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6. お礼参りの行き先

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 16時、5分前。千真は、動悸が激しくなっているのを感じていた。
 トイレに立つときに、わざわざ許可を取る必要はない。だから、誰かが席をはずしていても、特に気にされることもないのだが、今日ばかりは誰かに気に止めてもらいたい気持ちでいっぱいだった。

 重たい腰を持ち上げて立ち上がると、千真は憂鬱な気持ちでトイレへ向かう。

「お、時間どーりじゃん」

「……お疲れさまです」

 どうしたって、千真にとっては職場の先輩には違いない。
 千真は、先にトイレで待っていた冴子と友美に頭を下げた。

「ねぇねぇ、昨日も、大狼さんの病院に付き添ったんでしょ? なんで? なんで大狼さんの病院に付き添ってるの?」

「それは、だから……、大狼さんに怪我をさせたのが、私だから……」

「だからぁ。怪我をさせたのはあんたかもしれないけど、病院にまで付き添う必要、なくない?」

「――…」

 冴子の手が、するりと千真の服の中に入ってきて、爪を立てる。千真は、痛みを我慢するために、ぐっと拳を握った。

「ちゃんと断んなよー? 忙しいから、ほかの人にお願いしますー、とかって言ってさー」

「そうそう。開発の丸野さんとか、営業の柳原さんとかーって言ってもいいしー」

「……次からは、そうします」

 友美の手も服の中に入ってきて、冴子に加勢する。脇腹から腹部、それから背中にまで手を回されて、もうどこが痛みを訴えてきているのかさえ判らない。
 それでも千真は、下を向いて必死に耐えるしかなかった。

「そういえば、爪を切るように言われたんだけど、あんた、なんか言ったー?」

「……っ!? い、言ってない、ですっ」

 それには強く反応し、千真は首を振る。確かに、爪で、という話はしたが、でもふたりの名前は一切出していない。
 経理部でもその旨の通達はあったが、理由はキーボードを叩くときの音が気になるからというものだった。決して、千真の言葉に左右されたからではない、と思いたい。

「なら、いいんだけど、さ」

「……!!」

 ぐ、と深く、爪が食い込んで、一瞬、呼吸が止まる。

「大狼さんの迷惑とか? ちょっと、考えてみたほうがいいと思うのよねー」

「そうそう。あんたみたいなのがちょろちょろしてると、いつか、踏まれちゃうよ?」

「蟻みたいに?」

「ちっちゃいからねー」

 くすくすと笑うふたりの声が、いやに耳の奥で響いて、吐き気がする。
 早く時間が過ぎてくれればいいのに、とそれだけを願って、千真は唇を噛んだ。

◇ ◇ ◇


 仕事、辞めようかな。ぼんやりとそんなことを考えながら、千真は家路についていた。
 身の程も知らず、旭に告白しようとしたばっかりに駿介に絡まれるようになって、挙句、その駿介に怪我をさせて、その制裁を冴子と友美から受けることになってしまったのは、身から出たさびと言える。

 おんぼろアパートが、千真には合っている。あんな高級マンションに足を踏み入れる機会なんて、そうそうあることではないし、いい思い出になったじゃないか。

 ゆっくりとアパートの階段を上り、軋む音に口元を綻ばせる。
 旭に会えなくなるのは、ちょっとばかり寂しいかな。告白もできなかったけれど、それでも旭と一緒にいられた空間は、それだけで幸せだった。
 それに、初めて男友達もできた。圭樹は話しやすいし、一緒にいて気が楽だった。圭樹が同期で、本当によかった、と思う。
 それから。

 千真は、小さく息を吐き出した。
 元はと言えば、千真が間違ってメッセージを送ったのが原因だ。そのせいで、駿介に絡まれるようになって、旭には情けないところばかり見られてしまって。
 きっかけは千真だったかもしれないけれど、あとは全部駿介のせいだ。駿介のせいで、こんなにも――好きに、させられた。

 悔しいけれど、認めざるをえない。
 千真は今、旭よりも駿介のことが気になっている。だからこれ以上、関わりたくない。

 玄関の鍵を開けて中に入れば、ふわりと香水の匂いが香ってきて、胸が締めつけられる。そういえば昨夜、うちに来てくれたな、と思ったら、視界が滲んできた。

 本当は、この家に帰ってくるのが怖かった。けれど、駿介が応急処置をしてくれたから、我慢できる。壁の絆創膏に笑みをこぼしながら、千真は着替えを用意して風呂場の前で服を脱いだ。
 真新しい傷痕に、唇を噛んで手を添える。目に見えるのは腹周りだけで、背中はどうなっているかわからない。冴子の指が食い込んだところは、赤紫色の内出血になっていた。

 本当は、会社員なのだから、ちゃんと退職願を提出して、1ヶ月は勤めるべきだろうが、そんな悠長なことをする気力がない。もう明日から、会社には、というより、家から1歩も出たくないのに。
 ここ2日で急激に増えた身体の傷を見ながら、涙が溢れてくる。
 きれいに消えてくれるだろうか。痕に残ったら、もう半袖なんて着れないし、水着なんて絶対無理だ。

 そんな身体を見るのも億劫で、さっさとシャワーを浴びてベッドに潜る。
 本当に、社会人としてありえないと自覚していながら、旭に、『今日付で辞めさせてください』というメッセージを送り、後ろを振り向かないよう、あえてスマホの電源を切って眠りについた。

◇ ◇ ◇


 やわやわと、髪を撫でる手が気持ちいい。ふと目を開ければ、泣きそうな顔の駿介と目が合った。その駿介の奥に映る背景が自分の部屋ではなく、でも見覚えがあって、夢だな、と確信する。
 自分の部屋で寝ていた千真が駿介の部屋にいるはずがないし、ましてや駿介が、こんな顔で千真を見るわけがない。駿介はいつだって、強気で、意地悪だったから。

「駿介さん」

 夢だったら、多少大胆にもなれる。手を伸ばせば、当然のように夢の中の駿介は抱き締めてくれた。

「……仕事、辞めたいのか?」

 どうしてそれを、と今さら驚くことはしない。
 どうせ、旭に聞いたのだろう。仲がいいとは思っていたが、一緒に暮らすほどの仲だとは思わなかった。どっちが、とは言わないが、少しだけ、羨ましい。

「もう、疲れちゃいました」

「……そうか」

 へにゃ、と顔を崩せば、駿介は悔しそうに唇を噛んで、千真の額にキスをくれる。それが少し物足りなくて、駿介の頬に手を添えれば、駿介は一瞬、迷ったように視線を泳がせたあと、唇にキスをくれた。

 もしかしたら唇へのキスは、駿介の中で、一種の導火線だったのかもしれない。
 軽く触れるだけのキスが深いものに変わり、自由の効かない右手の代わりに、左手が忙しなく千真の身体を這っていく。それに少しばかり痛みが伴って、苦笑した。夢なんだから、傷を消してくれてもいいのに。

 夢の中でも続くその痛みは、昼間あったことを忘れさせてくれない。
 じわり、涙を滲ませれば、駿介がそれに気づいて、唇で掬ってくれた。

「怖いか?」

「いえ、……大丈夫です」

 これは、夢だから。夢から覚めたら、ちゃんと忘れるから。
 だから、今だけは。

 千真は、駿介の首に手を絡めてしがみつく。
 耳元で感じる駿介の熱い吐息に生々しさを感じながら、服に手をかけられたのにハッとしてそれを阻止すれば、安心させるようなキスが降ってきた。

「汚いから、いやです」

「汚くなんかないから、全部見せろ。全部見たい」

「……」

 触れる唇が、優しい。優しすぎて、涙が出てくる。
 千真の抵抗がなくなって、駿介は一瞬悩んだものの、ゆっくりと服を脱がして少しばかり後悔した。千真が、脱ぐのをためらった理由が、判らなかったわけではない。ただ思っていた以上に、それは存在を主張していた。

 少しばかり、表情が険しくなってしまったかもしれない。奥歯を噛み締めれば、不安そうな表情の千真とぶつかって、慌てて唇を寄せる。

「きれいだな」

「嘘ばっかり。でも、夢の中の駿介さんは、優しいですね」

「夢……」

 駿介は、ふ、と唇を綻ばせて、千真を見た。千真がキスをねだるように手を伸ばしてくるのが不思議だったが、なるほど、夢うつつにいるのならそれも判る。

 両腕の傷は、前の日のものだ。けれど腹周りの傷は、随分と新しい。
 少しの隙間も与えないほどに埋め尽くされたそれを、千真が見られたくなかった気持ちも判る。正直に言うと、駿介だって見たくなかった。
 けれどそれは、決して汚いからとかそう言った理由ではなく、怒りが沸点に到達してしまうからだ。今からでも相手の家に行って、殺してやりたい衝動に駆られる。

 触れれば痛いのか、わずかばかり眉間に皺を寄せて、身を捩らせる。
 極力、触らないようにしてやりたいが、なかなか、月明かりの下で見る千真は、傷の有無にかかわらずそそられる。きれいだと呟いたのも、決して世辞ではない。

 千真が駿介を受け入れた喘ぎ声が、室内に響く。
 やっと手に入れたこの瞬間だけれど、なぜだか妙に虚しく感じた。