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2. 負け犬の遠吠え

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「宛先を間違ったぁ?」

「……うん」

 自動販売機から、ガコン、と音をさせて落ちてきたカフェオレを取り出しながら、針谷圭樹はりがいけいじゅは目を剥いた。
 そのカフェオレを絶賛落ち込み中の千真に渡し、もう一度自動販売機にお金を入れて、今度は自分用にコーヒーを買うと、すぐにプルタブを起こしてひと口飲む。

「そりゃあ、まぁ……。なんつーか、ご愁傷さま?」

「うう……」

 眉尻を下げ、貰ったカフェオレのプルタブを起こそうと爪を引っかけるが、カツカツと音がするばかりで、プルタブはなかなか起きそうにない。
 とうとうプルタブにまで馬鹿にされているのかな、とべそをかきそうになるが、隣にいた圭樹が、さっと手を伸ばして簡単に起こしてくれる。

「で、1日駿介さんとデートしてたって? 羨ましい話だな」

「デートじゃないし、羨ましくもないよ」

 圭樹は千真の唯一の同期で、よくこうして、話を聞いてもらっている。今回、旭に告白するかどうかもずっと悩んでいて、背中を押してくれたのは圭樹だった。
 高卒でオーキッドに就職した千真は、来月でようやく、20歳になる。10代最後の思い出に、と思って決意したことだったのだが、散々な目に遭ってしまった。
 いや、まぁ、スマホは新しくなったし、オムライスは美味しかったし、映画も面白かったし、夕飯に訪れた駿介おすすめのラーメン屋も美味しかったので、有意義といえば有意義に過ごしたのだが。

「スマホ買いに行って、飯食って、映画観るくらい満喫してりゃ、十分デートだろ」

「でも、そんなつもりじゃなかったもん」

 千真は少しだけ頬を膨らませて、カフェオレの缶の入り口を齧る。
 そりゃあ千真も、少しばかりそう思わないでもなかったし、とても圭樹には言えないが、昼食時のことを考えると、あれはただのバカップルのデートでしかなかった、と認めなくもない。オムライスに釣られたとはいえ、自己嫌悪に陥っているのは事実だが、圭樹に対してそれを認めているというのは、なにか違う気がする。

「で、どうするんだ? また告白するのか?」

「……しばらくは、いい」

 たかだかメッセージとはいえ、されどメッセージ。たったあれだけの文章を送るのに、どれだけ勇気が必要だったか、圭樹には判るはずもない。

「もっかい、勇気を積み上げなきゃ、あんなメッセージ送れないよ……」

 千真は、はぁ、とため息を吐いて、カフェオレを流し込む。一応、送ったメッセージは削除したのだが、別人に送ったという事実は消えない。
 別に、土曜日もずっと一緒にいて、出会い頭にそのことを言われただけで、その後はその件に触れることもなかったのだが、なんとなく苦手意識が働き、どうにもあの目で見られると、馬鹿にされているような気になってしまう。
 千真としても忘れたい出来事ではあるのだが、一緒に出かけた記憶がある以上、そう簡単にもいかず、頭が痛い。

「そんなに落ち込むなって。イケメンとデートできてラッキー、くらいに構えとけよ」

「無理だよぉ」

 圭樹が、千真を慰めるように背中を撫でてくれるが、すぐにその手が背中から離れ、圭樹がぴしっと背筋を伸ばしたのがわかった。
 顔を上げれば、旭と駿介、それから圭樹が所属する開発部の部長である国浦和幸くにうらかずゆきが、こちらにある自動販売機に向かって歩いてきているようだった。

「っす」

 圭樹が会釈し、千真の腕を引いて自動販売機から離れようとすると、すかさず旭が手を上げ、気にするなと言ってくる。
 3人の中では国浦が一番年上のはずだが、そう思わせない旭の貫禄に、惚れ惚れする。それは決して、旭が老けて見えるとかそういうことではなく、律した態度が上司として相応しく、年若さを感じさせない。
 それになにより、そこにいるだけで絵になるほど、カッコいい。

「なに変な顔してんだよ」

 気持ち悪ぃな。旭に陶酔していた千真は、蔑んだような声と頬の痛さに、急に現実に引き戻された。
 両頬を抓るでなく引っ張るのは、相変わらず目付きの鋭い駿介で、いつも機嫌が悪そうだが、今は余計に悪そうに見える。

「い、いひゃい〰〰っ」

「……」

 ぐーっと伸びる限り伸ばされた頬をようやく放されたときには、じんじんとそこが痛み、おそらく確実に腫れ上がっていることだろう。駿介の背後では、パチクリと目を見開いた旭がこちらを見ていて、いつもだったら目が合うだけで胸が弾むのに、それどころではないほど頬が痛みを訴えている。

「腫れたらどうしてくれるんですかー!?」

「もともと腫れてんだから、大差ねぇだろ」

「ひどい!」

 なんてことを言うのだろう、この男は。今のは、女の子に対して、絶対に言ってはいけない言葉だ。ほら、旭だけでなく、国浦までもが驚いた表情でこちらを見ているじゃないか。
 千真は、じわりと涙が浮かんでくるのが判って、素早く圭樹の後ろに隠れると、悪いとは思ったが、圭樹のスーツに顔を押しつけた。

 せっかく、旭が目の前にいるというのに、あんな情けない顔を晒してしまうなんて。
 一体千真が、なにをしたというのだろう。
 そりゃあ、確かに、メッセージの宛先を間違えてしまったのは認めるが、それでも土曜日は、駿介もそれなりに楽しんでいたように見えたのに。もしかしたら少しくらい、仲良くなれたかもしれないと思っていたのに。

 ぐすぐすと千真が鼻を啜る音が響く中、圭樹は嫌な汗がぶわっと噴き出てくるのが判った。
 開発部所属の圭樹は、直接経理部と関わることはないのだが、その中でも駿介はよく開発部で国浦の仕事を手伝っているため、何度も顔を合わせることがあった。経理部所属ながら、開発の知識も持ち、たまには国浦に意見したりもする姿に、同性とはいえ惚れる。切れ長の目に、色気の混じる低い声は、男の圭樹でも胸がドキドキするほどだ。

 だが今は、違う意味でドキドキしている。未だかつて、こんなにも駿介に見られたことはない。
 その原因が、圭樹の後ろで顔を擦りつけている同期の女の子だというのは明白だった。

 駿介は、圭樹をすり抜けて千真を見るように、ものすごい眼力で圭樹を凝視している。その両隣にいる部長ふたりは、180cm近い駿介に対して、大きな子供を見るようななんとも生温い目をしていて、なおさら居た堪れなくなった。

 この状況で、千真が圭樹を頼ったのは仕方がない。それは理解できるのだが、まさか駿介に睨まれる羽目になるとは思わなかった。
 違うんです、と否定したところで、尊敬する駿介に、だからどうした、と冷たく言われたら、千真じゃなくても泣きたくなる。

 すん、と鼻を啜った千真は、圭樹の背中から少しだけ顔を離す。
 圭樹は視線が痛い中、やめておけばいいのに、悩んだ挙句、ポケットからハンカチを取り出して、千真の顔に押しつけた。駿介の目付きが鋭くなった気がするのは、おそらく気のせいではない。
 嫌われたかな、とそもそも好かれているような間柄でもないのだが、そう残念に思っていると、圭樹を盾に少しだけ顔を出した千真が、ごくりと息を飲むのが判った。

 そして、次の瞬間。

「イーっだ!」

「……」

 子供か。
 思わずそうツッコミたくなるほど、子供のように歯を見せて駿介を威嚇した千真は、駿介のいる反対方向に走って逃げた。

 ちなみに、オーキッドのビルは3階建てであり、1階が駐車場、2階に経理部と社長室、そして応接室があり、3階には開発部と営業部、会議室、倉庫、それからリフレッシュルームがある。
 今圭樹たちがいるのは、3階のリフレッシュルームで、残念ながらすべての階がひとつの階段で繋がっている。千真が走っていった方向にも階段がないとは言わないが、非常階段なので普段は鍵が閉められており、まぁ、要するに行き止まりだ。

 ヒールのカツカツと遠ざかった足音が、またカツカツと近づいてくる。
 頬を膨らませて、顔を真っ赤にした千真は、また圭樹の後ろに隠れると、圭樹を盾にしたままカニ歩きで階段まで進み、何事もなかったように階段を走って降りていった。

「……す、すみません」

「……っ、く」

 圭樹が千真に代わり、その空気を払拭するように謝罪の言葉を口にすれば、それを皮切りに、旭と国浦が、堪えていた笑いを噴き出すように肩を震わせる。
 ひとり、納得いかない様子で、鋭い目付きをさらに鋭くしていた駿介を、旭と国浦がかわいがるように首根っこを捕まえてはしゃいでいる姿が、なんとも微笑ましい。

 それにしても、と圭樹は深くため息を吐いた。逃げるようにいなくなったが、結局は同じ部署なので、すぐに顔を合わせることになるだろうに。
 恥ずかしいやら情けないやら、圭樹は頭を抱えた。