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3. 駿介のお世話係

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 駿介とふたりで乗ったタクシーは、会社から30分ほど離れたところにある25階建てのマンションの前で停まった。
 千真は駿介から財布を渡され、タクシーの運転手に支払うと、改めて目の前のマンションに唾を飲む。

 一見すれば、どこか高級ホテルのような佇まいのそこは、足を踏み入れることさえ躊躇してしまいそうなほどだ。駿介の鞄を胸に抱えて固まっていた千真だが、駿介がなんの迷いもなくその建物の中に入っていくので、置いていかれないよう慌ててあとを追う。
 1階フロアにはコンビニが入っていて、駿介はペットボトルの水とおにぎりを手に取ると、それを千真に渡してきた。

「飲み物とかなんもねーから、おまえも適当に買っとけ。俺の財布から出していいから」

「あ、ありがとうございます」

 千真は言われるまま、ペットボトル飲料が並べられている冷蔵ケースの前に足を向け、止まった。冷蔵ケースの手前に、きらびやかに装飾された棚があり、そういえば、と思い出す。明日は、2月14日、バレンタインデーだ。
 オーキッドでは、バレンタインなどのイベントは禁止されており、たとえ友チョコだったとしても、会社内での受け渡しはできない。だから当然、旭にあげたくてもあげられないと最初から諦めていたので、気にもしていなかったのだが。

「大狼さん」

「あ?」

 駿介は雑誌コーナーの前で、右手のギプスに器用に雑誌を乗せ、ページをめくっていた。駿介に聞くのもどうかと思うが、どうせばれているのだからと恥はかき捨てることにする。

「き、今日って、大神さん……、ええと、あ、旭さんって、駿介さんの家に来るって言ってましたよね?」

「……俺の家っつーか、まぁ、そうだな」

 さっきは売り言葉に買い言葉で『旭さん』なんて言ってしまったが、改めて『旭さん』なんて言うと、まるで恋人を呼んでいるようで恥ずかしい。もちろん社内では、駿介と同じ苗字だということで名前で呼んでいる人も少なくはないのだが、千真は恥ずかしさが勝り、頑なに苗字で呼んでいた。

 1日早いけれど、今日だったら、会社の中にいるわけではないし、手渡しできるのではないだろうか。千真の想いが伝わらなくとも、日頃のお礼ということにすれば、受け取ってくれないかな。
 そんな淡い思いを抱えつつ、千真は駿介の返事を確認すると、バレンタインの特設コーナーへ足を向けた。

 あまり高いのを買ってしまうと、本命だとばれてしまうかもしれないし、かといって安すぎるのは失礼な気がする。
 そう思ったら、3個入りで800円という、微妙な金額のものを手に取っていた。もちろん千真が普段買うチョコレートを考えれば、高い品物である。けれど旭がそれを食べるのだと思ったら、安い気がするから不思議だ。

 駿介から預かったままのおにぎりと水、それから自分のための紅茶と旭のためのチョコレートを手にレジに向かおうとして、重大なことに気がついてしまった。

 ――自分の財布がない。

 旭に呼ばれるまま会社を出てきてしまったので、千真は手元にスマホさえも持っていないことにようやく気がついた。
 駿介を部屋に送り届けたら、すぐ会社に戻るべきだろうか。けれど旭は、あとで行くと言っていたし、だとすれば待っておくべきなのだろう。
 それに、チョコレートも渡したい。

「あ、あの、大狼さん……」

「なんだよ?」

 千真はなるべくチョコレートが見えないようにほかの商品で隠してから駿介に近づき、窺うように見上げる。

「お金、貸してもらえませんか?」

「あ? だから、俺の財布渡しただろ?」

「えーっと、自分のものを、買いたくて」

「自分のもの? 飲み物じゃなくてか?」

「じゃ、なくて、です」

「……」

 駿介は千真の手元に気づいたのか、目線を雑誌に戻したあと、勝手にしろ、と呆れたように声をくれた。千真はそんな駿介にぺこりと頭を下げたあと、カツカツともう一度レジへ向かう。
 必ず、あとで返します。そう思いながら駿介の財布から1000円を抜いて、これは別だと自分に言い聞かせ、はたと気づく。もしかしたこの場合、駿介にもあげたほうがいいのだろうか。思って、ちらりと駿介に視線を向ける。

 明らかに、チョコレートを食べるような顔ではない。いや、もちろん顔で食べるわけではないのだが、どうにもチョコレートが似合わない顔である。
 必要ないな、とレジへ足を向け、立ち止まる。チョコレート顔ではないかもしれないが、目の前で旭にあげるのに、駿介にないのは失礼じゃないだろうか。
 ましてや千真は、不本意とはいえ、その駿介にお金を借りて旭へのチョコレートを買おうとしているのに。

 どうしよう。レジと特設コーナーとを、しばらく往復したあと、迷いに迷った千真は、旭に選んだものより少し安い500円のものを手に取って、今度こそレジへ並んだ。

◇ ◇ ◇


「お邪魔します」

 外観からある程度の予測をしていた千真だったが、やはりというべきか、駿介の部屋に一歩足を踏み入れた瞬間、呆けたように息を吐いた。千真の借りている安いアパートとは比べるのも間違っていそうなほど、ひとつひとつの作りが豪華である。
 備え付けの靴箱にしてもそうだが、リビングに入って真っ先に目が行ったのは、キッチンだった。一度も使ったことがないのか、新品を匂わせる対面キッチンはピカピカに光っており、そして千真の部屋のシンクの倍はあろうかという広さで、料理好きな千真は思わずうっとりする。

「飲み物冷やすなら、冷蔵庫に入れとけよ」

「あ、はい」

 終始不機嫌そうな駿介は、腕を通さず肩にかけていた背広をソファに投げると、ネクタイを緩めた。千真はダイニングテーブルの椅子に駿介の鞄を置くと、コンビニで買ってきた水と紅茶を袋から出して冷蔵庫に入れ、なんの気なしに駿介のほうを向いて、ギョッとする。

 リビングの大きな窓は外が一望できるほどの大きさで、当然、そこから陽が入ってくるのだが、ソファの前でワイシャツのボタンをはずしている駿介が陽に当たり、少しばかり陰って見える姿が、まるで映画のワンシーンのように美しい。
 いや、男性に対して美しいってどうなんだ、と思いながら、千真は慌てて目を背けた。一応、女性が同じ部屋にいるという認識はあるのだろうか、と疑問に思うほど、駿介は普通である。千真はこんなにも、動揺させられているというのに。

「おい」

 不意に声をかけられた千真は、身を竦ませ、はいっ、と声を上げた。

「鞄の中に薬が入ってるから、取ってくれ」

 駿介は左手の袖口のボタンを口ではずし、そのまま袖を噛んでワイシャツを腕から抜いた。器用だな、と思いながら、千真は言われたとおり鞄の中を漁って、薬袋を見つける。今日の日付が書かれた整形外科の袋の中には、痛み止めらしきものが入っており、錠数を確認したあとで冷蔵庫に入れたばかりの水を取り出し、テーブルの上に置いた。

「悪いな」

 ワイシャツを脱いで千真のほうに近づいてきた駿介は、水を手に取ると徐にキャップを噛み、蓋を開ける。言ってくれれば蓋くらい開けたのに、とそれを見ていた千真は、駿介がそのまま薬に手を伸ばしたので、慌ててその手を掴んだ。

「痛み止めを飲むなら、先におにぎりを食べてください」

「腹減ってねぇ」

「減ってなくても、食べてください。っていうか、だったらどうしておにぎり買ったんですか?」

「……夜飯? か、朝飯?」

「はぁ?」

 ふざけているのだろうか、この人は。朝ご飯ならまだしも、夜ご飯をおにぎり1個で済まそうとしていたなんて。
 千真はおにぎりを取り出すとそれを食べやすいように開けて、はい、と駿介の前に差し出した。

 不貞腐れたような顔をしていた駿介だったが、観念したようにため息を吐くと、千真の手の中にあるおにぎりにそのまま食らいつく。瞬間、ギョッとした千真は、駿介から顔を背けた。

「じ、自分で持って食べてくださいっ」

「俺、怪我人」

「それは、知ってますけど!」

 顔を背けたまま、千真はぎゅっと目を瞑る。
 駿介は目の前でふるふると震える手を掴むと、自分のほうに引き寄せ、なおもそのままおにぎりを口に運んだ。

「自分で持ってくださいってば!」

「いいじゃねぇか、別に」

「よくないっ」

 そうやって押し問答を繰り広げている間に、千真の手の中にあったおにぎりはなくなって、あろうことか駿介は、おにぎりのなくなった千真の手の指先を舐めてきやがった。

「――!?」

 ぞわぞわと足の先から、なにかが駆け上ってくる。なにこれ、と混乱に襲われる中、またお腹の奥が締めつけられるような痛みを訴えてくるのを感じていた。
 1本1本、丁寧に指を舐め上げられ、身体の力が抜けてくる。立っていることもできなくなるくらいの虚脱感に襲われた千真は、カクッと膝が抜けて駿介の胸に身体を預けた。

「なんだよ」

「……っ」

 本当にこの男は、信じられない。文句を言いたいのに、そんな気力もないほどに力を抜かれ、縋るように駿介の背中に手を回した千真は、それでも少しばかりの抵抗心を見せ、拳を握った。

「一緒に、寝るか?」

「……!?」

 耳元で、妖しくそう囁かれ。今度こそ、背中を殴ってやった。