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7. 狼の自覚(最終話)
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「あれだけ言ったのに」
「だから、悪かったって。止められなかったんだよ」
「猿じゃないんだから、少しは自重しろよ」
「わかってるっつーの」
「わかってないから、何度も手出したりしたんだろ」
朝から、もう何度目の会話になるだろう。駿介はうんざりしながら、頭を掻いた。
「ところで、おまえも休むだろ?」
「なんで?」
話題を変えるように言われたが、駿介はきょとんと目を丸くする。当然、今日は出社して、あのふたりを断罪する気満々だった。
「なんでって。目が覚めて、賀永さんひとりじゃ心細いだろ」
「あー」
駿介は、ちらりと自室のドアに視線を向ける。自分のベッドでは、よほど現実逃避したいのか、いまだに眠ったままの千真がいて、夜の間にここに連れてきたことの説明さえまだできていない。
そんな千真をひとり置いて出社すれば、当然、千真が混乱するのは目に見えている。
「俺が残ってもいいけど?」
「ふざけんな。いい、わかった。俺も休むけど、骨の髄まで再起不能にしてこいよ」
「無茶言うなって」
旭は呆れたように頷いて、千真の傷を思い出す。
月明かりだったし、はっきり見えたかと言えばそうでもない。駿介が大事そうに抱えていたし、旭には見えないよう、隠していたふうでもあった。
駿介がキスマークを堂々と見せつけるようにつけていたのとはわけが違う。あえて隠れるところに、爪を立てて痕を残していた。
前の日に見た腕も相当なものだったが、腹は、それ以上。痕が残らないよう、きれいに完治するのは難しいかもしれない。
「一応、怪我人だってことを忘れないように。俺がいない間は、好きなだけイチャつけばいいけど、マジで夜は勘弁して」
「だから、それは俺だけが悪いんじゃねーって。あいつがふにゃふにゃしてるのが悪い」
「知らないよ、そんなの」
そんな部下の性事情なんて、聞きたくない。
ふにゃふにゃしている千真を想像できないかと言えばそうでもないので、なおさら、聞きたくなかった。
「そういえば、駿介、いつから賀永さんのこと好きだったの?」
「あ? 別に、好きじゃねーよ」
「はあ?」
照れ隠しかなんか知らないが、さすがに千真が哀れに思える。
あれだけ手を出しておいて、好きじゃないとか、ありえなくないだろうか。
おまえ、と文句を言おうとして、ガチャ、という物音に視線を移せば、驚いたように目を丸くした千真が、駿介の部屋の入口に立っていた。
「おはようございます、旭さん」
「……」
にっこりと旭に向けてあいさつをする千真は、駿介には一瞥もくれなかった。
◇ ◇ ◇
「おい、飯は?」
「……」
千真は、つーん、と目を逸らしたまま、駿介のほうを見ない。
旭から粗方の事情を聞かされた千真は、旭の出社後、家に戻ろうとしたのだが、当然、駿介がそれをさせるはずもない。いまだ、千真は駿介と旭の住むマンションに囚われたままになっていた。
「おい」
駿介は苛立ちを隠そうともせず、大股で千真に近づくと、ダイニングチェアに座った千真の顎を持って上を向かせる。
「聞いてることに答えろ。なにか食うか?」
「いりません。放っておいてもらえませんか?」
「ちっ」
苦虫を噛み潰したように顔を歪め、駿介は、勝手にしろ、と言い捨てると、部屋にこもってしまった。
だって、千真の心情くらい、察してほしい。昨夜の記憶がおぼろげながらある状態で、どんな顔をして駿介に会えばいいのだろう、とドキドキしながらドアを開けた瞬間、好きじゃない、と聞かされたときの、あの虚無感。勝手に好かれていると勘違いして、バカみたいじゃないか。
それに、あんな……。
千真は、ひとり残されたリビングで、カッと赤面する。目が覚めたとき、身体に残った駿介の匂いに、お腹の奥が熱くなった。
男の人とそういうことをしたのは初めてだったけれど、嬉しくて切なくて、なんとも面映ゆい気持ちでいっぱいで、でもそれが、なんだか胸が温かくなって、幸せな気分になれたのに。
それなのに、あんまりじゃないだろうか。好きじゃないなら、構わないでほしかった。駿介はそうじゃなかったとしても、千真にとっては初めてのことだったのに。
処女を返してくれ、と叫びたい気持ちでいっぱいで、千真はああやって怒ることしかできないのも残念だった。
◇ ◇ ◇
「お帰りなさい、旭さん。本当はご飯を作ってようと思ったんですけど、この家、なんにもないんですもん。なにも作れませんでした」
「ただいま、賀永さん。それはいいんだけど、駿介は?」
ビクッと千真の肩が震える。どうやら、ケンカは続行中らしい。
「お部屋にいると、思います」
「そう。じゃあ、呼んでこようかな。賀永さんも、そこに座っててくれる?」
わかりました。消え入りそうな声で言われて、今日一日のふたりのことが安易に想像できる。まったく、大人気ない。千真は年下なのだから、駿介が折れてやればいいだけなのに。
というか、そもそもあれだけのことをしておいて、好きじゃないわけがないじゃないか、バカバカしい。素直に言葉にすれば、それだけで仲直りができると思うのだが、どうにもそう簡単にはいかないのだろう。
融通の効かないバカには、いくら年下とはいえ、千真のほうから折れないといけないのかもしれない。
不貞寝をしている巨体に、旭は声を投げた。
「ただいま。とりあえず今日のことを報告するから、リビングに来いよ」
「……」
やはり、眠ってはいなかったらしい。
のそりと身体を起こした駿介は、ちっと舌打ちをして、ベッドから出てきた。
「結論から言うと、開発の丸野さんと営業の柳原さんはクビ。安心して会社に来れると思うけど、やっぱり辞めたい?」
「えっと」
優しく問われ、千真は言葉に詰まる。正直に言えば、もうあの会社に足を踏み入れることさえ恐怖で、できれば近づきたくもない。
それでも千真のために退職をすすめてくれたのだとしたら、このまま辞めるのは失礼になるのかもしれない、とも考えて、迷う。
千真が下を向いて黙っていると、ぽん、と頭を撫でられた。旭かな、と思うが、違う。見なくてもそれがわかるのだと気づいて、涙が溢れてきた。
「辞めたいのを、無理に引き止める必要もねぇだろ」
「そうだけど、原因が解消したから、大丈夫かな、と思って」
というか、ふたりの会話では、冴子と友美が犯人だという前提になっているのだが、どうして知っているのだろうか。
おそるおそる聞いてみれば、どうやら圭樹が気づいてくれていたらしかった。
二度目に千真が手を出されたとき、冴子が席を立ったのに合わせて、圭樹はあとをつけたようだ。そこで友美と千真が続けてトイレに入っていったのを見て、疑惑が確信に変わったらしい。
「まぁ、さすがに女子トイレに入るわけにもいかないし、目撃したわけじゃないんだけどね。でも、ちょっとつついたら、すぐに認めたから」
存外、楽だったよ。旭はそういうが、果たしてそういうものなのだろうか。
疑問は残るが、それ以上問いつめるわけにもいかず、千真は納得したふりをする。
「しばらくは有給も残ってるし、辞めるのはそれからでもいいんじゃない?」
「はい。ありがとうございます」
腕とお腹は、常時痛みを訴えることはない。けれどときどき、そこに痕が刻まれているのだと主張するように、強い痛みに襲われる。忘れようにも、忘れることなどできそうもない。
「いろいろ、お世話になりました。私、これで失礼します」
「え」
驚いて目を丸くしたのは、旭だけではない。駿介も一瞬、目を大きく見開いたあとで、ぐっと眉間に皺を寄せた。
「帰るの? 泊まれば? っていうか、ここに引っ越してきてもいいけど」
「いえいえ、そんな。とんでもないです」
ただでさえ泊まったことも不本意なのに、引っ越してくるなんてもってのほか。自分を好きでもない人のそばにいるほど、つらいものはない。
向こうに好意はないとはいえ、千真は違う。迫られたら拒めないのは判っているから、できれば近づきたくはない。
千真が駿介とは目線を合わさないように反らしていると、旭はなにかを考えるようにして頭を掻いた。
「じゃあ、俺の部屋に泊まる?」
「え?」
「だめに決まってんだろ」
旭の提案を食い気味に拒否した駿介は、少しばかり嬉しそうな顔をした千真を抱き上げる。わ、と短い悲鳴を上げて、千真は駿介の首に手を回した。
「2時間。それでケリをつける」
「……りょーかい」
呆れたようにひらひらと手を振った旭は、そう言って駿介の部屋に消えたふたりを見送った。