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3. 駿介のお世話係

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「大狼さぁん、コピーできましたぁ」
「書類って、これでいいですかぁ?」

「……どうも」

 微妙に顔を引きつらせながら、駿介はくねくねした女子社員から書類を受け取る。その顔はうんざりしているのを隠すことなく表に出していて、また1回1回ため息を吐いて態度でも示していた。

(さっきのは開発の丸野まるのさん……。それに、営業の柳原やなぎはらさんも来てたなぁ)

 手元の書類をデスクの上で整えながら、千真はぼんやりとそんなことを思った。
 駿介の怪我は、当然のことながら狭い社内では瞬く間に公然となり、これ幸いと思ったのか、普段は近寄ることさえできない女子社員が、次々に駿介の元に用事がないか確認に来ていた。正直、駿介ではないが、ウザイと思うほどに。

 駿介は断るのも面倒なのか、来てくれた人には仕事をお願いしていたものの、やはり回数が増えればそれだけ煩わしさも増え、眉間の皺も増えていた。
 眉間の皺と言えば、千真の隣の席にいる竹田学たけだがくにも、段々と皺が増えている気がする。

「ほかの部署からわざわざ……、すごいですよね」

 駿介には聞こえないくらいの小さな声で千真が学に話しかけると、学も激しく同意して首を縦に振った。

「それな。そりゃ、怪我してるのは大変だと思うけど、俺らでもできる仕事なんだから、わざわざ他部署から来る必要なんてないよな、絶対」

「ですよねぇ」

 でもこの様子だと、どうやら千真に手伝う隙間なんて微塵もなさそうだ。千真に頼むくらいなら、ほかの見目麗しい女子社員に頼むだろう。その点については安心した。旭の誤解は、解けていないままではあるのだが。

「駿介さんも優しいから、断り切れないんだろうけど。なんていうか、覇気がなくなるっつーか」

「あー、判ります、それ」

 真面目に仕事をしているオフィスで、大狼さぁん、といちいち甘えた猫撫で声で入って来られたら、こっちのやる気が阻害される。そうか、なんとなくイライラしてたのは、そのせいだったのかもしれない。

「旭」

 駿介の強い舌打ちと共に、ガンっと音が響いて、千真は、というより、オフィス内にいた全員がビクッと肩を竦ませ、即座に仕事に打ち込む姿勢を見せた。怒鳴られる、と無意識に構えてしまうのは悲しい性だ。

「仕事にならねぇから、今日はもう早退する」

「送る?」

「いや、いい。タクシーで帰る」

 言いながら左手で鞄を開けようとして、それを床に落とす。また、ひどい舌打ちが聞こえてきて、みんな黙々と手元の作業を進めた。触らぬ神に祟りなし、八つ当たりでもされようものなら、たまったもんじゃない。
 旭は駿介の鞄を拾い、書類を中に詰めていく。駿介はそれを不機嫌そうな顔で見ながら、嘆息した。

「悪い」

「いいよ。駿介の仕事のフォローくらい、俺でもできるから、今日はゆっくり休みなよ」

「そうする」

 はー、と眉間に皺を寄せたまま、駿介は右手を上げようとしてできないことに気づき、舌打ちをしたあとで左手で頭を掻く。利き腕が使えない苛立ちと思うように仕事が捗らない苛立ちが募って、爆発したようだ。

「下でタクシー拾うよ。あ――、賀永さん」

「は、はい!?」

 思いがけず名前を呼ばれ、千真は慌てて立ち上がり、ガンっとデスクで足をぶつけた。打ちつけたばかりの足を撫でながら、旭に近づいていくと、少し驚いたように目を丸くされる。

「大丈夫? 今、かなりいい音がしたけど……」

「だ、だいじょうぶです」

 打ったばかりなので、痛くないわけがない。けれど千真はそう言うと背筋を伸ばして、旭の顔を見上げた。旭と駿介の近くにいると、なおさら小さく見える千真は、ついてきて、と言われるまま、雛鳥のようにふたりについていく。

「賀永さん、今手持ちの仕事は?」

「営業部の領収証整理です」

「じゃあ、それは俺が引き継ぐから、とりあえず今日は駿介に付き添ってくれる?」

「……はい?」

「はい」

 お願いね、と駿介の鞄を押しつけられる。聞き間違いでなければ、駿介に付き添え、と言われた気がするのだが。
 3人で階段を下りながら、千真の頭には疑問符が大量発生していた。一体、なぜ、どういうことなのか。

「あれ? メッセージくれたのって、賀永さんだよね?」

「……はい」

 ああ、逃げられない。千真は悟った。
 旭は律儀に千真のメッセージの内容を覚えてくれていて、いや、あれは旭宛でなかったとしても、旭に送ったものなのだから旭が見ているのは当たり前なのだが、それで駿介の手伝いを千真に頼むことにしたのだろう。駿介の怪我が、本当に千真を庇ったときに負った怪我かどうかは定かではないが、お手伝いします、というメッセージを送ったことは事実である。

 千真は、旭から受け取った駿介の鞄を抱き締めると、小さくため息を吐いた。すると、ひょい、とそれを取り上げられる。

「ひとりでいいから、帰れ」

「え?」

 ブスっとした表情の駿介だった。イライラするのは仕方ないにしても、千真は当たることはないのではないだろうか。いや、そもそもの原因が千真だったのなら、千真に対してイライラするのも判らなくはないのだが。

「大神さんにお願いされたことなので、付き添います」

 千真もムッとした顔で駿介から鞄を取り返すと、すぐにまたそれを取り上げられた。

「俺は頼んでねぇ」

「おおがみさんじゃなくて、おおがみさんに頼まれたんです!」

「一緒じゃねぇか。判りづれーよ」

「そ……!?」

 そんな子供みたいなこと、言う!? 信じられない、と口をわなわなと震わせて、千真は取り上げられた駿介の鞄を引っ張るも、駿介も今度は簡単には取られないよう、しっかりと握っている。左手なのに、なんて握力だろう。

 千真は唇を噛んで顔を上げると、息を吸い込んだ。

「駿介さんじゃなくて、旭さんに頼まれたので!!」

「だから、俺は頼んでねーんだから、ついてくる必要ねぇだろーが」

「だから、旭さんに頼まれたって言ってるじゃないですかっ」

「俺のことは、俺が頼む。だから、おまえは戻って仕事しろ」

「いやですっ」

 なんなんだ、この人は。こんな子供じみたことを言って、千真を困らせるなんて。

 駿介は至極面倒そうに息を吐き出すと、大体、と口を開いて千真のほうに身を乗り出した。

「この絆創膏が気にいらねぇ。せっかくつけてやったのに、見えねーじゃねぇか」

「きゃーっ!!」

 千真に覆い被さるようにしてうなじを見た駿介は、勢いよくそれを剥がすと、ふい、と横を向いた。勢いよく剥がされたせいで、うなじがヒリヒリする。
 それよりもなによりも、今、余計なことを言いやがった!

「なんで今、それを旭さんの目の前で言うんですかー!?」

「本当のことじゃねぇか」

「本当のことでも、言っていいことと悪いことがあるでしょー!?」

 ますますもって、信じられない。
 今の口振りからして、わざとキスマークをつけたことは明白だ。おまけにそれを、旭の目の前で暴露するなんて。デリカシーがないにもほどがある。ましてや駿介は、千真が旭を好きだと知っているはずなのに。
 じわり、また涙が滲んでくる。もう、駿介の前にいると、泣きたくなることばっかりだ。

「そのくらいにしなよ、駿介」

 ぷるぷる震える千真の頭に、旭の優しい手が触れる。旭は困ったように駿介を見て、小さく息を吐いた。

「駿介は、判りづらいんだよ」

「ふん」

 諫めるように言われ、駿介は背中を向けて道路沿いに向かう。

「気にしないで仕事に戻れって意味だと思うよ。詳しくは知らないけど、駿介が怪我をしたのは自業自得だし」

「で、でも……」

「うん。でもそれじゃあ、賀永さんの気が済まないんじゃないかと思ったからね、駿介に付き添うようにお願いしたんだけど」

 余計なお世話だったかな、と眉尻を下げられたので、千真は慌てて首を横に振った。
 旭は千真のメッセージを見て、そのとおりにしてくれただけなのだ。決して、旭が悪いわけではない。

「駿介のこと、お願いしてもいいかな? 仕事が終わったら、俺もすぐに帰るから」

「わ、判りました」

 千真は腕で涙を拭うと、旭に頭を下げる。駿介の元へ行こうと背中を向ければ、そういえば、と声を投げられ、立ち止まった。

「それ、まさかとは思ったけど、やっぱり駿介だったんだね」

「……!? し、失礼しますっ」

 うなじを指さされ、真っ赤になって一礼すると、今度は振り返らずに駿介のところに駆け寄った。
 やっぱり、旭は優しい。なにより言い方が優しいし、それに包容力がある。駿介とは大違いだ。

 それでも今は、そんな旭に背を向けて、駿介の元へ駆けている。仕方のないこととはいえ、なんだか複雑な気持ちを抱えながらタクシーを待つ駿介の隣に立つと、諦めたふうにため息を吐いた駿介から、鞄を渡された。