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6. お礼参りの行き先

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「針谷くん」

「はい」

 名前を呼ばれた顔を上げた圭樹は、国浦が手招きをしているのを見て慌てて駆け寄った。そのまま会議室へと入っていくのに流れるようについていくと、国浦のほかに、駿介と旭、それから営業部長である河野匡臣こうのまさおみがいて、明らかに場違いな空気に、一旦足を止める。

「そこ、座ってくれる?」

「……はい」

 ごくり、唾を飲み、国浦に言われるまま、一番入り口に近い場所に座るが、なんだろう、この面接のような空気は。
 一体、自分はなにをやらかしたのか、と頭をフル回転させていると、針谷、と名前を呼ばれ、慌てて顔を上げた。

「おまえ、賀永の同期だったよな。仲、いいんだろ?」

 聞くことが不本意なのか、ぶすっとした表情を隠さない駿介に言われ、混乱しながらも、はい、と頷く。

「賀永さんから、なにか聞いてないかな?」

「なにかって……、なんですか?」

 旭からそう問われ、ドキッとする。
 圭樹が千真から聞いていることといえば、旭に告白しようとしたが間違って駿介にメッセージを送ってしまったということだけだ。それを今、この場で言うのは、なにか違う気がする。
 いやでも、それを言わせようとしているのか。

 正解が判らなくてぐるぐるしていると、実はね、と言いにくそうに、旭が口を開いた。

「ひどいミミズバレを作ってもらったみたいでね。誰に作ってもらったか、知ってたら教えてもらえないかなーと思って」

「ミミズバレ……?」

 やっぱり、メッセージの件は言わなくて正解だったようだ。
 けれど、ミミズバレの話なんて、した覚えはない。千真とは顔を合わせば話をするし、相談があるときには時間を合わせてリフレッシュルームに行ったりもする。
 最後にちゃんと話をしたのは月曜日だけれど、そのときはそんなことは微塵も言っていなかったのだが。

「……そういえば」

 昨日の朝だったか。偶然トイレから出てきた千真に声をかけたとき、ひどく怯えていたような気がする。
 本人はなんでもないと言っていたが、もしかしたら。

「丸野さんと、営業の柳原さん……?」

「待て、駿介!」

 ぽつり呟いたのを、駿介が聞き逃すはずがない。
 がたっと立ち上がった駿介を、旭が羽交い絞めにして止める。国浦と河野もそれに加勢していて、圭樹だけが圧倒されていた。

「放せ。話を聞きに行くだけだ」

「許可できない。少し落ち着け」

「俺は落ち着いてる」

 どこが、と旭に怒鳴られて、駿介は舌打ちする。圭樹は初めて、自分が迂闊にも口を滑らせたことを後悔した。

「針谷くん」

「は、はいっ」

 圭樹は動揺の中、誰に声をかけられたのか目を泳がせる。河野と目が合って、慌てて立ち上がった。

「今のふたりがやったという証拠があるのか?」

「いえ、ないです。すみません、俺、いや、僕は、その、昨日の朝賀永に会ったときに、賀永がひどく怯えていて、賀永の前にトイレから出てきたのがそのふたりだったように見えただけで、すみません、全然確証もなくて。すみません、確証もないことを、口にしました」

 何度も謝罪の言葉を口にし、しどろもどろになりながら、圭樹は頭を下げる。あんな、一瞬パッと見ただけの後ろ姿だし、当然、証拠なんてなにもない。
 ただ千真の様子が気になったのは事実で、その前にトイレから出てきた後ろ姿が、あのふたりに酷似していたというだけだ。

「わかった、ありがとう。できればこれからは、もう少し注意深く見てあげてくれないかな」

「はい、わかりました」

 圭樹は頭を上げられず、唇を噛んだ。もっとちゃんと、気にしてやっていたら。
 今さら悔いても仕方がないことだが、昨日の朝の自分を、叱咤したい。

「国浦部長、河野部長、今聞いていただいたとおりです。丸野さんと柳原さんに限らず、女子社員には爪を切るよう指導してください」

「それは同感だな」

「キーボードを叩く音が、何気に耳障りだったんだ」

 年齢の近い国浦と河野は、それでも部長クラスにしては若い30代である。オーキッド自体が新しい会社なので、自然とそうなってしまったのだが、

「駿介も、無闇に行動するなよ」

「……わかってるっつの」

 ちっ、とあからさまな舌打ちが聞こえる。
 この部長クラスの中でひとり、圭樹と同じ平社員のはずなのだが、駿介の態度は部長以上を醸し出している。役付きだと言われれば、すんなり納得できそうだ。

◇ ◇ ◇


「爪切れだってー」

「それってもう、セクハラじゃんねー」

 千真は完全に、出るタイミングを見失ってしまった。

「爪とか、きれいにしてなんぼじゃん」

「そうそう。ときには凶器にもなるしねー」

「あたしこの間、彼氏の背中に思いっきり傷つけちゃったー」

 きゃはは、と騒ぐ声には、聞き覚えがある。開発部の丸野冴子さえこと営業部の柳原友美ともみ、千真にミミズバレを作ってくれたふたりである。

「っていうか、いきなり爪切れってさー、まさか、賀永がなんか言ったのかなー?」

「えー、でももしチクられてたら、直にうちらのとこに来そうじゃね?」

「ま、それもそっかー」

「でも、来たら来たで、ラッキーじゃん? 大神部長か大狼さんとふたりきりになれるかもでしょ」

「えー、どうしよー。あたし、妊娠するかもー」

「あたしもー」

 大声で話している自覚があるのかないのか、とうに休憩時間は過ぎている。早く仕事に戻らないといけないのに、どうしても足が竦んで動かない。

 あの日――。駿介に付き添って病院に行った次の日、冴子と友美にトイレに呼び出された千真は、そこでふたりから報復という名の制裁を受けた。要は、八つ当たりである。

 就業のチャイムが鳴るまで、罵声と共に両腕を搔きむしられ、とりあえずはそれで落ち着いたのか、それ以降はなにもない。
 けれどふたりが目の前にいるだけで、身体が拒絶反応を訴えているのが判った。

 今もそうだ。個室に入っている間にふたりがやって来て、出れなくなってしまった。
 身体が強張って、身動きが取れなくなる。

「ってゆうかさー、賀永、昨日も大狼さんに付き添ってたらしいよー」

「マジでー? 今度はお腹とかやっちゃう?」

「いいねー。あいつ、全然判ってないみたいだしー」

 千真は両手で自分を抱き締めて、前屈みに身体を縮めた。
 やっぱり、付き添いは断るべきだった、と今さら後悔する。駿介に怪我をさせたのは事実だし、付き添うのは仕方ないという思いもあったが、そういう問題ではなくなってきた。

「あーあ。経理部に異動したーい」

「あたしもー。でも開発はさー、まだ針谷くんとかいるじゃん? こっちは全然ー」

「でも針谷くんはさー、ただ若いだけだしー。もっと目に潤いが欲しいのよねー」

「わかるー」

 きゃぴきゃぴした耳障りなふたりの声が遠くなり、少しだけ気持ちが落ち着いてきた千真のスマホが、メッセージの受信を知らせてくれる。
 おそるおそるメッセージを見た千真は、目の前が闇に覆われた気がした。

『16時に、トイレに出てこれる?』