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1. メッセージの宛先

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 賀永千真かながちまは、これでもかというくらい、緊張していた。
 心臓が早鐘を打つのを止められず、何度も深呼吸を繰り返し、目の前の人混みに視線を泳がせる。

 生憎、まだお目当ての人の姿は見えず、妙な安心感があり、吐く息と共に目を伏せた。
 来てほしいけれど、来たら来たで、なにを話せばいいかも判らない。

 千真は鞄からスマホを取り出して、時間を確認した。9時50分、一方的な待ち合わせの時間まで、あと少し。
 震える手で、トークアプリのアイコンを押し、昨日の夜、勇気を振り絞って送ったメッセージを見る。

 『入社したときから好きでした。明日の10時、無花果通駅で待っています』

 一方的にもほどがあるほどに一方的な、そんな文章が、業務連絡に混じり、トークアプリのメッセージの中に並んでいた。
 千真が送ったメッセージには、『既読』の2文字が付いている。それは、たとえ返事がなくとも、相手がメッセージを読んだという証拠でもあり。

 オーキッドに就職して、もうすぐ2年。入社説明会のときに、経理部長として紹介された大神旭おおがみあさひに一目惚れした千真は、迷わず経理部に希望を出し、以降、旭の下で働いていた。
 もちろん、部長という立場なので、千真と直接関わることはなかったが、それでも会社に来て顔が見れれば、それだけでテンションが上がるし、1日を幸せな気分で過ごすことができた。
 けれど、役職者でルックスもよく、人当たりもいい旭は、やはり人気があり、ほかの部署の女子社員からも声をかけられているのはよく見る光景だった。

 千真の恋が実るのは、限りなく、ゼロに近いかもしれない。それでも、ただ見ていたころよりも記憶に残る自分になりたくて、1歩を踏み出した。

 もしかしたら、来ないかもしれない。でも優しい人だから、遅れてでも来るかもしれない。
 それでも来なかったときの言い訳として、あまりにも一方的な約束だったから仕方がなかったと思えば、まだ気が楽になるかもしれないと予防線を張った。

「ふー」

 全身から、息を吐き出す。精一杯の告白を、無視するような人ではないと信じたい。
 この来るか来ないかも判らない相手を待っているだけの1分1秒が、こんなにも長いなんて知らなかった。

 せめて、20時までは待っていようかな。それでも10時間、千真は待つつもりなのである。
 バカだよなぁ。そんなのは、自分が一番判っている。

 今日が土曜日でよかった。泣いて目が腫れても、日曜日が回復してくれる。
 月曜日からは、ちょっと旭の顔を見るのがしんどいかもしれない。20時になったら、送ったメッセージを取り消して、なにごともなかったようにしなければ。

 間違っても、仕事に支障が出ないように、それは想いを告げた千真がしなければならない、最低限のマナーだ。
 恋にうつつを抜かして仕事を疎かにするなんて、絶対にしてはいけないことだし、なによりも旭に見損なわれたくない。

「……」

 あ、やばい。すでに涙が出てきそうだ。
 せめて泣くなら、20時を過ぎてからにしよう。万が一旭が来たときに、泣き顔なんて晒したくない。

 千真は、ふぅ、と大きく息を吐き出す。何度気合いを入れても顔を上げられないでいた千真の視線に、はらりと肩から落ちてきた髪が映る。
 普段はポニーテールでまとめている髪も、今日は下ろしている。いつもと違う千真に、少しくらいときめいてくれないだろうか、なんて淡い期待を抱きつつ、毛先を指で弄っていると、視界の先に男物の靴が映った。

 瞬間、きゅう、と胸が締めつけられる。
 大神さんっ、と喜んで顔を上げた千真は、鳩が豆鉄砲を食らったように、目を大きく見開いた。

「下向いてんじゃねえよ。捜せねーだろうが」

「……え?」

 千真が恋焦がれて待っていたのは、色素が薄いのか、茶髪の、少しだけ伸びた前髪から覗かせる目で見られると胸がときめきで弾む大神旭で、間違っても、黒髪の短髪で、鋭い目で見られると、恐怖から胸が締めつけられる大狼駿介おおがみしゅんすけではない。

「な、なんで、大狼さんがここに?」

 千真の頭の中は、『?』で埋め尽くされていた。意味が判らない。

「おまえが、昨夜連絡してきたんだろーが。10時に無花果通駅で待ってるって」

「はぁ?」

 そんなの、駿介に連絡した記憶なんてない。千真が連絡したのは――。
 そこではっとして、千真はスマホを確認する。千真が送ったメッセージの、トーク画面の宛先は……、『おおかみさん』。

 オーキッドには、漢字こそ違うものの、『おおがみ』さんがふたりいて、ひとりはもちろん、千真が待っていた、憧れの大神旭で、もうひとりは、千真と同じく役職なしの同僚とはいえ、年上で威圧感のある大狼駿介だ。
 ふたりとも『おおがみ』で紛らわしいから、千真はスマホに、『おおがみさん』と『おおかみさん』というふうに分けて登録していた。『おおかみさん』というのは、苗字に『狼』の漢字が使われているというのもあるし、なによりオオカミのように怖かったからだ。

 それなのに。わざわざ判りやすく登録していたはずなのに、間違うとか……。
 ありえない。

「これは……。間違い、ですね」

「だろうと思ったけどな。待ちぼうけ食らわすのも目覚めが悪いから、念のため、様子を見に来てやったんだよ」

「……」

「ありがとうは?」

「く……っ」

 悔しい。悔しいけれど、これは千真の過ちが引き起こした結果だ。

「っていうか、間違ってるって返信してくれてもよくないですか!?」

「おまえがいきなりあんなメッセージ寄越すから、びっくりしてスマホを落としたんだよ」

 その衝撃で壊れたというスマホは、なるほど、電源が入っていることは辛うじて判るが、文字なんてとても判別できそうにはないほどにガラスがひび割れ、残念なことになっていた。

「弁償してほしいくらいだ」

「理不尽!」

 千真はわなわなと唇を震わせて、駿介を睨む。こんなはずじゃ、なかったのに。
 泣きたいやら喚き散らしたやら、散々だ。千真の一世一代の告白は、どこへ消えてしまったのか。

「その様子じゃ、どうせ暇だろ。付き合えよ」

「ど、どこに!?」

「スマホショップ」

 有無を言わさず、腕を引かれる。まったくもって、冗談じゃない。

 今日の勇気のために、おろしたてのワンピースを着てきたのは、間違っても駿介のためじゃない。旭に、かわいいと言ってほしくて、かわいく着飾った自分を見てほしくて、少しばかり高かったけど、奮発して買ったのに。
 一体どうして、こんなことになってしまったのだろう。

「は、放してください〰〰」

 涙ながらに訴えるも、当然、駿介には聞き入れてもらえなかった。