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2. 負け犬の遠吠え
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「どうしたの、その顔?」
「ちょっと、コンタクトがズレちゃって」
オフィスに戻った千真は、財田風吹にいきなり真っ赤に腫れ上がった目を指摘された。
風吹は経理部の頼れる姉御肌の先輩だ。部長補佐という役付のため、旭と行動する機会が多く、よくふたりで話をしているのを見かける。羨ましい立ち位置だが、ふたり並んでも釣り合いが取れているので、僻まれることは多くない。どちらかといえば、風吹も憧れの対象に入るほどだ。
千真は、へへ、と苦笑いを浮かべて返事をするも、気が気ではなかった。
駿介に、とんでもないことをしてしまった。そして、それを旭にも見られてしまった。
よく考えなくとも同じ部署なので、もうあと間もなくすれば、ふたりはオフィスに戻ってくるだろう。……帰ってもいいかな。
「……っ、あー」
最悪だ。どうしてあんな子供じみたことをしてしまったのか、自分でも判らない。
駿介に腹が立ったのは事実だが、いくら腹が立ったとはいえ、先輩である。やっていいことと悪いことの区別くらい、すぐにつくはずなのに。
「お疲れさまでーす」
そうして千真が悶々している間にも、時間は過ぎていく。誰かの声に顔を上げれば、旭と駿介が入ってきたところだった。
千真は慌ててパソコンで顔を隠し、デスク上の書類を広げ、電卓を弾いた。
せめて、仕事だけは文句を言われないようにしよう。
小さく心に決めて、なるべく顔を上げないように下を向いて仕事を進めた。
◇ ◇ ◇
「開設時の予算、ですか?」
いつも静かな旭の声がいつもよりも大きくオフィスに響いて、全員視線を旭に向けた。旭は気づいていないのか、電話の相手との話に集中して、相槌を打ちながら指先でペンを回している。
みんなが視線をデスクに戻した瞬間、くそっ、と旭に似合わない声と共に、がしゃんっ、と受話器が置かれた。
「どうした?」
すかさず駿介が立ち上がり、聞き取りを始めるのにほっとしたのも束の間、すぐに旭の声が室内に響いた。
「誰か、倉庫から開設時の予算ファイルを会議室まで持ってきて」
それだけを言い残すと、駿介と共に急ぎ足でオフィスを出ていく。
オフィスは一瞬、呆気に取られたものの、風吹が大きく、ぱん、と手を叩いたことで現実に返った。
「部長命令よ。今、手が空いてる人は? 石川? 賀永?」
不意に名前を呼ばれ、ギョッとして顔を上げる。
千真よりふたつ年上の石川美砂は、しどろもどろに手元と風吹をチラチラ見ている。倉庫に行く余裕がないのか、そもそも行きたくないのかは判らないが、千真は、はいっ、と勢いよく手を上げて立ち上がった。
「賀永、行きます」
「そう。じゃあ、頼んだわよ」
「はい」
名指しされ、行きたくない素振りを見せている先輩を無視できるほど、千真のメンタルは強くない。机の上に散らばった書類にちらりと視線を落とし、軽く嘆息したあとで、倉庫へと足を向けた。
机上にあったのは、先月、営業部が使用した分の領収証の束である。種類毎、日付毎に分けて集計し、風吹に提出するべきものなのだが、確か期限は今週いっぱいだった気がする。今週いっぱいということは、半ばには終わらせて提出しなければならないということだ。
あくまでも期限は最終期限であり、上司へ提出する際は、前もって提出しなければならないというのは、千真が就職して初めて知ったことである。新人研修が終わった5月、いつまでも学生気分でいるんじゃない、と風吹に叱咤されたことを思い出し、くすりと笑みがこぼれた。今ではある程度、仕事の組み立てができるくらいには、成長したつもりである。
あれくらいなら、最悪、残業すれば終わる量だろう。頭の中で構築しながら、千真は2階にある経理部から3階の倉庫へ向けて階段を駆け上がった。
毎日履いているので、だいぶ慣れたとはいえ、やはりヒールで走るものではない。転びやすいので、あまり高いヒールを履いているわけではないのだが、ちょっと走っただけで、すぐに足が痛くなってくる。
(運動不足かな)
その自覚は、ないこともない。運動らしい運動をしていないので、運動不足になるのは必然だ。日頃の運動不足を責めながら倉庫へ走り込むと、千真は年代別に整理されている棚を目で追って、開設時の書類を探す。
オーキッドは比較的新しい会社なので、開設時といっても12年ほど前だ。丁寧にファイリングされている書類の中から開設時である12年前のラベルを見つけ、千真は手を伸ばす。
「く……っ」
手を伸ばしたのはいいが、一番上の棚にあるため、背の低い千真では背伸びをしても届かない。背表紙の下に、わずかに手が届くだけである。
「踏み台、踏み台……」
あった、と部屋の隅に置かれてあるそれを見つけ、いそいそと運ぶ。よいしょ、と踏み台を目当ての棚の足元に置き、それに乗って身を乗り出し、ファイルに手をかけた瞬間――世界が、揺れた。
うそ……っ。
取り出そうとしていたファイルが、千真目がけてバサバサと落ちてくる。痛みよりも恐怖が勝り、声も出せない。
重力に逆らえず、襲ってくる波を覚悟してきつく目を閉じた千真は、想像していた冷たい痛みとは裏腹な、温かい包容に戸惑いを隠せなかった。
目を開ければ、確かに視線は落ちていて、目当てのファイルは足元に散らばっているのか、棚は涼しくなっている。
「……っ、この、馬鹿!」
意味も判らず混乱していると、背後からそう罵られ、慌てて振り向いた。なぜここに、と思うのは二度目になる駿介が、千真を抱きかかえるように尻餅をついている。
ますますもって意味が判らない、と表情から混乱を隠せずにいると、するりと駿介の手が千真の腹を撫で、思わず、ひっ、と息を吸い込んだ。
「な、なにする……!?」
「怪我は?」
「え?」
至極面倒そうに、駿介はそう聞いてくる。
とりあえず、手を動かしてみて痛みがないことが判り、ないです、と素直に答えれば、深く深くため息を吐かれた。
「この踏み台は、壊れてるから使用禁止って書いてあっただろ?」
「か、書いてなかったですよ!?」
少なくとも、千真の目には止まらなかった。
大体、そんな重要なことは、誰の目にも止まるようにしておくべきだろう、と誰にでもなく文句を言いたくなる。しかもそのせいで、千真が駿介に怒られるなんて、理不尽すぎる。
そこで、やたら駿介との距離が近いことにようやく気づき、千真が離れようとしたところ、なにを思ったのか、駿介は千真の腹に回した左手を撫で回すように動かし始めた。
「せ、セクハラです!」
「それは、相手が嫌がってる場合に適用されるんじゃねぇか?」
「だから、その相手が嫌がってるんですよっ」
「そうでもねぇだろ?」
「ひゃ……っ!?」
うなじに息がかかり、ぞくりと身を竦ませれば、駿介の唇がそこへ押しつけられ、強く吸われたのが判った。千真は、きつく目を閉じ、唇を噛む。
その間も駿介の手は、やわやわと千真の腹を撫でていた。
「……っ」
駿介が千真を抱き込むように手を回してきて、きゅう、とお腹の奥まで締めつけられる感覚がする。
なにが嫌って、駿介の言ったとおり、そこまで嫌がっていない自分が、一番嫌だ。
しばらくして、ようやくうなじから駿介の唇が離れたかと思えば、ぺろりとそこを舐められて、慌てて手で押さえた。一体なにをしてくれたのか、お腹の奥が疼いて苦しい。
苦情を言おうと振り向けば、駿介は千真の腹を手で支えて床に座らせ、辺りに散らばったファイルを元の棚に片づけていく。
「もう18時だ。とっとと帰れよ」
「……はい?」
じゃあな、と言い残して、駿介は何事もなかったかのように、倉庫をあとにした。その手にはしっかりと、開設時の予算ファイルが握られている。
残された千真は、呆然とそれを見送ったあとで、怒りがフツフツと沸いてくるのを感じ。
「〰〰バカーっ!!」
ドアに向かって力いっぱい叫べば、同じ階でまだ仕事中であっただろう開発部の人たちに、うるさい、とめちゃくちゃ怒られた。