しゅごキャラ!/バブル(1)


「妊娠!?」

 歌唄の言葉にビックリして、亜夢は思わず大きな声を出してしまった。大事な話がある、と言って呼び出され、亜夢は月詠家へ来ていたのだが。

「たぶん、ね。3ヶ月以上、来てないし。検査薬でも、しっかり反応が出たから」

 スライスされたレモンを酸っぱそうに口に含みながら、歌唄は軽くそう言った。

「今までできなかったのが、不思議なくらいよ。空海、ちっとも避妊しないから。イクトは、ちゃんとしてるんだろうけど」

 ちら、と横目で亜夢を見る。

「え、えーっと……。ど、どう、かな……。たぶん、してると……、って、あたしたちのことはいいじゃん、別にっ」

 真っ赤になって、亜夢は怒鳴る。つられて、思わず答えてしまった。

「と、とにかく、病院に行った方がいいよ。取り越し苦労ってこともあるし。あたし、付き合おうか?」

「……大丈夫よ。一人で行くわ」

 ふぅ、と息を吐きながら、歌唄は亜夢の申し出を断って頷いた。

◇ ◇ ◇


「13週目に入ってますね。妊娠、4ヶ月ですよ」

「……よん、かげつ」

 医師の言葉に、歌唄は深く息を吐く。覚悟はしていたが、やっぱりか、と眩暈がしそうになる。

「まだ、悩んでるみたいだけど?」

 歌唄の顔色を伺いながら、医師がそう尋ねた。

「……」

「中絶するなら、早い方がいいわ。相手の男性とよく話し合ってから、決めてね」

 後悔しないように。医師の言葉にも上の空で、歌唄は頭の中でぐるぐる考えを廻らせていた。空海を、思い浮かべながら。

 19歳の歌唄と、17歳の空海。恋人としては成り立っていても、夫婦としては成り立たない。
 今出産したとしても、子供は私生児として産まれてしまう。実父の失踪から、実母と義父の間で育った歌唄としては、やはり片親で産むのは、子供が可哀想な気がする。

 そっと腹部に手を当て、歌唄は超音波写真を見つめた。

(――…産みたい)

 たとえ、誰からも望まれていなくても。歌唄だけは、ずっと愛していくから。
 初めて、兄・幾斗よりも好きになった、空海との子供を。空海との繋がりを、壊してしまいたくはないから。
 せっかく、歌唄に舞い降りてきた天使を、自分の手で殺してしまいたくはないから。

 でも、まだ学生である空海の未来までもを壊す勇気は、歌唄にはない。言うべきか、言わざるべきか。

 歌唄には、答えが見つからなかった。

◇ ◇ ◇


 激しい情事のあと。歌唄は空海の腕の中で、ずっと悩んでいた問題に答えを出した。
 きっと、空海にとっても自分にとっても、それが一番いい選択だと思って。そうすることが、空海のためにもなる。

「……空海」

 ぼそ、と歌唄が呟けば、ぴく、と空海の眉が動いて、徐に目が開いた。優しく、歌唄に微笑みかける。
 その笑顔を見ていたら、胸が締めつけられそうになって。出した答えを、変えてしまいたくなったけれど。

「話が、あるの」

 ゆっくりと身体を起こし、歌唄は深呼吸をした。
 心臓が、口からが飛び出しそうなほど波打っている。ごく、と唾を飲む音が、ひどく自身に響く。

「――…別れてほしいの」

 歌唄の言葉を、一瞬疑った。何を言われたのか、瞬時に納得できない。勢いよく身体を起こして、空海は歌唄の肩を掴んだ。

「どういう意味だ?」

「言ったとおりよ。別れたいの」

 空海の目を見ずに、歌唄は言う。いきなりそんなことを一方的に言われても、空海が納得できるはずがない。

 まだ17歳である空海に、父親になれというのは酷な話で。
 だからといって、せっかく授かった子供を中絶したくはない。二人の将来を考えると、別れることが最善なのだ。

 ベッドから降りて、歌唄は自分の服を拾い始める。袖を通しながら、服の擦れる音がする。それが、泣き声のように聞こえて。袖を通す度、その音が歌唄に突き刺さった。

 歌唄は、空海に目をやった。大好きで。本当に大好きで。ずっとそばにいてほしいと願い、また、いてくれると誓ってくれた。

 最愛の空海を手放すことは、歌唄にとっても苦肉の策だったのだ。

「……さようなら、空海」

 そっと、歌唄の頬を涙が伝った。

「!?」

 ノブに手をかけ、ドアを開こうとした瞬間。歌唄の身体は、強い力に引っ張られた。手に持っていたバッグが落ちて、中身が地面に散らばる。だがそんなことはお構いなしに、空海は歌唄の唇を貪った。

「く、ぅか……、……っ!!」

 わずかにできた唇の隙間から声を発するが、空海の荒い口づけによって、それさえも塞がれる。できることなら、この胸の中に一生いたかった。でも、それはできない。

 わかっているから、別れを決心したのに。なのに、拒否しようとする腕に、力が入らなかった。
 頭ではわかっているのに、身体は正直なもので。行為を続けていたい、と身体中が言っている。身体全体が、空海を欲しているのだ。

 歌唄の力が完全に抜けたのを見計らって、空海は唇を放した。空海も歌唄も、わずかに息が乱れている。
 歌唄の潤んだ瞳に、空海が映った。少なくとも、歌唄の身体は空海を嫌がってはいない。別れて欲しいと言ったのは、きっと何か事情があったのだ、と空海は悟った。それが何なのかは、まだわからないけれど。

 ふと、空海は視線を床へ落とす。歌唄の鞄の中身が散らばっている。その中に見たことのないカードを発見して、空海は目を凝らした。あきの産婦人科、と書いてあるのがわかる。どうやら、病院の診察券らしい。
 歌唄の別れのきっかけは、きっとこれだろう。もっともらしい理由が見つかって、空海はほっとする。それと同時に、笑みが溢れる。

「空海?」

 不意に笑んだ空海を、訝しげに歌唄が見つめる。そんな歌唄を、空海はきつく抱き締めた。

「言えばいいのに。できたならできたって」

「!?」

 空海の言葉に、歌唄は驚きを隠せない。

「ど、どうして……!?」

「そこ。診察券、落ちてる」

 床に散らばった荷物の中に落ちていた診察券に目線を落として、空海は言った。なんて間抜けな、と歌唄は恥ずかしくなる。

「来年になれば結婚できるから。それまでは私生児扱いだけど、一緒に頑張ろうぜ」

「え?」

 空海の言葉に、歌唄の目から涙が溢れ出す。一緒に頑張ろう、と言われたことが嬉しくて。堕ろせ、と言われなかったことが、本当に嬉しくて。歌唄の妊娠は、今の空海にとって足枷にしかならないのに。

 今更ながら、空海が相手でよかった、と心底思う。

「いっぱい悩ませて、ごめんな」

「ううん、あたしこそ。ひどいこと言って、ごめんなさい」
 目が合って、お互いに思わず噴き出してしまった。そしてどちらからともなく、唇を重ねた。

◇ ◇ ◇


「く、空海……?」

 大事な話がある、と亜夢はまた歌唄に呼び出され、月詠家へ足を運んでいたのが。そこで亜夢を待っていたのは、幾斗と歌唄、そして。

「どうしたの、その顔?」

 見るも無惨な、空海の姿であった。

「ちょっとな。親父と兄貴たちに殴られた」

 はは、と空海は笑ってみせるが。あまりにも痛々しい空海の顔に、亜夢は言葉が出ない。

 ――結婚したい女がいる。

 そう、空海は両親と兄たちの前で言った。

「へぇ」

「空海も、恋愛する年齢になったか」

「そいつぁよかった」

「くれぐれも、避妊だけはしろよ」

 海童、秀水、雲海、れんとは代わる代わるそう言うが。

「あ、いや……。実は、もうできてたりして」

 頭を掻きながら空海がそう言うと、何が、とれんとが聞き返す。

「だから、子供」

 言った瞬間、空海の身体が宙に浮いた。

「てめぇ、他人さまのお嬢さんに何てことしやがる!?」

 拳を握り、海童は空海を睨みつけた。殴られた頬を押さえながら身体を起こすと、また新しい衝撃が空海を襲う。

「お前、自分がまだ未成年のクソガキだって、わかってねぇの?」

 秀水が、宥めるように言った。そうして、雲海、れんと、父親からも同様に殴られたのである。

「でも兄貴たち、俺が歌唄を家に連れて行ったら、手のひら返したようにちやほやし始めたんだぜ」

 歌唄に対する可愛がり方は、異常だと思うほど。よくやった、と空海は雲海に頭を撫でられたのだった。

「それは……歌唄が、アイドルだから?」

「たぶんな。意外と単純なんだよ、俺の家族」

 兄たちの豹変振りは、それだけが理由ではないが。

 やはり、男として、女性と付き合うからにはマナーがある。それを守れなかった弟を叱るのは、当然だ。
 だが弟がちゃんと相手を決めて、相手の女性も弟を慕っているのなら、それは祝福するしかない。たとえ相手が、歌唄でなくても。

「で、大事な話って何なの?」

 思い出したように、亜夢は切り出した。

「ああ、実はな。俺たち、結婚しようと思って」

「結婚!?」

 毎度のことながら、本当に歌唄には驚かされっ放しの亜夢である。

「今はまだ無理だけど。来年、籍を入れるから」

 幸せそうに、歌唄は語る。

「よかったね、歌唄」

「ええ。ありがとう、亜夢」

 微笑む歌唄の表情を見ていたら、亜夢まで幸せを分けてもらったように嬉しくなってきた。今が、一番幸せな時期なんだろうと思う。

「子供かぁ」

 しみじみと、亜夢は歌唄のお腹を見ながら呟いた。まだまだ先の話だが、羨ましく思う。

「ほしいなら、手伝うぜ?」

「ま、まだいらないしっ」

 幾斗に囁かれ、亜夢は顔を真っ赤にしてそう言った。

「まだ、ね」

 ニヤニヤと、幾斗はほくそ笑む。しまった、と思ったが、あとの祭りだった。満足気な幾斗の表情に、腹が立つ。

「俺も、まだ実感が沸かないんだよな」

 歌唄の腹部に視線を落として、空海が呟いた。

「あたしもよ。悪阻がないから、妊娠してるっていっても、何か変な感じ」

 そう言って二人は見つめ合い、微笑んだ。

「俺が18になるまでは、俺の家で一緒に暮らそうと思ってる。で、誕生日が来たら籍を入れて、二人で暮らすんだ」

 膝の上に置かれた歌唄の手を握り、空海はそう言った。二人で、どうすれば幸せになれるのか。考えた末の結論だろうということが、言われなくてもわかる。



 歌唄はその後、9ヶ月に入るまで芸能活動を続けていた。
 大きなお腹で最後のステージを飾る歌唄は、今までで一番、きれいだった。

「お疲れー」

 かちん、のグラスの当たる音をさせて、全員一斉にグラスに口をつけた。

「とうとう、引退……か」

 寂しそうに、歌唄のマネージャーであるゆかりが呟く。

「まぁ、おめでたい席なんだし。そんな表情するなよ」

 そのゆかりの肩を抱いて、悠がそう言った。

「そうね」

 穏やかな表情をして、ゆかりが歌唄を見据える。いつまでも子供だと思っていたのに、いつの間にか、しっかり大人になっていたんだな、としみじみ思う。

「ねぇねぇ、歌唄ちゃん。赤ちゃんてぇ、男の子? 女の子?」

 ややが愛くるしい表情を覗かせて、歌唄にそう問う。

「女の子よ」

「そうなんだぁ? 歌唄ちゃんに似てるといいね♪」

「どういう意味だよ、そりゃ?」

 ややの言葉に、空海が反応する。

「女の子なんだから、体力馬鹿じゃ困るものね」

「おしとやかで」

「清楚で」

「意地っ張りじゃなければサイコー」

 りま、なぎひこ、唯世はややと声を揃えてそう笑った。

「ったく」

 呆れたように頭を掻く空海だが、実際、空海自身も自分に似るよりは歌唄に似て欲しい、と思っているので、特に反論はなかった。
 やっぱり、自分の分身を見るよりは、愛する歌唄を見ていたいから。

 そのとき。

 歌唄が手に持っていたグラスが床に落ち、がしゃん、とガラスが割れる独特の音をさせて粉々に砕け散った。

「……っ」

「歌唄!?」

 下腹部を押さえて、その場に歌唄はうずくまる。空海が肩を抱いて声をかけるが、呻き声しか聞こえない。

「どうした、歌唄!?」

 額には、嫌な脂汗が浮かんでいる。

「とにかく、救急車だ。急いで連絡しないと……!」

 悠の声で、空海は慌てて携帯を握った。

◇ ◇ ◇


「切迫早産?」

 聞き慣れない医師の言葉に、空海は首を傾げる。

「早産しかかっている、と言えばわかりやすいでしょうか。しばらく、安静にさせてあげてください」

「……」

 淡々と言葉を並べる医師に、空海は唖然としていた。妊婦の6〜7人には、こういった症状が出ることがあるので、特に気に病むことはない、と付け加えられたのだが。

 そうは言われても、やはり自分の妻となるべき人物が早産しかかっていると言われたら、気に病まないわけがない。

「空海」

 病室に姿を現した空海を見て、嬉しそうに歌唄が名前を呼んだ。

「1週間くらい安静にしてれば、よくなるって」

 歌唄に余計な心配をかけないよう、空海は至って明るく笑顔を見せた。徐に歌唄が横たわるベッドに歩み寄り、傍らに置いてある椅子に腰かける。

「もう少しだからな。頑張ろうぜ」

「……空海」

 大きな歌唄の腹部に手を添えて、空海は歌唄を見つめた。心が、安らげる。空海がそばにいると、温かい気持ちになる。

 妊娠をきっかけに失うものは、確かにあったけれど。それ以上に、そばにいるだけで生きている幸せを感じられるのは、生涯寄り添っていく上で一番大切なことかもしれない。