる。

 あ、冷たくて、気持ちいい……。

 にへら、と酔っぱらいの笑みを浮かべた汐は、額に添えられている逢坂の手を握り、頬に持ってくると、すりすりとそれを撫でた。

「おい、酔っ払い」

 逢坂が、気まずそうな表情をしている。なんでだろう、と思ったが、それ以上を考える意識は、今の汐には残されていなかった。