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3. 駿介のお世話係

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 お腹が痛い。痛いというか、なんというか、ムズムズと変な感覚がして気持ちが悪い。
 それもこれも、全部駿介のせいだ、と怒りに任せてキーボードを叩けば、風吹に、こら、と丸めた書類で頭を叩かれた。

「キーボードが壊れる」

「風吹さん……、それ、痛いです」

 コピー用紙ひと束分はありそうな書類は、かなりの重量がある。それで叩かれれば、実際のところ、かなり痛い。

「薬持ってこようか?」

「薬?」

「首。痒くない?」

 風吹が千真のうなじに触れた瞬間、ぴしゃりとオフィスの空気が凍りついた。千真は様子がおかしいことに気づいたが、風吹は気づいていないようで、話を続ける。

「赤くなってるけど、虫刺されじゃないの?」

「え?」

 言われるまま、千真はうなじに触れてみるが、触った感じはどうもない。赤くなっているというから、腫れているのかと思ったが、どうやらそんなことはないようだ。

「少しは気をつかってあげてくださいよ、財田さん」

 首を傾げた千真のデスクに、そっと絆創膏が置かれる。顔を上げれば、キラキラエフェクトのかかった旭がそこにいた。朝から縁起がいい。

「みんな、気づいてて無視してたのに」

「なんで無視するのよ? 薬くらい、持ってきてあげればいいじゃないの」

 どうしてそんな意地悪をするのか、と納得いかない様子で、風吹はオフィスを見回す。いじめがあるのなら、即刻、対処しなければならない。
 けれどオフィスのみんなは、気まずそうに視線を泳がせ、風吹と目を合わせようとしない。それは、いじめからの無視というには、いささか生温いものがあり、風吹はなおも首を傾げた。

「デキる女なんだから、気づいてくださいよ」

 旭は残念そうに眉尻を下げたあと、ぼそりと風吹に耳打ちする。
 その後、ぼっと顔を真っ赤に染め上げた風吹は、旭が置いた絆創膏を手に取ると、少し乱暴に、ぴしゃりと千真のうなじに貼りつけた。

「なんであんた、そんな髪型してきてるのよ!?」

「えええ?」

 紛らわしい、と言い捨て、プリプリとお尻に色気を漂わせながら自分のデスクに戻っていく風吹を見ながら、千真はまだ混乱の中にいて、疑問符が頭の中を走り回っている。ポニーテールにしているのはいつものことなのに、今さら? という気がしないでもない。

 ふわり、香水の匂いがして振り向けば、思っていた以上に近い旭の顔があり、心臓が跳ねた。

「キスマーク、ついてるよ」

「え?」

 ほどほどにね、と部下を窘める視線を送りながら、旭は自分のデスクに戻って行き。

「……っ!?」

 千真は、慌ててうなじを手で押さえた。
 キスマークなんて、つけられた覚えはない! そう言ってやりたいのだが、同僚の生温い視線の意味がそれだと気づき、今さら虫刺されですというのも、なんだか言い訳に言い訳を塗り重ねるような気がして、黙って下を向いた。

 絶対に、誤解なのに。絶対に、虫刺されなのに。キスマークをつけられるようなこと、した覚えなんて微塵もないのに。
 しかもそれを、旭に指摘されるなんて。

 本当に最近、ついてないことばっかりで、嫌になる。
 泣きたいやら喚き散らしたいやら、散々だ。

 じわり、涙を滲ませながらもうなじを気にしつつ、先ほどとは打って変わって静かにキーボードを叩きながら、千真は手元の書類を片づけるべく黙々と作業を進めようとすると、朝礼のチャイムが鳴り、全員静かに立ち上がった。
 もちろん千真は、姿勢が悪いと思ったものの、うなじに手を当てたままである。風吹が絆創膏を貼ってはくれたが、旭にあんなことを言われ、気にならないわけがない。

「今日、大狼駿介から遅刻の連絡が入ってます。問い合わせ等あれば、私に回してください。それと――」

「……あっ!」

 旭から連絡事項が淡々と語られる中、千真は大きな声を上げた。

「賀永さん? どうかした?」

「い、いえ、なんでもありません。失礼しました」

 慌てて首を振り、下を向く。旭の報告のせいで、嫌なことを思い出した。
 うなじを擦りながら、昨日の倉庫での出来事を思い出す。踏み台から落ちたあと、でっかい虫に、吸われたことを。

(――信っっじらんない)

 自覚がなかった千真もよくないかもしれないが、一番よくないのは、悪意があって痕をつけた駿介だろう。
 見る人が見ればそれと判る痕を、きっとわざとつけたに違いない駿介に、苛立ちが募る。千真のことが嫌いなら、相手にしなければいいのに。こんな嫌がらせをするくらいなら、いっそのこと、無視してくれたほうがずっといい。

 怒りで、ぷるぷると身体が震える。朝礼当番が自分の日じゃなくてよかった、と心底思った。

◇ ◇ ◇


 経理部のオフィスがざわついたのは、ちょうど昼休憩のチャイムが鳴ったころだった。相変わらずうなじを気にしながら、いつもよりのろのろと仕事をしていた千真は、鞄からお弁当を取り出してデスクの上に広げていた。

「駿介」

「遅くなって悪かったな」

 心配そうな旭の声をよそに、ぶっきらぼうに返したその人の姿に、思わず唾を飲み込んだ。昨日まではなかったギプスが、駿介の右腕を覆っている。痛々しい姿に、みんな食事を中断して釘付けだ。

「折れてた。利き腕だから仕事がしづらいけど、まぁ、なんとかなるだろ」

「そりゃ、多少はフォローするけど。それにしても、駿介にしてはドジったな。倉庫で転ぶなんて」

(――え?)

 思わず、ばっと旭のほうを振り向く程度には、千真にとってその言葉は衝撃だった。うそ、と口から声が漏れて、慌てて手で塞ぎ、視線を旭から駿介に移す。
 昨日、倉庫で転んだのは千真で、駿介はそれを助けてくれたのだ。だとするならば、駿介の怪我は、千真を助けたからということにならないだろうか。

 千真はお弁当に蓋をして、席を立つとトイレに走った。慌てて個室に飛び込むと、スマホのメッセージアプリを起動させ、メッセージを送る。

『私のせいですか?』

 それだけ送れば伝わると思ったが、思いのほか早く返ってきた返事は、当然の如く素っ気ないものだった。

『なにが?』

 なにがってなによ、とムッとするが、いくら千真のせいだとしても、駿介が果たして、それを素直に千真のせいにするかは判らない。
 駿介が千真に気をつかうとも思えないが、もしそうだとしたら、千真だって無視するわけにはいかない。

『ギプス、私のせいですよね? 手伝えることがあれば手伝いますから、なんでも言ってください』

 さすがに、あんな怪我をしてまで千真を助けてくれた人を、放っておけるわけがない。駿介はなにも言ってこないかもしれないが、せめて食事の準備くらいはしてあげたい。たとえコンビニ弁当だとしても、片手で買い物をするのは不便だろうから。

 千真の手の中で、スマホが震える。
 返ってきたメッセージを見た瞬間、血の気が引くのが判った。

『ありがとう。駿介に伝えておくね』

 ……駿介、に?
 しばらく、思考が停止する。え、どういう意味? 考えて、考えて、まさか、と宛先を見て、愕然とした。
 宛先は、『おおがみさん』。大狼駿介ではなく、大神旭だ。

 ――さい、あく……っ!!

 またやった。しかも今度は、逆に。大狼駿介に送るはずだったメッセージを、大神旭に送ってしまうなんて。

 今さら間違えましたと言ってみても、当然、旭のこの返しから、宛先を間違えて連絡していることは判っているはずだ。
 千真が本当に判ってほしいのは、駿介とはなんの関係もないということなのだが、それをわざわざメッセージとして残すのためらわれる。一番誤解して欲しくない人に、とんでもない誤解をされてしまった。

 こんなことなら、駿介の怪我の具合なんて気にするんじゃなかった。そう思ってみても、あとの祭りである。
 いっそのこそ、おまえにはなにも手伝えることなんてないと言ってくれないだろうか。そうしてくれれば、一応、声はかけたぞ、と自分にも言い訳できるし、怪我は自分のせいじゃなかったです、と旭にも言い訳ができる。いや、そもそも、旭に言い訳をする必要はないのだが、どうにも誤解されたままというのは外聞が悪い。

 そんな、駿介に対して恩を仇で返すようなことを思いながら、千真は重い足取りでトイレをあとにした。