しゅごキャラ!/バブル(4)


 食事を摂りながら、亜夢は紡の様子を窺っていた。幾斗のことを、何とか紡から承領して貰わなければ。日一日と、亜夢の体内の小さな生命は、成長しているのだから。

「パパ」

「あむ」

 意を決し、亜夢は口を開いたのだが。同じに、紡も口を開き、亜夢は戸惑う。
 そして、黙って紡の次に出てくる言葉を待った。

「……今度、改めて幾斗くんを家に連れてきなさい。一緒に、ご飯でも食べよう」

「パパ!」

 紡の言葉に、亜夢は花が咲いたようにぱぁっと表情を明るくした。

「ありがとう、パパ」

 満面の笑みで、紡に感謝を述べる。この笑顔が、いつまでも自分のものだと思っていたのに、と内心ではショックを受けながら、それでも気丈に振る舞って、紡は亜夢を見つめていた。
 この亜夢の笑顔を奪うことは、できない。亜夢が喜んでくれることが、父親としてこの上なく嬉しいことなのだから。
 娘の旅立ちは、決して悲しいものではないから。

 亜夢は、きっと今、幸せの真っ只中にいて。時折見せる暗い表情は、紡の許しを得ていないことだとすれば、それを取り除くには、紡が許すほかなくて。

 もちろん、最後まで反対するつもりはなかったけれど。それでもやっぱり、ずっとそばにいてほしかった。

 喜ぶ亜夢を尻目に、紡は、ちら、と亜実に視線を落とした。
 目に入れても痛くないほど可愛くて、大切な娘を取られる日がもう一度来るのかと思うと、息子がよかったな、と思ってしまった。

◇ ◇ ◇


「そうか。おめでとう」

 笑顔で、一之宮は幾斗に手を差し出した。その手を握り、ありがとう、と幾斗も微笑み返す。

「もう、随分と昔のことだが。本当に、あのときは申し訳なか……」

「いいって、もう」

 頭を下げて謝罪しようとした一之宮を制して、幾斗は亜夢の肩を抱いた。

「俺は今、幸せだから。昔のことなんて、どうでもいいんだ」

「そうか」

 ふ、と寂しそうに口元を綻ばせて、一之宮は窓際へ足を向けた。

「せめて、あのときのお詫びに、ウェディングドレスをプレゼントさせてくれないか?」

「ウェディングドレス?」

「ああ。世界に一つしかないデザインをオーダーするといい。きっと、いい思い出になる」

 一之宮の言葉に、亜夢は目を丸くした。
 簡単に、そう言うけれど。決して、それは安いものではないだろうから。

「い、いりませんっ」

 思わず、声を張り上げていた。

「遠慮しなくていい。せめてものお詫びの気持ちなのだ。是非受け取ってほしい」

「だ、だったら、さ。もっと、安いものとか。あ、いや、金額じゃないけど……」

 しどろもどろになって何とか断ろうと、亜夢は必死になっていた。
 気持ちは嬉しいが、いくらなんでも他人の一之宮に、そこまでしてもらう義理はない。

 確かに、昔、一之宮が幾斗にしたことを思えば、いくら謝罪してもしきれない部分があるかもしれない。
 だが、それとこれとは別である。

 あのときのことは、幾斗が被害を受けただけで、亜夢には直接、関係ないのだから。
 その亜夢が、ウェディングドレスを買ってもらうなんて、道理に適っていない気がする。

「そ、それに。あたし、結婚式するつもりはないし」

 亜夢の言葉に、一之宮だけでなく幾斗も目を丸くした。

「何で?」

 驚いた表情のまま、幾斗は亜夢を見つめる。

「え? だ、だってさ、ほら。こんな身体で、バージンロードとか歩けないよ。神聖なレッドカーペットを、汚してるみたいで……」

 言って俯いた亜夢の頭に、大きな幾斗の手が乗った。

「馬鹿。そんな奴、ごまんといるぜ? 結婚前にヤってない奴がいたら、逆に天然記念物」

「でも、あたしには、無理なの」

 きゅ、と唇を噛み締めて。亜夢は、そう言った。

 妊娠していなかったら、それもアリだったかもしれない。
 でも、妊娠しているのに、バージンロードを歩くなんて。神に背いている気がして。何となく、気が引ける。

 幾斗の言うことも、最もだと思う。
 だが亜夢には、どうしても耐えられなくて。

「あむって、妙に頑固なところがあるよな」

「ごめん」

「悪いとは言ってない。そういうあむも好きだから」

 亜夢の頭に乗せた手で優しくそこを撫でながら、幾斗は微笑む。その光景を見ていた一之宮が、穏やかな表情で口を開いた。

「じゃあせめて、写真だけでも撮ったらどうだ?」

「写真?」

「記念に、なるだろう?」

「……」

 亜夢と幾斗は、顔を見合わせて。それから一之宮に、そうする、と言ったのだった。

◇ ◇ ◇


「結婚式を挙げない?」

 亜夢と幾斗の告白に、紡と緑は声を揃えた。

「二人で、決めたの」

 ちら、と幾斗を見て、亜夢ははっきりとそう言う。

「どうして? だって……」

「こんな身体でバージンロードとか、ありえないし」

 はは、と吐き捨てるように言って、亜夢は両親を見た。

「本当に、我儘ばっかりでごめんなさい。でも、これが最後の我儘です。許してください」

 そう頭を下げられたら、紡も緑も、それ以上何も言えなくて。わかった、と納得するしかなかった。

「明日、写真だけは撮ってこようと思って。お腹が目立つ前に」

「そう。あ、じゃあ、お金……」

「いいです。俺の義父が、結婚祝いに出してくれるそうなので」

 立ち上がり、お金を用意しようとした緑を幾斗が制す。それは、本当のことだった。



 ウェディングドレスの購入を断ると、一之宮は、財布から1枚のクレジットカードを取り出して幾斗に渡した。

「写真を撮るのなら、支払いはこれでするといい。食事をするなり、好きに使いなさい」

「ありがとう。――…親父」

 一之宮の好意を、幾斗は素直に受け取った。そうすることが、きっと一之宮にとって一番の孝行になるのだろう、と考えて。



「でも、申し訳ないわ」

 緑が眉を下げて、そう言った。すかさず、幾斗がそれをフォローするかのように口を開く。

「いいんです。義父の言う通りに、してあげたいので」

 きっと今、幾斗は一之宮のことを考えている。そう、亜夢は思ってしまった。

 一時は憎み合っていた二人だが。わだかまりがなくなれば、後は償いの気持ちしかなくて。ずっと、気に病んでいたのかもしれない。
 一之宮も、そして幾斗も。
 今回のことは、それを拭い去る、いい機会だったのかもしれない。

「あ、じゃあ、住む所は……」

「それも、義父が提供してくれるそうです」

 都内のマンションの1室を、一之宮は幾斗と亜夢のために購入してくれる、と約束した。それも、結婚祝いだ、と言って。
 だがさすがに、そこまで甘えるのは忍びなくて。結局、一之宮のマンションを借りるという形で、話がついた。

「本当に、何から何まで、申し訳ないわ」

「俺は、あむと一緒にいられれば、それでいいんです。他には、何もいりません」

「……イクト」

 幾斗の言葉に、目頭が熱くなる。

「何よりも大切なあむを連れていってしまうのに、これ以上、何も求めません。俺がほしいのは、彼女だけです」

 緑の瞳が潤んでいたのが、亜夢にもわかった。愛されているのだ、と実感する。

「あむを幸せにする、とは言いません。幸せになります、二人で」

 一方的な想いは、嫌だから。何をするのも二人でしよう。幸せになるのも、不幸になるのも。二人で一緒にいれば、幸せは2倍になる。二人で不幸を半分にすれば、きっと乗り越えられる。どんなに高い壁でも、登れない壁はない。

 テーブルの下で、そっと幾斗と亜夢の手が絡み合った。絶対に、離れない。そう、誓っているかのように。



「本当に、写真だけでよかったのか?」

 ウェディングドレスとタキシードに身を包んだ二人の記念写真を見つめている亜夢に、幾斗が問う。

「うん。十分、満足してる」

 大切そうに写真を抱き締めて、亜夢は幾斗を見た。

「ごめんね、我儘言って」

「あむの我儘は、今に始まったことじゃねぇし」

 亜夢の頭に手を乗せて、幾斗は目を細める。優しく見つめるその瞳に、吸い込まれそうな錯覚に陥ってしまった。

「悪阻は、平気か?」

 亜夢の腹部に手を当てて、幾斗が問う。うん、と幾斗の手に自分の手を重ねて、亜夢は答える。

「お腹が空いたときとかは、かなり気分悪くなるけど。今は大丈夫」

 自分のお腹の中に新しい生命が宿る、という感覚は、とても不思議なものだった。言い方は悪いけれど、異物が体内に存在するという違和感は、気持ちのいいものではなくて。悪阻は、その拒絶反応である、と誰かが言っていたのを思い出す。

「あむ」

 幾斗は、いつになく真剣な表情をして、亜夢の目の前に立った。

「愛してる」

 不意に降ってきた愛の告白に、亜夢の頬は一瞬にして真っ赤に染まる。

「生涯、俺のそばにいてほしい」

 まっすぐに亜夢を見つめるその瞳に、亜夢は言葉を失くす。戸惑う亜夢に、ふ、と幾斗の口元が緩んだ。

「悪い、急に。ずっと思ってはいたけど、ちゃんと言ったことはなかったから。どうしても、言いたくなった」

「そ、そう」

 声が、上擦る。変に意識してしまって、幾斗を直視できない。

「順番、めちゃくちゃだな」

 く、と幾斗が笑い出す。

「妊娠、入籍、写真、プロポーズ」

 指折り、幾斗は今までの経緯を口にする。本当だ、と亜夢も顔を綻ばせて笑みを見せた。

「でも、幸せだからいいよ」

 順番なんて、関係ないから。経緯はどうあれ、今二人が一緒にいられることが、何よりも大事なのだから。

 見つめ合って、どちらからともなく唇が触れた。プロポーズの答えを求める必要は、ない。亜夢が今ここにいることが、答えになっているのだから。

◇ ◇ ◇


「そう。君が学園を去ってしまうことは、とても残念だけれど。今、君はとても幸せなんだね」

 司の言葉に、亜夢は大きく頷いた。

「でも、休学じゃなくて、本当に退学でいいの?」

「はい。自分で、決めたんです」

 はっきりと言う亜夢に、司は笑顔を向ける。そうして立ち上がって亜夢に近寄ると、手を差し出した。

「これから、大変かもしれないけど。頑張ってね」

「はい。ありがとうございます」

 その手をしっかりと握り、亜夢は満面に笑みを浮かべた。



 誰もいない放課後の教室に、亜夢はいた。自席に座り、ぼんやりと校庭を眺めて。
 テーブルに一筋の水が落ちて、亜夢は自分が泣いていることに気付いた。

 ポケットからハンカチを取り出し、そっと涙を拭う。だが、拭った先から、涙はどんどん溢れ出し。
 止まらなくなって、亜夢はハンカチで顔を覆った。

「……っ」

 ひっそりとした教室に、亜夢の嗚咽だけが虚しく響いている。誰もいないのだから、声を出せばいいのだろうが。それをすることさえ、プライドが許さなくて。

 かたん、と物音に反応して顔を上げれば、そこにはかけがえのない友人たちと、愛しい男性の姿があった。

「ど、して……?」

 驚く亜夢を尻目に、皆は教室に入ってくる。そして友人たちが適当に座る中、唯世だけが教壇に上がった。幾斗は、教室の入り口のドアに凭れかかっている。

「卒業証書」

「――…」

 瞬間、亜夢の涙が乾いた。

「日奈森亜夢殿。あなたは、聖夜学園高等部を中途退学することとなりましたが、僕たちの友情の絆は永遠のものです。ここに、僕たちの今までと、そしてこれから先の厚い友情を胸に誓い、一足先に卒業してしまうあなたへの卒業証書として、これを贈ります」

 言って、笑顔で唯世はそれを亜夢に差し出した。
 立ち上がり、亜夢は一歩一歩、噛み締めながら壇上へ足を向ける。乾いたはずの涙が、また自然と頬を伝った。

「あり、がと……う」

 震える手で、手作りの卒業証書を受け取る。震える声でそう呟いてしまったら、もう止まらなくなって。

 亜夢は、その身を翻して、入り口に佇む幾斗に向かって走り出した。そうして、その胸の中に体当たりするように抱きつく。

「……っ」

 声を殺してなく亜夢を、幾斗は優しく抱き締めてくれた。背後からは、友人たちの拍手が聞こえてくる。

 楽しかった、学園生活。優しかった、友人たち。幸せな毎日を共有できたことを、亜夢はとても誇りに思うのだった。



「司さんが?」

 涙も止まり、ようやく落ち着いた亜夢に、唯世が微笑んだ。

「そう。皆で、あむちゃんの卒業式をしてあげたらどうかなって言われて」

「……」

 ちら、と亜夢は隣に佇む幾斗に視線を向ける。

「イクトも、呼ばれたの?」

 何も言わずに、幾斗は微笑んでいた。すると、唯世が亜夢の言葉を否定する。

「イクト兄さんは、僕が呼ぶ前から学園にいたんだよ。きっと、あむちゃんが気になって仕方なかったんだろうね」

「唯世。余計なことは言わなくていいから」

 幾斗が少しだけ頬を赤らめたのを、亜夢は見逃さなかった。大事にされているのが、直に伝わってくる。止まっていたはずの涙が、また溢れ出てきそうだった。

「ふぎゃぁぁぁっ」

 そのとき、心彩の泣き声が教室に響いて、歌唄は恥ずかしそうに亜夢を見た。

「邪魔しちゃったわね」

「ううん。ありがとう、歌唄。来てくれて」

 にこ、と微笑んで、歌唄と空海は立ち上がって心彩をあやし出した。
 いつか亜夢にも訪れるであろうその光景に、ふと、亜夢は腹部に手を当てた。

 人間の身体の神秘を、亜夢は感じていた。愛し合って、子供ができることも。そうして十月十日、母となるべく女性のお腹の中で、少しずつ成長していくことも。
 すべてが、不思議なのに。それを、自然と受け入れられる自分がいて。

 ぽん、と亜夢の頭に大きな手が乗る。考えなくても、それが誰のものかわかる。その手が触れていると、とても安心するから。

「……イクト」

 顔を上げて、亜夢は幾斗を見つめる。

「ありがとう。いつもそばにいてくれて」

「当然だろ」

 ふ、と微笑って、幾斗は亜夢の額に唇を落とした。

「今までよりも、すごくイクトを近くに感じるの。やっぱり、妊娠したから、かな。……恥ずかしいけど。イクトが、ずっと一緒にいるみたいな錯覚に陥る」

「いるさ、そばに」

 言って、幾斗は亜夢の手を握る。

「ずっと、あむのそばにいる。永遠に、あむだけを愛してる」

 結婚式の、誓いのキスのように。幾斗は、皆の目の前で亜夢の唇に触れた。目を閉じて、亜夢もそれを自然と受け入れる。きゃあ、というややの声も聞こえたが、気にならなかった。

 いつもなら、絶対に幾斗に文句を言っているところである。でもそうせずに、キスをすんなり受け入れられたのは。
 きっと、亜夢もそうしたかったから、なのだろう。
 誰が見ていても、見ていなくても。幾斗に、触れたかったのだ。幾斗の愛を、感じたかった。

 唇が離れ、こつん、と互いの額を合わせる。そうして改めて恥ずかしくなって、亜夢は吹き出した。

 額と額がぶつかって。手と手を取り合って。いつまでも、ずっと一緒にいられることの幸せを。
 亜夢は、より一層感じていた。