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4. 小学生男子のあれ
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「鞄、ありがとうございました」
「ごめんね、勝手に。中身は、財田さんに見てもらったから、安心して」
「はい」
そもそも、旭が千真の鞄をあさるとか、そんな低俗なことをするとはとても思えない。見られることへの羞恥心はあるかもしれないが、不安なんてものは一切なかった。
部長に対して上から目線ではあるが、しっかり者の旭は、ちゃんと千真の鞄を持ってきてくれていた。ようやくほっとして息を吐き、財布を取り出すと、不貞腐れてソファに転がっている駿介の元に駆け寄る。
「あの、これ、さっきお借りしたお金です」
「……」
「大狼さん?」
「……」
目を瞑ってはいるが、絶対に聞こえている。そのことが判るから余計にイラっとするが、千真は軽く深呼吸してそれを追い払う。
「お金? それくらい、駿介に出させればよかったのに」
ひょい、と旭に後ろから覗かれて、えっと、と言葉に詰まる。さすがに旭にあげるつもりのバレンタインチョコを、駿介のお金で買うわけにはいかないじゃないか。
それを言う代わりに、千真はダイニングチェアに置きっぱなしの袋から、チョコレートを取り出した。
「あの、これ。その、明日は、バレンタインなので。いつものお礼です」
「え?」
戸惑う旭の様子が、見なくても伝わった。
やばい。手が震える。やっぱり、やめておくべきだったかな、と手を引っ込めようと思った瞬間、手の中からそれがなくなった。
「ありがとう。これは、先輩として受け取っておくね」
先輩として。それは、上司としてでは受け取れないという意味だろう。部長ともあろう者が、会社の規律を乱すわけにはいかない。
それでも千真の想いを汲んで受け取ってくれた旭に安堵の息を漏らすと共に、緊張の糸が切れて涙が出そうになった。
「じゃあ、あとのことは俺に任せて。下まで送るよ」
「えっ、ここでいいです」
「いいから、行こう」
下まで見送らせるなんて、さすがに申し訳ないと首を振って断るが、旭はそんなのはお構いなしに、千真の背中を物理的に押して玄関のほうへ誘導する。
千真は、相変わらず目を閉じたままの駿介にちらりと目線を向けたが、流されるまま、駿介の部屋をあとにした。
「そういえば、余計なことかもしれないんだけどさ」
「はい?」
思いがけずふたりきりになれて、どきどきした面持ちのままエレベーターを待っていると、旭が言いづらそうに首元を撫でながら視線を泳がせる。
首を傾げて言葉を待っていると、エレベーターの扉が開いた。
「明日は、ハイネックがいいかもね」
「え?」
ふたり、無人のエレベーターに乗り込んだあとで、旭はそう口を開く。意味が判らずじっと旭を見つめていると、旭の向こう側に自分が映っているのが判り、エレベーターの中が鏡張りになっていることに気づいたと共に、首元の赤みを発見し、ふらふらと鏡である壁に近寄って、絶句した。
「あー、随分と、情熱的な痕がついてるから」
「……」
耳元から首回りまで、何ヶ所にも渡ってキスマークがついている。誰がつけたかなんて、考えたくもない。
「ち、ちが、違うんです、あの、わたし……」
「会社のことなら大丈夫だよ。社内恋愛を禁止してるわけじゃないし。ただ、そういう痕を見ちゃうと、どうしても変な勘繰りをする奴もいるからね」
そうじゃない。千真が弁解したいのは、そうではなくて。
「駿介には、俺からも言っておくよ。せめて、見えないところにつけろって」
ち、違うんです。そんな否定の言葉を口にする元気なんて、もう微塵も残っていなかった。
◇ ◇ ◇
旭が駿介の部屋に戻ると、駿介はリビングにはいなかった。代わりにバスルームのほうから音が聞こえてくるので、そちらへ足を向ける
「駿介」
扉越しに声をかければ、聞こえづらかったのか、駿介はシャワーを止めた。
「大丈夫か? 頭、洗ってやろうか?」
「いい」
断りはしたものの、実際のところ、上手く洗えている自信はない。
けれどそれを、28歳にもなった男が、28歳の男に頼むのはいかがなものか。どうせなら千真がいる間に、千真に洗ってもらえばよかったと今さらながら後悔する。
「さすがに、賀永さんにそこまで手伝わせてたらどうしようかと思ったけど」
「……」
考えを読まれたのか、そう言われて、思わず舌打ちする。
扉を開ければ、旭がバスタオルを手に待っていた。頭からそれを被せられ、否応なしに頭を拭かれる。
「賀永さんがかわいいのは判るけど、あそこまで痕つけたら、ちょっと気の毒だよ。もう少し、自重しなよ」
「うるせーな」
そんなことは、旭に言われなくても判っている。
駿介は歯噛みすると、頭を拭いてくれている旭の手を振り払ってバスルームをあとにした。
大体にして、最初から気に入らなかったんだ、千真のことは。
入社当初から、駿介に対しては怯えたような顔をして、ちょっと声をかけただけで顔を引きつらせる。目付きが悪いのは生まれつきだし、それを今さらどうこうできる問題でもないが、なにもしていないうちからああやって怯えられるのは、正直面白くない。
男嫌いなのかと思えばそうでもなく、駿介以外の男とは普通に接しているからなおさらだ。
だから少しばかり、虐めてやろうと思っただけなのだが。
男慣れしていないのが丸判りで、少し触っただけでも敏感に反応する。誤算だったのが、その反応に、自分の性欲をくすぐられたことだった。
バスタオルを腰に巻いた姿でリビングを徘徊し、袋に入ったままの包みを発見する。その下には2000円も置いてあって、千真からだというのはすぐに理解できた。
「バレンタインのチョコだと思うよ。俺も貰ったし」
「そうかよ」
――お金、貸してもらえませんか?
怯えながらも、駿介に声をかけてきた千真を思い出す。
確かに、バレンタインチョコなんて、駿介のお金を使えるわけがない。しかも、旭にあげるものだとしたら、なおさら。
それにしても、旭には手渡しで、駿介にはただ置いてあるだけって、この違いはどうなんだ、とまた腹が立ってくる。ずっと一緒にいたんだから、いくらだって渡す機会はあっただろうに。
千真のことを考えると、頭が痛くなってくる。はー、と息を吐き出せば、旭が買い物をしてきた袋の中身をテーブルに並べた。
「これ、賀永さんに頼まれた熱冷まし。そういえば、駿介、俺が賀永さんと電話でしゃべってるときにも、手出してただろ? 途中で気づいて、めちゃくちゃ恥しかったんだけど」
「それに気づいてたんだったら、来る時間は調整すべきだったな」
「いやいや、怪我人が、なにしてんだよって話だろ」
それもそうか、とも思う。駿介が水のペットボトルを手に取ると、キャップを口に咥える前に旭に取られ、開けられる。それと一緒に薬を渡されて、ふ、と口元を綻ばせた。
――先におにぎりを食べてください。
熱のせいか、思考回路がおかしい。ひとつひとつのことに、千真を思い出すなんて。
今は、おにぎりを食べるように言ってきた千真はいない。
駿介は痛み止めと熱冷ましを水で流し込むと、口元を手で拭った。