しゅごキャラ!/バブル(3)


「最近、あんまり食わねぇな」

 亜夢の注文で並べられたメニューは、シーザーサラダのみだった。

「う、ん。なんか、食欲ないんだよね」

 幾斗の言葉に頷きながら、亜夢はレタスを頬張る。幾斗の言う通り、最近の亜夢はまったくと言っていいほど、穀物類を摂らなくなっていた。食事に出かけても、頼むのはサラダばかり。調子がよくないのは少し前から亜夢自身、自覚していたのだが。

「――…っ。ちょっと、ごめん」

 不意に、急激な吐き気が亜夢を襲い、席を立った。一人になり、取り敢えず幾斗は自分が注文した物を食べる。
 箸を進めながら、もしかして、とありきたりな考えが幾斗の脳裏を過った。覚えがないわけではない。

 普段、必ず避妊をしていたが。たった一度だけ。亜夢が、子供がほしい、と願ったときに、避妊をしなかったことがある。
 できたとすれば、そのときだ。そう考えると、あれから生理が来ていないように思える。

 しばらくして、蒼い顔の亜夢が戻ってきた。

「あむ、出よう」

 立ち上がり、幾斗は亜夢の手を引く。

「え? でも、まだサラダ……」

「いいから」

 名残惜しそうにテーブルに取り残されたシーザーサラダを見つめながら、亜夢は幾斗に引っ張られるようにして店内をあとにした。



「これ」

「何?」

 亜夢を公園で待たせたまま、幾斗は薬局へ行った。そこで買ってきた物を、袋のまま亜夢に手渡す。

「妊娠検査薬」

「!?」

 何を今更、と言わんばかりに、幾斗は言葉を返す。亜夢は目を丸くして、幾斗を見つめた。

「な、何で!?」

「あむも、わかってるんだろ?」

「……」

 真顔で、幾斗はそう言う。幾斗を見つめたまま、亜夢は言葉を失くしてしまった。

 確かに、ここ最近の身体の調子はいつもと違っていた。ずっと熱っぽくて、気怠くて。それでいてときどき、酸っぱい物が欲しくなる衝動に駆られることもあった。
 それが悪阻だと思えば、そうかもしれない。それに、その可能性は、ゼロではないのだから。

「ここで待ってるから。行って来いよ」

 近くの公衆トイレを指して、幾斗は亜夢に微笑みかけた。

「で、でも」

「はっきりさせた方がいいだろ? それとも、俺の家に来る?」

「え?」

「検査、手伝ってやろうか?」

「ば、馬鹿っ」

 幾斗の言葉に、亜夢の顔が一瞬で赤く染まる。検査を手伝う、ということは、一緒にトイレに入って、ということだろうか。
 そんなことは、絶対にさせられない。

「……一人で、行ってくる」

「待ってるから」

 不安そうな表情で立ち上がった亜夢の頭に手を置いて、幾斗は撫でた。幾斗に頭を撫でられていると、ほっとする。等身大の安心感が、亜夢を包み込むのだ。

 幾斗から手渡された紙袋を鞄の中に入れて、亜夢はトイレに向かった。



 妊娠検査薬が入った袋を抱えたまま、亜夢はトイレの個室の中で固まっていた。

 亜夢も、妊娠の可能性を考えていなかったわけではない。そういう可能性は十分にあるということは、亜夢にもわかっていた。
 でもまさか、たった1回で着床するなんて。夢にも、思わなかった。
 どれだけ相性がいいんだよ、と亜夢はため息を漏らす。

 確かに、あの夜は。子供が欲しい、と願った。その願いを、幾斗は叶えてくれた。
 いつだって、幾斗は亜夢が欲しいものを亜夢に捧げてくれる。いつだって、どんなときだって、何だって。

 でもそれが。

「はぁ」

 まさか、こんなことまで叶えてくれるなんて。

 幾斗は、悪くない。幾斗はただ、亜夢の願いを聞き届けてくれただけなのだ。
 子供が欲しい、なんて願わなければよかった。そうすれば今まで通り、ちゃんと避妊をしていたのに。

「もう、あたしの馬鹿!」

 思って、その考えを打ち消すように、亜夢は首を左右に振った。
 そんなことを今更考えても仕方がない。まだ、本当にできているかもわからないのだから。

 でも、もし本当にできていたら。
 亜夢は、学校を辞めなければならないのだろうか。それとも、休学で済むだろうか。

 ふ、と口元に笑みが溢れてしまった。まだ、ちゃんと決まったわけでもないのに。

「……よし」

 腹を括って深呼吸をし、亜夢は勢いよく紙袋から妊娠検査薬を取り出した。



 公衆トイレから出てきた亜夢に気付いて、幾斗は亜夢に駆け寄った。

「どうだった?」

 俯いていた顔を少し上げて、亜夢ははにかんだような笑みを見せる。この表情は。もしかして、もしかすると。

「当たり?」

「……」

 少しだけ頬を赤らめて、亜夢は、こくん、と頷いた。
 幾斗は一体、どういう反応をするだろう。さすがに、堕ろせとは言わないと思うが。

 パッケージから中身を取り出して、亜夢は説明書と睨めっこをしていた。そうして、書いてある通りにキャップを外し、検査を始める。
 約2秒で、くっきりと小窓に記された赤い直線。それが、妊娠のサインだった。

 妊娠が判明したことは、やっぱりか、という思いもあって、さほど驚きはしなかった。
 それよりも驚いたのは、妊娠検査薬の表示の速さだった。たったこれだけで、本当に妊娠がわかってしまうのが……怖い。

「――…」

 ふわ、と優しく、亜夢の身体は幾斗に包まれた。

「イクト?」

 何も言わずに、幾斗はただ黙って亜夢を抱き締めている。心地がいいので、亜夢はそのまま幾斗に身体を預けていた。

(どうして、何も言わないの?)

 亜夢は思い、瞳をきつく閉じる。その思いが聞こえたかのように、幾斗は口を開いた。

「正直な気持ちを、言ってもいいか?」

 幾斗の腕の中で、亜夢は首を縦に振る。

「すっげー嬉しい。マジで、感動してる」

 言って、幾斗は亜夢を抱き締める手に力を込めた。その言葉だけで、亜夢は涙が出そうになって眉根を寄せた。
 ただ、と幾斗は言葉を続けて、亜夢の肩に手を置いた。そしてゆっくりと亜夢を離し、瞳を見つめる。

「あむのことを考えると、素直に喜べない」

 言いながら、幾斗は切なそうに俯く。

「あたしがまだ、高校生だから?」

 亜夢の言葉に、幾斗は素直に頷いた。亜夢の頬に、一筋の涙が伝う。
 亜夢はまだ高校生で、学業に勤しまなければならないわけで。子育てをしている暇はないのだ。

 それに、亜夢の将来を潰すことにも繋がる。亜夢の未来への蕾を、もぎ取ってしまいたくない。

「でも」

 まっすぐに幾斗を見据えて、亜夢は口を開いた。

「あたしは産むよ。イクトとあたしの赤ちゃんを。せっかくできたイクトとあたしの愛の結晶を、自分の手で壊してしまいたくないから」

 迷いのない瞳で、亜夢はそう言い切った。
 新しい生命を自らの意思で絶ってしまうことは、亜夢にはできない。たとえ、幾斗と別れる結果になってしまっても。

「喜べないとは言ったけど、堕ろせとは言ってないぜ」

 幾斗はもう一度、亜夢を引き寄せた。

「いい響きだな。愛の結晶って」

 幸せそうに微笑みながら、幾斗は亜夢を抱き寄せた。

「こ、言葉の綾だし!」

 顔を真っ赤に染め上げて弁解するが、幾斗には届かない。満足そうな幾斗の表情を見て、悔しそうに頬を膨らませながら亜夢は顔を背けた。

「頑張ってみるか?」

 亜夢の頭上から、言葉が降ってくる。
 亜夢が産むと決めているのなら、幾斗にそれを止める理由はない。幾斗にできることは、共に歩んでいくことだけなのだから。

「いいの?」

 幾斗を見上げ、亜夢は尋ねる。

「俺たちの愛の結晶だろ? 二人で守ろうぜ」

 見上げた亜夢の唇に、幾斗はそっとキスを落とした。

「まぁ、何にせよ。第一関門は、あむのパパだな」

 抱き締める手を緩めて、幾斗は呟いた。

「手強いよ」

 亜夢は、幾斗の言葉に笑みを漏らす。

「でも、二人なら大丈夫だよ」

 微笑みながらそう言った亜夢の頬に手を添えて、そうだな、と呟きながら、幾斗は再度、唇を重ねた。
 二人一緒なら。何があっても、怖くない。きっと、どんな難関も越えて行ける。
 一人じゃないから。

◇ ◇ ◇


「これ、わかる?」

 そう言って、医師が超音波写真に人差し指を向けた。

「今、ちょうど苺くらいの大きさですよ」

「……」

 不思議な感覚、だった。
 亜夢は、そっと自分の腹部に手を当てた。ここに、新しい生命が宿っているなんて。何とも言い難い、嬉しい違和感。

 1枚の超音波写真を手に取って、亜夢は診察室をあとにした。

 待合室には、腕を組んで目を瞑っている幾斗がいた。ほっと、亜夢は安堵の息を吐く。
 その隣に、ちょこん、と座れば、幾斗はすぐに目を開けた。

「いたよ、やっぱり。3ヶ月、だって」

「そっか」

 幾斗の大きな手が、亜夢の頭を撫でる。まだまだ問題は山積みだけれど。それでも今は、すごく幸せだった。
 愛する人の、子供を宿して。そして隣に、愛する人がいて。これ以上の幸せはないんじゃないか、と思うほど。

「今週末、あむの家に行くよ」

 幾斗の言葉に、亜夢は急に現実に引き戻されてしまった。
 両親への、報告。
 わかってはいたけれど、なるべく考えないようにしていた。

 母・緑は幾斗との交際を快く見守ってくれているが、父・紡は。亜夢を溺愛しているため、あまり認めてはくれていない。
 それなのに、今、高校生という肩書きの中での妊娠を。素直に、喜んでくれるはずはない。

 そんな亜夢の不安を掻き消すように、幾斗がそっと手を握ってきた。大丈夫。そう、言われている気がした。

◇ ◇ ◇


「絶対に、だめっ!!」

 頭ごなしに、紡は幾斗に言葉を発した。

「パパ、少しはイクトくんの話も……」

「聞きません!!」

 緑の話も聞かず、紡は家を飛び出した。紡の気持ちも、わからなくはないが。
 ふぅ、と息を吐いて、幾斗は俯いた。

「ごめんね、イクトくん。パパには、今度ちゃんと話しておくから」

「いえ。また説得に来ます」

 緑が申し訳なさそうにそう言うと、幾斗は切なそうに答えた。

「あむちゃん。病院にはちゃんと行ったの?」

 不意に緑に聞かれ、亜夢は、うん、と考える。

「この前、イクトと行ってきた」

「そう。悪阻はひどいの?」

「うん。たぶん」

 恥ずかしそうに俯いて、亜夢はそう言った。

 今日幾斗が亜夢の家に来たのは、結婚と出産の許しをもらうためである。
 当然のことながら、紡は猛反対。幾斗の話を聞く気は、毛頭ない。

 はぁ、と深く、幾斗はため息を吐く。そんな幾斗を見て、緑が切なそうに口を開いた。

「じゃあ早いとこ、籍入れなきゃね」

「え?」

 緑の言葉に、幾斗と亜夢は驚き目を丸くする。

「産むって決めてるんでしょう? だったら、ちゃんと籍を入れて夫婦にならなきゃ。私生児で産むのは、可哀想だもの」

「ママ」

「……けど」

 嬉しさのあまり、亜夢に笑みが溢れる。そんな亜夢とは裏腹に、幾斗は暗い表情をして言った。

「お義父さん、は?」

「大丈夫」

 幾斗の不安に、緑は笑顔で答える。

「パパだって、ちゃんとわかってるわ。あまりにも急な話だったから、気持ちが追いついていけないだけよ」

「でも」

「それに」

 言いかけた幾斗の言葉を遮るように、緑は口を開く。

「今は、そっとしてあげてほしいの」

 申し訳なさそうに、緑は言った。
 傷心の紡に幾斗が会うことは逆効果だろう、という緑の判断である。

◇ ◇ ◇


「見つけた」

「ママ」

 公園のブランコで、一人揺れている紡の姿を発見し、緑は声をかけた。

「イクトくん、帰ったわよ」

「そう」

 はぁ、と紡は深くため息を吐く。

「わかって、るんだけどね」

 声を落として、紡は口を開く。

「まだまだ子供だと思っていたんだけどな。そう思っていたのは、僕だけだったみたいだね」

「子供よ、いつまでも。あたしとあなたの子供には違いないわ」

「……ママ」

 緑の言葉に、紡は嬉しそうに微笑む。そうして緑の手を取って、恥ずかしそうに言った。

「3人目が、欲しいなぁ」

「えぇ?」

 紡の言葉に、緑は赤くなる。だがまっすぐに緑を見つめるその瞳を、拒むことはできなくて。

「今夜は、特別ね」

「緑さん」

 嬉しそうに、紡は緑を抱き寄せたのだった。

 紡が、緑を選んだように。亜夢も、幾斗を選んだのだから。
 祝福してあげるべきなのだ、と紡は自分に言い聞かせていた。

◇ ◇ ◇


「母さん」

 母・奏子の前に立って、幾斗は真剣な瞳を向けた。

「俺、結婚しようと思うんだ」

 幾斗の言葉に、奏子の表情がぱぁっと明るくなる。

「は、初めまして。日奈森亜夢です」

 亜夢が、幾斗の隣からひょっこり姿を現して、軽く頭を下げた。

「で、先に言っとくけど。あむ、妊娠してるんだ」

「あら」

 まぁ、と目を丸くして、奏子は亜夢を見つめる。俯いて、すみません、と亜夢は身を縮ませた。

「どうして謝るの?」

「え?」

 輝かしい瞳で、奏子は亜夢を見ている。

「イクトさんのことが、好きで作った子供よね? 謝ることなの?」

「……」

 不思議な人だ、と。感じてしまった。穏やかで、独特の雰囲気を持った女性だな、と思う。

「或人さんも、きっと同じ気持ちだと思うわ」

「父さんも?」

「ええ」

 にっこりと、奏子は微笑んだ。

「せっかくだから、一之宮さんにも報告してあげて? きっと、喜ぶと思うわ」

「専務さんに?」

 幾斗の言葉に、奏子は頷く。

「ずっと、気にしていたみたいだから、イクトさんのこと。幸せだよって、言ってあげてほしいの」

 頷いて、わかった、と告げると、奏子は嬉しそうに微笑んだのだった。



「はー、緊張した」

 月詠家を出ると、すぐに亜夢がほっとしたように呟いた。そんな亜夢に、幾斗は口元を綻ばせる。

「ごめんね。パパのこと」

「気にするな」

 言って、幾斗は大きな手を亜夢の頭に乗せる。

 幾斗の両親とは対照的な両親を、亜夢は申し訳なく思っていた。それだけ、亜夢が両親に大事にされているということなのだが。

「嫌に、なった?」

「まさか」

 不安になって、亜夢は恐る恐るそう聞いた。幾斗が面倒そうな表情をしていたので。もしかしたら、嫌になってしまったのでは、という不安が胸が過ったのだ。
 だが亜夢の不安をよそに、幾斗は微笑んで亜夢を引き寄せた。

「あむ絡みで嫌なことなんか、一つもねぇよ」

「……」

 幾斗の言葉に、亜夢は目頭が熱くなる。深く愛されているのだ、と改めて実感する。

「あれ? もしかして、感動した?」

「す、するか、馬鹿っ」

 それを見透かされたように言われてしまい、亜夢はまた意地を張ってそう言い返す。
 だが意地を張っていることさえも見透かして、幾斗は肩を震わせて笑った。

「と、とにかく。パパには、あたしからも言ってみるから」

 幾斗の手を払いのけて、亜夢は強気でそう言う。

「一人で、頑張ろうとするなよ?」

「え?」

「もう、二人で一人……だろ?」

「――…」

 言葉を失くした亜夢の唇を、幾斗が塞いだ。

「一緒に、頑張ろうな」

「……うん」

 目尻に涙を浮かべた亜夢に、幾斗はもう一度、キスを贈った。