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4. 小学生男子のあれ
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『今から帰るけど、なにか買って帰るものがある?』
耳元で、そう囁かれた旭の声が、まだ残っている。何度も何度もそれを思い出し、千真はにやけ顔が止まらなかった。だってこんなの、まるで彼氏の帰りを待っている彼女に送っているみたいじゃないか。
もちろん彼氏は旭で、彼女は千真である。
やだ、もー。千真が両手で頬を支え、くねくねと感激に浸っていると、不意に視線を感じ、ばっと振り向いた。残念なほど異形なものを見る目をしている駿介と目が合って、有頂天だった気分が、瞬時に地の底まで落ちていく。
「気持ちわりー……」
「え、具合悪いですか?」
「いや、おまえの顔が」
「……」
一瞬でも駿介を心配した気持ちを返して欲しい。けれどやはり本調子ではないのか、駿介の顔色はひどく青ざめていた。
「本当に、具合悪くないですか?」
「あー。たぶん」
たぶん? 自分でもよく判っていないような返答に眉根を寄せながら、千真は駿介の行動を見守る。
駿介は冷蔵庫からペットボトルの水を取り出すと、やはり千真に頼むでもなく口でキャップを開けた。
駿介が痛み止めを飲んでから、駿介は寝室にこもり、千真はしばらく羨ましいキッチンを眺めたりリビングを徘徊したりして、結局なにもすることがないのでソファで横になっていた。
そうしてつい先ほど、スマホの着信音にハッとして目を覚ました千真は、テーブルに置かれたままの駿介のスマホをなんの迷いもなく手にして、それが自分のものではなかったことに気づいたのは、旭の、あれ? という声を聞いてからだった。
「旭さん、今から来ますって。すみません、私、間違って着信とってしまって」
「そうか」
千真が渡したスマホを、駿介は特に怒るでもなく受け取って、そのまま少しだけいじってテーブルの上に放ったのだが、そのときに一瞬だけ触れた駿介の手が、思いのほか熱かった。
「ちょっと、失礼します」
本当に失礼だと思ったが、千真は両手で駿介の顎辺りを触り、目を大きく見開いた。人間はこんなにも体温が熱くなるものかと思うほど、熱すぎる。
「大狼さん、熱冷ましとかないですか?」
「んなもん、あるわけねーだろ」
ですよね、と妙に納得する。必要最低限のものしかないこの部屋に、そんなものはないだろうことは聞かなくても想像できた。
「電話お借りしてもいいですか? 旭さんに、買ってきてもらいます」
「好きにしろ」
言われて、千真は申し訳ないよりも駿介の体調を慮った。迷うことなく駿介に背中を向け、駿介のスマホを手に取ると旭に電話をかける。
ロックもかかっていないスマホは、どういった経緯があるのか千真のものと同じ機種なので扱いやすい。そうでなくとも、最近のスマホはどれも構造が似たようなものではあるのだが。
「あ、お疲れさまです、賀永です。今よろしいですか? 実は、熱冷ましを買ってきていただきたくて。はい、そうなんで……きゃぁ!?」
旭との会話に集中していた千真は、すっかり油断していた。千真の背中に、燃えるような熱さが纏わりついてきたのである。
「ち、ちょっと、大狼さん!?」
千真は旭に聞こえないよう、声を小さくして駿介に抗議するが、駿介はそんなことはものともせず、千真の背中から離れようとしない。
そればかりか、左手が千真のお腹から上へ登ってきて、顎を掴んでくる。
『賀永さん、どうしたの?』
電話口からそんな旭の声が聞こえてきて、千真は慌てて、大丈夫です、と返事をしたが、内心はちっとも大丈夫なんかではない。
――ひっ。
千真の顎を掴んだ駿介は、そのまま千真の頭を横に傾けると、無防備になった首筋に噛みついてきた。声が、漏れたかどうかは判らない。それくらい衝撃的で、動揺を隠しきれなかった千真は、どうすることもできず、きつく、目を瞑った。
『熱冷ましだけでいいの?』
「だ、いじょうぶ、だと、おもい、ま、す」
『? 本当に大丈夫?』
訝しんだ旭の声に、カッとなる。短く息を吐き出して、お願いします、と一方的に通話を切るのが精一杯だった。
「あ……っ」
するり、顎にかかっていた指先が、頬を撫でるのに、ゾクッとする。
もう、本当に信じられない。どうして駿介は、こんなにも旭の前で千真の醜態を晒そうとするのだろう。
「お、がみ……、さ……」
「……」
駿介の熱が、首筋から耳元に移る。吐息が熱くて、眩暈がしそうだった。
熱を帯びた手が、頬から胸元に落ちていく。いや、と抵抗するのも虚しく、シャツのボタンを2つほど開けた隙間から、手が侵入してきて直接肌に触れる。
恐ろしいほどに熱いのは、果たして本当に熱があるからなのか判らなくなるほど、千真は浮かされていた。駿介の唇は、相変わらず千真の耳元と首筋を行ったり来たりしていて、感覚がおかしくなってくる。
お腹の奥が、また窮屈さを訴えてきて、どうすればいいのか判らない。
自慢じゃないが、千真は彼氏いない歴実年齢で、男性経験なんてもってのほか、こういった場合、どう対処するのが正しいのか、勉強しているはずもなければ、知っているはずもない。
不意に唇から漏れる声が、自分のものなんて信じられないくらい勝手にこぼれていくのを恥ずかしいなんて思う余裕もなく、ただただ駿介に抗うこともできず、受け入れるしかない自分が怖くなる。この先、どうなってしまうのか、想像もつかなくて。
それでも駿介の触れる手が、唇が、なぜか妙に優しくて、涙が出そうになった。
冷たくするなら、意地悪をするのなら、最後までそれを貫いてくれればいいのに、こうやって優しく触れてくるから勘違いしてしまいそうになる。
大狼は、服の中に手を入れてきたものの、ブラジャーで包まれた先には進んでこない。
それに安心しているのか物足りないのか自分でも判らないけれど、でもそれをひどくもどかしく感じている辺り、もしかしたら後者なのかもしれないと思ったら、駿介の熱がうつったように身体の芯が熱くなってくる。
「お、おおがみさん……。本当に、もう……」
やめてください。声が出ていたかは、自信がない。けれど、このままというわけにもいかない。
駿介に流されたままなのはよくないと判っていながらもどうすることもできなくて、必死にいたずらなような愛撫に耐えていた千真だったが、駿介の手が、とうとうブラジャーの中に入ってきた瞬間、大きく目を見開いた。――そして。
「……ごめん」
……え?
聞こえてきた謝罪が、背後からでなかったことに目を瞬かせる。ゆっくりと、声のほうを向けば。
「本当、ごめん」
千真は、申し訳なさそうに口元を手で覆った旭と、ばっちり目が合ってしまった。
「空気読めよ」
「いや、それは本当、ごめん」
「……」
熱が背中から離れ、そこからひんやりと冷たくなってくる。けれど冷たくなった原因は、それだけではないようにも感じた。
「〰〰!?」
「騒ぐなよ」
千真が悲鳴を上げるよりも先に、駿介に口を塞がれる。
ありえない、バカ、信じられない。そんな言葉をすべて飲み込まされて、怒りのあまり、思わず口元にあった駿介の手を噛んでいた。
「いってーな。左手まで使えなくなったら、どうしてくれるんだよ?」
「そんなの、自業自得じゃないですか! バカっ、信じられないっ」
「おまえ、俺を手伝いに来たんだろ? だったらたまったもん出す手伝いくらい、当然だろーが」
「た……っ!?」
今、信じられないことを言われたような気がするが、気のせいではないと思う。
千真はわなわなと唇を震わせて、涙目で駿介を睨む。そんな手伝いをしに来るわけないでしょう、と当たり前のことさえ言わなければならないほど、頭が悪い人ではなかったはずだ。しかもまた、旭の目の前で。絶対に、確信犯に決まっている。
「あー、ごめん。ふたりの言い合いに、口を出すつもりは、ないんだけど」
ごめん、と何度も言いながら、旭は視線を泳がせて、嘆息する。
「賀永さん、ボタンだけ留めてもらえる? 目のやり場に困っちゃって」
「……へ?」
「見るなよ、減るだろ」
「じゃあ俺が来るの判ってて、手を出すなよ」
旭の言葉にピンとこない千真が呆けていると、駿介が千真のシャツの胸元をギュッと握った。
駿介と旭の会話が途切れ、ようやく、旭の言葉の意味を理解して紅潮する。ボタンが開きっぱなしになっていたせいで、ブラジャーが丸見えになっていたようだった。