花より男子/シロツメクサ(8)


「どういうつもり?」

 つくしの目の前に立ちはだかるのは、浅井百合子とその取り巻きの二人である。
 ウンザリして、思わずつくしは大きくため息を吐いた。

「退いてくんない、そこ?」

「あぁら。私の質問には答えてくださらないの?」

 ぐ、とつくしは拳を握り締める。
 F3の前で泣いてしまったのは、不覚だった。おまけに、大学の構内である。すぐにも変な噂が流れるのは、当然と言えばそうかもしれない。

「わざとF3の前で泣いたりなんかして、同情でも誘ってるの?」

 別に、わざと泣いたわけではない。だがF3の前で泣いたのは事実。
 つくしは何も言わず、黙って百合子を睨んでいた。

「まぁ、怖い!」

「こんな野蛮な方ですもの。道明寺さんも、愛想を尽かしたに違いないわ」

「いつまでもこんな女に感けるほど、お暇じゃないもの」

 つくしのイライラは、募る一方で。本気で殴ろうか、と思った刹那。

「一人の女性に対して三人で罵る方が、十分野蛮だと思いますケド」

 言葉とともに、そこにいたのは桜子だった。

「今の、撮っちゃった♪ 道明寺さんに見せたら、どうなるかしら?」

 携帯を片手ににっこりと微笑む桜子は、悪魔のようで。敵に回したくないな、とつくしは思った。

「じ、冗談、でしょ!?」

 一瞬にして、百合子たち三人は蒼褪める。
 パタン、と携帯を閉じて、桜子は三人に睨みを利かせた。

「冗談にしてほしかったら、さっさと失せなっ!」

「……ッ」

 悔しそうに、三人はバタバタと足音を響かせながらつくしたちの前から去って行った。そうしたあとで、桜子はゆっくりとつくしを見据える。

「先輩が何を悩んでるのか、私は知りませんケド。さっき先輩が泣いてたの、かなり目立ってましたからね。しばらくは大変だと思いますよ」

「……」

 黙って、つくしは桜子から視線を逸らす。涙の原因は、まだ自分の中でも整理できていない。そんな状態で、桜子に説明なんてできるはずもない。

「何があっても、私は先輩の味方ですから。私でよければ相談に乗りますし、たまには頼って下さいね」

「……ありがと、桜子」

 ぽん、と肩に手を置いて、桜子はその場につくしを残して去って行った。そうして一人取り残されて、先ほどの涙の意味を考えてみる。
 いや、考えようとしても、どうにも落ち着かない。

 あそこへ、行けば。きっと、この惑う心にも決着がつくと思う。つくしにとって、きっとこの想いの始まりの場所であるあそこへ。類との思い出がたくさんつまった、非常階段へ。



「……やっぱり、落ち着くな」

 誰もいない非常階段に、ポツリと呟いたつくしの声が響いた。らしくない、と首を振り、立ち上がって深呼吸をする。

 涙の理由は、できることなら気付きたくない部分であった。でも、気付いてしまった。
 今から、またその気持ちに蓋をしなければならない。これまでの均衡を、保つために。

「まだ、戻れる……」

 はぁ、と深くため息を吐いたあと、ふ、と自虐的に口元が緩んでしまった。

「進んでもないのに、どこに戻るってんだか」

「本当だね」

「!?」

 ひとりごとで呟いたつくしの言葉に返事が返ってきて、つくしは慌てて振り向いた。

「変なの。進んでなきゃ、戻ることなんてできないよ?」

「ほ、本当、だよね。あは、あはは……」

 つくしを見ながら破顔する類に、つくしの顔は思わず引き攣る。まだ、蓋を閉める準備をしていただけなのに。完全に蓋が閉まった状態ではないのに、一番会いたくなかった類に会ってしまうなんて。

「元気、出た?」

「え?」

 類の笑顔に、どきん、とつくしの胸が躍る。

「心配してたよ。あきらと総二郎も」

「……」

 自然と、手に力が入るのがわかった。早く、蓋をしなければ。この笑顔に見つめられても平気になるように、溢れ出しかけている気持ちに、蓋を。

 つくしが思った刹那。ブルブル、とポケットで携帯が震えて、つくしははっとした。
 慌ててスカートから携帯を取り出し、類に背中を向けて通話ボタンを押す。

「も、もしもし!?」

『おう。牧野か?』

「――…」

 何て間が悪い。普段、忙しいと言って、滅多に電話をかけてこない司が。振り返れば類がいるこの状況で、電話をかけてくるなんて。

『2、3分だけ時間が取れたからよ。長いこと電話もしてねーし、ちょっと話があって』

「そ、そう……」

 不自然に、声が上擦る。

 類を誰にも渡したくないという、つくしの中の醜い独占欲。その気持ちに蓋をする前に、類が現れて。
 落ち着かない状況のまま、司からの電話。

 きっと誰かが見ていて、つくしを貶めようと仕組んでいるのだろう、なんて荒んだ考えが浮かぶほど、つくしは動揺していた。この状況で平静でいられる方が、無理かもしれないが。

『総二郎の誕生パーティのこと、なんだけどよ』

「わ、わかってる! 忙しいんでしょ!?」

『え?』

 早く電話を切りたくて、つくしは司の言葉を遮ってそう言った。

「あたしなら、だ、大丈夫だから。心配しないで?」

『お、おう』

 つくしに圧倒されるように、司は肝心なことを何も言えなくなってしまって。そうするうちに司を急かす声が遠くで聞こえて、つくしは内心、ほっとしてしまった。

『悪ぃ、牧野。行かなきゃなんねぇから、切るけど』

「う、うん。何?」

『……』

「?」

『いや、何でもねぇ。……悪ぃ』

「……?」

 じゃあな、と言って途切れた電話の虚しい電子音が、つくしを責めているようで。もう戻ることさえできないのだ、と釘を刺された気がした。

「今の、司?」

「あ……、う、うん」

 振り向いて、思わず目が合った類から視線を逸らしてしまった。
 ぱたん、と携帯を閉じて、胸元でぎゅっと握り締める。
 自分の気持ちに、頭が追いついて行かなくて。どうすればいいのかなんて、全然わからない。

「総二郎の誕生日のこと?」

「へ?」

「だから、司の用件」

「あ、ああ……」

 曖昧に頷きながら、つくしは俯いた。類は、当然のことながら平然としている。意識しているのはつくしばかりで、余計に混乱する。

 今の状況を、何とか整理して。自分の心を落ち着かせて、元に戻らなければ。こんな中途半端な気持ちを、決して類に覚られてはいけない。

「ねぇ」

「……っ!?」

 ずい、と類は身を乗り出して、つくしの顔を覗き込む。目と鼻の先に類のきれいな顔が飛び込んできて、つくしは思わず後退った。
 きょとん、と目を丸くしたあと、類は、ぷ、と噴き出して笑う。

「どうしたの、一体?」

「だ、だって、花沢類が……!」

「俺が、何?」

「き、急に、あたしの視界に入るから……」

 もごもごと口籠もりながら、つくしは類から視線を外していく。
 改めて類を見て、やっぱりきれいな顔だなと思ってしまった。類だけではなく、F4が全員そうなのだが。その輪の中に入っていける自分が、何となく情けなく思えてきて。F4に入っても違和感がないのは、当然、静やそれなりの女性でないと。

「……」

 静と並んで歩く類を想像して、次の瞬間つくしの脳裏に浮かんだのは、類と腕を絡ませて歩く芹香の姿だった。

 ――類も総二郎も、望んでることじゃねぇよ。

 あきらに言われた台詞が、つくしの頭を過る。類が望んでいなかったとしても、周囲がそれを望んでいる。たとえ不本意だったとしても、類はそれを受け入れなければならないのだ。

「司、来れるって?」

「は?」

「だから、総二郎の誕生日」

「あ、ああ……。えと、忙しいって」

 あくまで視線を合わそうとしないつくしに、類は、くす、と口元に笑みを浮かべる。

「本当に、どうかした? 俺でよければ……」

「だ、大丈夫、本当に!」

 それ以上は言わせない、と言わんばかりに声を出して、類を制する。

「そっか。ならいいけど」

「う、うん。……ありがと、花沢類」

 降り注がれる類の熱い視線が、心苦しくなる。司のことも大切で、類のことも手放したくない、なんて。
 今のこの瞬間が、1分でも1秒でも長く続けばと思っている自分が、許せない。いっそ、そんな自分を殺してしまえれば楽になれるのに。

「いい天気だね、今日。日向ぼっこには最適」

「うん……。そうだね」

 こうして相槌を打ちながら隣に並べることを、幸せと感じてしまうなんて。

 類は、彼氏の親友で。不本意ではあるかもしれないが、婚約者もいる。そんな立場の彼に、これ以上想いを馳せてはいけない。
 わかっているのに、そういう立場にいるからこそ惹かれてしまうものもあって。

「牧野?」

「……」

 本日、2度目の涙は。司への贖罪だったのかもしれない。
 進むつもりはなかったのに、もう戻れなくて。

 司がそばにいなくても、類がそばにいたから立っていられた。でも類がそばにいなくなってしまったら、つくしは立っていられない。

 そのことに気付いてしまったと同時、つくしの身体は類の温かい腕に包まれていた。

 類の生きている鼓動が、心地いい。
 類の腕に抱き留められているという実感が、つくしの身体中に広がっていくようで。

「……ごめんね、花沢類」

 このままではいけない、そう思い、類の腕から逃れるようにつくしは類の身体を押しやって涙を腕で擦った。

「目に、ゴミが入って……」

「あんたは、いつまでそうやってごまかして一人で泣くつもり?」

「――…」

 いつもは優しいはずの類の瞳が、突然険しいものに変わる。だがそれは、恐怖を想像させるものではなくて。すべてを見透かすかのように、じっとつくしを見据えていた。

「前にもあったよね、確か。泣きそうになったら、みんなの前から姿を消してさ。もう少し、俺たちを頼りなよ。あんたにとっちゃ、頼りないかもしれないけど」

「そ、そんなことないっ」

 寂しげに下を向いた類に、つくしは慌てて声を上げる。

「頼りなくなんかないよ。あたしはいつも、花沢類に……F4に、支えられてて……」

「じゃあさ」

 ずい、とつくしに顔を近付けたときには、類の瞳はいつものように穏やかなものに戻っていた。

「言ってみなよ、何で泣いたのか。力になれるかもしれないでしょ?」

「……」

 理由が理由だけに、そんなことを言えるはずがなく。結局、つくしは押し黙ってしまった。

 司よりも類を必要としていることに気付いてしまった、なんて、今更そんなことを言ってしまったとしても。類にはもう、婚約者がいるわけで。何が変わるわけではない。類に告白されたのだって、もう何年も前のことだ。

 それでも、何故だろう。この瞳に見つめられていると、未だに類はつくしを好きでいてくれているのではないかという錯覚に陥ってしまう。
 それくらい優しい瞳で、類はいつもつくしを見てくれているから。

「……本当に、何でもないの」

 にっこりと微笑んで、つくしはそう笑顔を見せた。

「心配かけて、ごめん」

「そっか。ならいいけど。何かあったら、言いなよ?」

「うん」

 ぽん、と大きな手でつくしの頭を撫でながら、類がそう言う。これで、大丈夫。きっと元通りになれる。つくしの中の醜い感情が、表に姿を現さなければ。今まで通りの関係を、保っていられる。それが、誰も傷付かない、一番の最善策なのだから。

「ありがと、花沢類」

「あんた、それ好きだよね」

「え?」

「ありがとうとごめん。あんたと知り合ってから、何度聞いたかな?」

「あはは。そうだっけ?」

 つくしに向ける優しい瞳に、つくしは惹かれた。
 最初から、この瞳からは逃れられなかったのかもしれない。
 決して、好きになってはいけない人。それでも好きだと言ってしまったとしても、楽になるのはつくしだけで。傷付く人が、多すぎる。周囲を巻き込んでまで、自分の幸せを求めてはいけない。

 現実には、決して受け入れられないつくしの気持ち。
 それでも今だけは、こうして恋人のように隣に立っていたくて。誰からも認められていなくても、たとえつくしの中だけでも。今、この瞬間だけは誰も邪魔なんてしないで、そっとしておいてほしい。

 そんな幸せの光景を誰かに見られていたなんて、つくしは知りもしなかった。

「……だめ、身体が持たない」

「え?」

 そう呟いたかと思えば、次の瞬間にはつくしの頬に類の柔らかな髪が触れ。肩に、類の重みが圧しかかる。

「は、はな……?」

「……」

 肩を貸しているため、つくしの角度からは類の表情は見えない。だけど限りなく近いその距離に、つくしの心臓が驚くほど急いで動き出す。

(しないでよ、花沢類……。こんなの、しちゃだめだよ)

 思うのに、それを口にはできなくて。急く心臓と、潤む瞳。ごまかしようのない想いが、ずっとそうしていたいと願っている。それと同時に、期待してしまう。

 芹香という婚約者がいるにも拘らず、類はまだつくしを想ってくれているのではないか、と。そういう浅ましい考えが、つくしの脳裏を支配していく。離れたくない。そう、切に願ってしまう。

 ぎゅ、とつくしが目を瞑った瞬間、つくしの肩にかかっていた重みが、ふ、となくなった。

「……花沢類?」

 急に立ち上がった類を、つくしは怪訝そうに見つめる。

「あんた、うるさくて。とても、寝てなんていられないよ」

「はぁ!?」

「あんたの、心臓。すごく、忙しなく動いてる」

「!」

 声なんて出していない。カチン、と来て、つくしは文句の一つも言おうと立ち上がるが、それより先に類に言葉を発せられて思わず恥ずかしくなる。
 それと同時に向けられた、類の困惑気味の表情に。つくしは、何を言うこともできなくなってしまった。

(どうして、そんな瞳であたしを見つめるの……?)

 すべてを見透かすようなビー玉の瞳に映る、つくし自身。だが今は、見透かされるではなくただ曇っていた。その曇りを帯びた瞳が、余計につくしの心臓を締めつけていく。

 ぽん、と大きな手がつくしの頭を撫でて、その背中が去って行った。これ以上、つくしのそばにはいられない。

 忙しなく動いていたのは、類の心臓の方であり。それをごまかすための、類の言葉。とてもじゃないけれど、あのままつくしのそばにいて、何もしないと誓う方が無理に等しかった。

 そんな自分の気持ちから逃げるように、つくしに背を向けて。このまま友達の関係を続けていけるものか、と真剣に悩んでしまった。

 この4年間、一番そばにいたのは類だった。あと数ヶ月。司が迎えに来た時点で、この不即不離の関係はなくなる。バトンタッチ、と言わんばかりに、司に交代しなければならない。

 青い空を眺め、類はため息を一つ零す。
 もしも、つくしに触れてしまったら。もう、今までのままではいられなくなる。そばにいることさえ、叶わなくなる。

 類の願いは、ただ一つ。
 恋人でなくてもいいから、つくしにとって誰よりも近い存在でありたい。それだけだった。