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5. 報復の差出人

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「賀永さん」

 ハイネックで首元を隠している千真は、名前を呼ばれて振り向いた。まさに、ハイネックを着て出勤したほうがいいと言ってくれた人である。
 あのひとことがなければ、千真はきっとなにも気づかず、いつもどおりに出勤して、また風吹に怒られる羽目になっていたかもしれない。首の赤みなんて、千真の経験上、虫刺され以外に想像なんてできない。

「ごめん、今日、駿介が夕方から病院なんだけど、付き添ってやってくれる? できれば、飯も食わせてやって」

「それは、大丈夫ですけど、えっと……」

「なに? どうかした?」

 旭に言うべきか悩み、結局、いいえ、と頭を振った。

「判りました」

「じゃあ、お願いね」

 走り去る旭の背中に頭を下げて、千真は嘆息する。服の上から無意識に腕を撫で、慌ててそれをはずした。それでもやっぱり気になって、ぎゅっと握ってしまう。

 昨日、千真が駿介と共に帰宅したことは、当然、部内の中で広がり、社内でも知らない人はいないこととなっていた。朝一、千真が別部署の女子社員に呼び出され、報復を受けたことを旭に言えるはずもない。

 千真は、キュッと唇を噛んで、下を向いた。

 行きたくありません。いや、違う。付き添うことは、別に構わない。
 実際のところ、駿介に怪我を負わせたのは千真なのだから、当然、付き添えと言われれば、断ることなんてできるはずがない。

 首筋に手を添えて、息を吐く。本当に、今日はハイネックを着てきて正解だった。駿介と一緒に帰宅したのを知られている中で、こんな痕をつけて堂々と出社してしまっていたらと思うと、ゾッとする。

◇ ◇ ◇


 夕方、旭に言われたとおり駿介の病院まで付き添った千真は、長居をするのを避けるようにてきぱきと動くと、さっさと食事の用意をして駿介の部屋をあとにした。駿介がなにか言いたそうにしていたが、用事があるので、と背中を向け、振り返らずに。

 実際、ハイネックをあと2、3枚買いたかったので、まったく用事がなかったといえばそうでもない。
 千真は自分自身に言い訳をするように言い聞かせ、買い物を終えると築ン十年の住み慣れたアパートに帰った。

 駿介のマンションから帰ってくると、古臭さが一層におってくる。
 セキュリティなんてあったもんじゃない、風呂とトイレだって、きっと昔は共同で、あとからつけられたであろうリフォームの跡が垣間見えるアパートは、ちょっと大きな台風でも来たら、恐らく建物ごと吹き飛んでしまうのではないかと思えるほどだ。

 階段を上れば、ぎぃ、と軋む音がするのも、ようやく慣れた。鍵を回して家に入り、ようやくほっとする。
 今日は、なんだかすごく疲れたな。お湯をはって入浴剤を入れて、気持ちを切り替えたい。

 千真は皺が寄らないよう上着をハンガーにかけハイネックを脱ぎ、ポニーテールを解く。当然、脱衣所なんてあるはずのない狭い部屋なので、着替えるのはいつもリビングだ。
 いつものように着替えとタオルを用意してそこに置き、ブラジャーに手を伸ばした瞬間。

 ――カシャ、と嫌な音が聞こえた。

 慌てて振り返るが、当然、そこは自分の家なので、部屋の中には誰もいない。
 でも確かに、カメラのシャッター音のようなものが聞こえた。

 脱いだばかりのハイネックを引き寄せて、胸元に寄せる。地震かと思うほどに目の前が揺れて、吐きそうだ。
 どこから誰に見られているのか、わからない。360度、どこを向くこともためらわれて、ただただ震える。

 すとん、と全身の力が抜け、その場に座り込んだ千真は、両手で顔を覆った。縋るものもなく、無造作に垂れてきた髪を、乱雑に引っ張る。

「……っ」

 いつから? いつから、見られていた? 考えるだけで、ゾッとする。
 呼吸が荒くなり、息苦しい。助けを呼びたくても、声が出ない。



 どのくらいの間、そうしていたのかわからない。ブー、と耳慣れた音がして、千真はようやく、顔を上げた。

 どこかで、スマホが鳴っている。千真は腰を引きずりながら、手だけで玄関先まで移動し、鞄の中で孤独に着信を伝えているスマホに手を伸ばした。

 『着信:おおがみさん』

 スマホの液晶に表示された名前と、ついでに時間も確認する。
 23時といえば、上司が電話をしてくるには、随分と失礼な時間ではなかろうか。

 駿介のことか、それとも、仕事でなにか、とんでもないミスをしでかしてしまったのだろうか。

「――っ」

 そのとき、ピンポーン、と来客を知らせるインターホンが鳴り、千真は飛び上がって驚いた。

 このタイミングで、一体、誰が? 思って、身震いする。
 まさか、カメラの……? だとしたら、冗談じゃない。

 もう一度、出てこいと催促するように、インターホンが鳴る。千真は、いつでも投げつけられるよう、しっかりとスマホを握り締めた。

 すると、また手の中のスマホが震え出し、ビクッと身を竦ませる。
 旭の名前が表示されており、出るか悩む。

 こんな時間に何度も電話をしてくるなんて、よっぽどだ。今は、怒られている場合じゃないのに。
 かといって無視するのもためらわれ、あわよくば助けてもらえるのではないかと甘い考えも混じり、千真はおそるおそる、通話ボタンを押した。

『出るのが遅ぇ!』

「……え?」

 一瞬、声が二重に聞こえた気がしたが、気のせいだろうか。
 思わず玄関のほうを向き、耳を傾ける。

『家にいねーの?』

「……っ、います!」

 じわり、涙が浮かんできた。
 玄関の外から聞こえてくる声が、スマホを通しても聞こえてくる。

 この際、助けてくれるなら、誰でも構わない。
 千真は、覚束無い足取りで立ち上がると、震える手で鍵を開けた。

 思った以上に勢いよく開いたドアに、耳にスマホを当てたままの駿介が、面食らったように目を丸くしている。
 知っている人が目の前に現れたことで、ようやく千真も、安堵することができ。

 駿介に抱き着くでもなく、うわーん、と子供のように、声を上げて泣くのを我慢しなかった。