しゅごキャラ!/バブル(5)


「……本当に、ここに住むの?」

「不満?」

「いや、不満っていうか」

 一之宮が提供してくれた、これから亜夢と幾斗が二人で生活をすることになるマンション。
 今、亜夢は幾斗と共にそのマンションの前にいるのだが。亜夢が予想していたよりも、それはずっと大きくて。中を見なくても、きっと二人で住むには十分すぎるほど広いだろうことも想像できる。

「こんなとこ、本当に借りてもいいの?」

「専務さんは、くれるつもりみたいだけどな」

 ふ、と微笑んで、幾斗は亜夢の手を取る。そうして、マンションの中へ入っていった。

 亜夢の予想していた以上に、そこは広くて。今すぐにでも住めるよう、家具もすべて用意してあった。それも、一之宮がしてくれたことなのだとすぐに気付く。

「……やっぱ、悪いよ」

 一通り部屋を見渡した亜夢が幾斗を向こうとすると、不意に後ろから抱き締められた。

「何が、悪い?」

「だって。ここまでしてもらえないよ」

 申し訳なさそうに身を竦めた亜夢の首筋に、幾斗は顔を埋める。それがくすぐったくて、亜夢は身体を捩ろうとするが、幾斗の腕がそれを許してくれない。

「専務さんがそうしてやりたいって思うんなら、俺はそれに従いたい。それが、俺が専務さんにできる唯一のことだから」

「……」

 幾斗の言い分は、理解できなくもない。できなくもない、のだが。
 口ではすごくいいことを言っていると思うのに、幾斗の手は、違うことを考えている気がする。

「……何考えてるの、イクト?」

「ん? あむと同じこと」

 亜夢が離れようとすればするほど、幾斗の手は亜夢の服の中に侵入してくる。

「あ、あたしは何も……」

「本当に?」

 くす、と笑んで、幾斗は亜夢の耳朶を噛んだ。

「ぎゃあっ!!」

「色気のねぇ声だな」

「うっさい、エロ猫!」

 顔を真っ赤にしてそう怒鳴るも、幾斗の目には可愛くしか映らなくて。くっくっ、と声を殺して笑う幾斗が、亜夢には悔しくて堪らない。
 亜夢を放して、幾斗は、ぐるり、と室内を見回した。

「模様替えしたいな、と思ってたんだけど。専務さんて、センスないから」

「……は? もよう、がえ?」

「そ」

「……」

 まったく予想していなかったことを言われ、亜夢は、ぽかん、と口を開けてしまった。そんな亜夢の表情に、にやり、と幾斗が口端を上げる。

「あれ? もしかして、ナンか違うことでも考えてた?」

「!」

「あむのスケベ」

「ちっがーうっ!!」

 両手を挙げて亜夢が声を張り上げると、やれやれ、と言わんばかりの顔付きで、幾斗は、じゃあ、と言って再度亜夢を抱き締める。

「寝室に、行こうか……?」

 甘く囁かれると、どきん、としてしまう。これから先、幾斗と暮らして。亜夢の心臓は、早鐘を打つことばかりなのではないだろうか。

「い、行かないよ」

 鼓動が、口から聞こえてしまうのではないか、とハラハラしてしまう。

 いつだって余裕の幾斗の表情が、尚更鼓動を速める。
 何年もそばにいるのに、亜夢はときめいてばかりで。きっと、一生そうなのかもしれないな、と少し諦めも入っていた。

「でも、あむの身体は行きたがってるぜ?」

「あ……っ」

 幾斗の言う通り、身体は正直なもので。亜夢がどんなに反対しても、身体は幾斗を求めているから。

 結局、幾斗に流されてしまうのだろう。今までも、それてこれから先も、ずっと。

◇ ◇ ◇


「大きくなったな」

 亜夢の腹部を擦りながら、幾斗が呟いた。その幾斗の手に添えるように、亜夢は自分の手を重ねる。

「だって、もうすぐだもん」

「……そうだな」

 予定日までは、もう2ヶ月を切っていて。そろそろ、いつ産まれてもおかしくない時期に入る頃だった。

「名前、いつになったら教えてくれるの?」

「産まれたら。いくつか候補があるから、顔を見て決める」

「その候補も、教えてくれないの?」

 亜夢の言葉に、幾斗はただ微笑んだ。
 ちぇ、と唇を尖らせて、亜夢はテーブルの上に広げられた雑誌を手に取った。

 産まれてくる赤ん坊は、幾斗が名前を決めることにしていた。言い出したのは幾斗ではなく亜夢だったが、嬉しそうに幾斗はそれを引き受けてくれた。

「今日の夜、どこか食べに行こうか?」

 幾斗の申し出に、え、と亜夢は目を丸くする。

「二人で過ごすのも、あと少しだし。子供が産まれたら、あむだって今みたいにゆっくりとは過ごせなくなるだろ?」

「そう、かな。……そうだね」

 少しだけ考えてから、亜夢は大きく頷いた。

 大学に通いながら、幾斗のバイト代だけで生活をしていくのは、当然、楽ではなかった。本来ならば一之宮に支払わなければならない家賃を、今は滞納している。
 日奈森家からは、食材が色々提供されることが多かった。身重の亜夢を気遣って、幾斗がいない時に緑が亜夢の様子を見にやって来る。大量の、食材を買い込んで。

 そうして、幾斗と亜夢は生活していた。お互いの、家族に甘えて。いつか、大学を卒業して、きちんとお金を稼げるようになったときには、これまでの分も含めて、お礼をしよう。それは、亜夢も同じ考えで。
 子供がある程度大きくなったら、亜夢も働いて、早くにお金を返そうと思っていた。毎月の家賃と、定期的に支給される食材の額を、必ず手帳に書き込んで。そうして、いつか恩返しをしよう、と。そう、決めていた。

 亜夢が高校を辞めたとき、幾斗も大学を辞める覚悟はできていた。だが亜夢に、それを制されたのだ。あたしと結婚したことで、夢を諦めて欲しくないから、と言われて。
 そう言われてしまったら、幾斗も辞めるわけにはいかなくなってしまって。結局、未だに大学に通っている。

 そうして、卒業後。幾斗は、単身でパリへ旅立つことも決意していた。

 最初にその話を亜夢にしたときは、さすがに目を丸くして驚いていたけれど。幾斗の話に、ちゃんと耳を傾けてくれて。それから、ちゃんと理解してくれた。

 以前行われたコンクールで優勝した幾斗を、パリに在住している有名なバイオリニストが認めてくれて。
 卒業後、幾斗を個人的に指導したい、と言ってくれたのだ。
 バイオリニストを目指す幾斗にとって、それは願ってもない申し出であり。亜夢にとっては、不安材料でしかなかったのだが。

 誰よりも、幾斗がバイオリニストになることを願っていた。だからこそ、亜夢は涙一つ見せずに、おめでとう、と激励の言葉を述べてくれたのだった。

 毎日を楽しく過ごしている今の先には、亜夢と幾斗との別れがあり。それが永遠を意味するものではなかったとしても、やはり寂しい日々が待っているのは確実だった。

 そのことを、亜夢も幾斗も考えないように日々を過ごしていた。『今』を大切にしたくて。1分でも、1秒でも長く、笑い合っていたいから。

「転ぶなよ」

「じゃ、転ばないように、しっかりイクトが支えててね?」

 階段を、幾斗に支えられながら1歩ずつ、亜夢は確実に下りていく。腕を組んで、幾斗を見上げれば。そこにはやはり、幸せそうに微笑む幾斗の姿があって。一瞬だけでも、ツラい未来を忘れさせてくれるのだった。

◇ ◇ ◇


「……ん」

 明け方、亜夢は妙な違和感を覚えて、布団から身体を起こした。ちら、と隣で眠る幾斗に目をやって、トイレに向かう。

「いっつー……」

 腹痛に襲われた亜夢は、昨日食べたものを思い浮かべる。でも、同じものしか食べていない幾斗は平気なのに、亜夢だけが食中毒に罹る、ということがありうるだろうか。

「あ……。ちょっと治まった」

 ふぅ、と腹痛が止んで、亜夢はひとまず落ち着く。だがしばらくして、また腹痛が亜夢を襲った。
 そうして、定期的に来る痛みに、亜夢は、もしかして、と思う。

(これって、陣痛?)

 妊娠39週の亜夢にとっては、いつ陣痛が来てもおかしくない状態なわけで。
 時計を見ながら、間隔を測る。でも、もし病院に連絡して、ただの下痢だったら恥ずかしいことこの上ない。でも、いや、やっぱり。

「亜夢、どうかしたか?」

 頭の中でぐるぐる考えを巡らせていると、トイレのドアをノックする音が聞こえた。目が覚めて、隣に亜夢がいないことを心配した幾斗が様子を見に来たらしい。

「……お腹痛い」

 弱々しい亜夢の声が、ドア越しに返ってくる。

「陣痛か? あむ、鍵開けろ」

「だ、だめ。今、開けたくない」

 がちゃがちゃ、とドアを開けようとする音がトイレに響く。
 だが、ショーツを下ろしてトイレに座っている姿は、さすがに見られたくなくて。亜夢は、そう答えたのだが。

「そんなこと言ってる場合か? さっさと開けろっ」

 どん、と幾斗が強くドアを叩いたので、しぶしぶ亜夢は鍵を開けた。かちゃり、と鍵が開いたのを確認して、幾斗はドアを開ける。涙目で助けを懇願する亜夢に、すぐに近寄る。

「イクト、痛い」

「わかった、心配するな。すぐに病院に連れて行ってやるから」

 幾斗は亜夢の腕を自身の首に絡ませて、ゆっくりと亜夢を立たせる。そうして亜夢のショーツとズボンを穿かせて、抱き上げた。

「……イクト」

 不安そうに、亜夢は幾斗の服を掴む。

「大丈夫。ずっとそばにいるから」

 幾斗の言葉に、亜夢の腹痛が遠のく。だがすぐに、また腹痛に襲われてしまった。



 亜夢を連れて病院に到着したときには、陣痛は5分間隔になっていた。
 亜夢の話によると、前日の昼間からお腹の調子はよくなかったらしい。それが陣痛とは気付かずに、亜夢は平然としていたのだ。
 そのせいで、もっと早くに病院に来るべきだったのが、遅れてしまったのである。

 ふぅ、と荒々しく呼吸をしながら、亜夢は必死に陣痛に耐えていた。激しい痛みが、間隔を狭めて亜夢を襲う。頭元で亜夢の手を握っていた幾斗も、不安そうに亜夢を見守っていた。

「あむ」

 タオルで額の汗を拭きながら、声をかける。さっきまでは、返事をしていたのに、今はその余裕さえなさそうだ。きつく目を瞑って、はぁ、はぁ、と短い呼吸だけが聞こえる。

 幾斗は、周囲に看護士がいるのも気にせず、亜夢の目元に唇を寄せた。

「頑張れ」

 その言葉に、わずかに亜夢の目が開く。そうして乱れる呼吸をしながら、幾斗に笑みを見せた。頑張る。そう、言われている気がした。



 診察をするから、と病室を追い出されて廊下で待っていた幾斗は、落ち着かない様子で何度も時計と睨めっこをしていた。
 そうして30分ほど経ったとき。ほぎゃあ、と産声が聞こえた気がして、思わず病室に目を向けた。中の様子はわからない。でも、確かに幾斗の耳には我が子の声が届いた。

 病室のドアを見つめていると、す、とドアが開いて、幾斗は看護士に呼ばれた。

「おめでとうございます。お産まれになりましたよ」

 ほっと息を吐いて、促されるまま看護士の後について病室に足を運ぶ。横たわった亜夢の上に、小さく動く、産まれたのばかりの赤ん坊の姿があった。
 ゆっくりと歩み寄り、亜夢の視界に入る。

「イクト」

 満足そうに、亜夢は幾斗に笑みを見せる。そんな亜夢の額に口付けをして、ありがとう、と囁いた。それからじっくりと、亜夢の上に寝かされた赤ん坊に目をやる。髪は濡れて、顔にいっぱい皺を寄せて。力いっぱい泣く、その子を見て。思わず、涙が出そうになった。

「男の子、だったよ」

 はぁ、と呼吸を整えながら、亜夢が言う。

「名前、決めたの?」

「ああ」

 亜夢の耳元に口を近付け、亜夢だけに聞こえるようにそっと囁く。

かなでにしようと思ってる」

「綺麗な、名前だね」

 そう言いながら我が子の頭を撫でる亜夢の表情は、間違いなく母親のものだった。

 可愛い声を響かせて産まれてきてくれた愛しい我が子に、初めての贈りもの。まるで、音楽を奏でるように、産声を発して。そしてこれからも、幾斗と亜夢に挟まれて、可愛い声を奏でてくれるように、との願いを込めて。

◇ ◇ ◇


「ママ、しゃぼんだま、きれいねー」

 ふー、と奏の口から息を吹きかけると、その先からしゃぼん玉がふわふわと空に舞い上がっていく。そうね、と頷きながら、亜夢はしゃぼん玉の中で戯れる我が子を見守っていた。

 2歳を迎えた奏と二人、亜夢はよくしゃぼん玉をしていた。
 奏がしゃぼん玉を好きだというのも理由の一つであるが、何よりも亜夢がそれを見ているのが好きで。ふわふわと浮かぶしゃぼん玉を見ていると、心がとても落ち着いて。夫がいない寂しさを、紛らわせることができた。

 ポケットに忍ばせてある携帯を取り、着信を確認するのが日課になっていた。
 幾斗がパリに行って2年。毎日のように来ていた電話も、3ヶ月ほどで1週間に1度になり、そして1ヶ月に一度となり。前回連絡が来たのはいつだったか、と思い返せば、半年近く経っていることに気付いた。

「ママ、なかないで」

 足元の奏が、心配そうに亜夢を見上げている。
 いつの間にか頬を濡らしていた涙が、見上げる奏の顔に落ちた。屈んで、そっと愛しい我が子を抱き寄せる。

「ママ、いたいいたい?」

 母親を心配して、奏がそう言った。2歳児に心配かけるなんて、と涙を止めようとすればするほど、涙が止まらなくなって。

 ――会いたい。

 その想いが、どんどん強くなっていく。会えなくてつらい日々も、奏がいたから頑張れた。
 でも幾斗の面影を残す奏がいるからこそ、余計に寂しくもあって。奏の影が幾斗と重なる度に、会いたい気持ちが強くなる。
 抱き締める我が子が幾斗だったらどんなによかったか、と奏に対してひどいことを思わずにはいられなかった。



「おじちゃん、だぁれ?」

 亜夢の肩越しに、奏が呟く。涙を拭って振り返ろうとした亜夢を、温かな抱擁が包んだ。

「ただいま」

 耳元で響く声は、忘れたくても忘れられない声で。

「やっと暇をもらえたんだ。1週間くらいは日本にいられる」

 ゆっくりと身体を離されて、亜夢は幾斗を見つめた。
 少し、やつれた気がする。ハードな生活を送っているのだろう。

 じっと見つめる亜夢の目尻に口付けて、幾斗は言葉を続ける。

「あむが待っててくれてるってわかってても、やっぱりそばにいられないのはつらかった。あむがつらいときにはそばにいてやりたいし、俺がつらいときにはあむにそばにいてほしいって、すごく思った」

 亜夢は、幾斗の口から紡がれる言葉を待っていた。まだ、上手く頭が働かない。幾斗が目の前にいるのに、なかなかその現実を認められなくて。今目の前にいる幾斗が、しゃぼん玉のようにすぐ消えてしまうのではないかと思う自分がいた。

「一緒に、パリに行こう。向こうで一緒に暮らそう」

「――…うん」

 考えるよりも先に、返事をしていた。離れて暮らすより、慣れない土地で暮らす方がまだマシだ。言葉も通じない国でどうすればいいのかなんて、今は考えたくない。今はただ、目の前にいる幾斗の言葉を受け入れて。ただ、幾斗と一緒にいたい。その想いだけで返事をしていた。
 先行きの不安よりも、幾斗と一緒にいられる安心が、何よりも勝っていて。

「ママぁ」

 亜夢の身体にしがみつくようにして、泣きそうな表情をした奏がいた。幾斗は亜夢と互いに顔を見合わせあって、ぷ、と噴き出すと奏を軽々と抱き上げる。

「パパだよ、奏」

「……ぱぱ?」

 きょとん、とした表情の奏は、亜夢と幾斗を交互に見て。それから、きゅ、と幾斗の首に巻きついた。

 実物を目の当たりにしたのは、生後2ヶ月まで。それでも時折写真を見せていたためか、奏はすんなりと幾斗を受け入れた。
 あまり人懐っこくはないわりに、やはり血の繋がりがあるからなのか。もう少し、物怖じしてほしいものである。

「イクト」

 満面に笑みを浮かべて、奏を抱える幾斗を見た。ずっと心待ちにしていた台詞を、やっと言うことができる。そうしてこれからは、毎日交わすことになる台詞。

「お帰りなさい」

 奏の顔を胸に押しつけて、幾斗は亜夢に顔を近付ける。
 ただいま、の台詞とともに、唇に感じた温もり。2年ぶりのそれに、亜夢は酔いしれていた。


しゅごキャラ!/バブル■END