花より男子/シロツメクサ(7)


「優紀!? あんた、一体……っ」

 玄関のドアを開け、一番に飛び込んできたのは母の怒鳴り声だった。

「夜分に失礼します」

「は、はぁ……」

 母も、優紀だけが玄関先にいると思い込んでいたのだろう。そこにいた総二郎の姿に、思わず言葉を失くす。

「こんな時間まで優紀さんを連れ回してしまって、本当に申し訳ありませんでした。お話をしていたら、楽しくて。つい時間を忘れてしまいました」

「い、いえ……」

 総二郎に見つめられ、母は首にかけていたタオルでわずかに顔を隠す。さすがに紳士だな、と優紀は改めて総二郎を見直してしまった。これを紳士と呼ぶべきか、定かではないが。

「今日は、優紀さんの結納だったとお聞きしました。そんなことは露知らず、お相手の男性にもさぞ嫌な思いをさせてしまったことでしょう」

「と、とんでもないです」

 半ば呆れるくらいの総二郎の紳士っぷりに、優紀は思わず頬を綻ばせた。
 結納だったと、知っていたからこそ優紀の手を取ったくせに。一体、どの口がそういうことを言えるのだろう。

「そ、その……。大した方でもなかった、ので。わ、私の方から、ちゃんとお詫びして、お断りしておきましたし……」

 母の口振りは、修に対して失礼な気もするが。母も、いっぱいいっぱいなのだろう。
 シドロモドロになる母を見ながら、やっぱり総二郎の笑顔は強烈なんだな、としみじみ優紀は思った。

「それは、すみませんでした」

 総二郎はそっと母に近寄り、その手を取る。

「お母さまにも、嫌な思いをさせてしまいましたね」

「ゆ……、ゆゆ、優紀ー!!」

「は、はい!」

 総二郎の後ろに隠れるようにして立っていた優紀の腕を、母は思い切り引っ張った。

「も、もう遅いんだから、早く寝るのよ! あんた、明日も仕事でしょう!?」

「う、うん」

 照れ隠しなのか、母はそう言って総二郎を見ないようにしている。玄関の明かりの下でも、母が真っ赤になっているのは手に取るようにわかった。

 母に手を引かれるまま、優紀は靴を脱いで家に上がる。
 総二郎に別れを言おうと振り向いた優紀の肩を、総二郎は徐に引き寄せて。

「お休み、優紀ちゃん」

 頬に、触れるだけのキスを落とした。

「それでは、僕はこれで失礼します。お休みなさい」

「お、お休みなさい……」

 ばたん、とドアが閉まるのを、母は呆然と見つめていて。
 それが明らかに総二郎に見惚れてのものだとわかって、優紀はため息を吐いた。

(……やりすぎです、西門さん)

 唇が触れた頬に、優紀は手を添える。誤解してくれ、と言わんばかりの総二郎の言動に、これからどうするべきか、と頭を悩ませた。

 総二郎のおかげもあり、優紀はあまり怒られずに済んだ。というよりも、母は完全に総二郎に心を奪われてしまったままで。声をかけても生返事だったのをいいことに、こっそりと自室に戻った。

 ちら、と壁にかかった時計に目をやる。時間が時間だが、まだ起きているだろう。
 優紀は総二郎に一言礼を言おうと、携帯を手に取る。

「……あ」

 そうして開いて、初めて携帯の電源を切っていたことを思い出した。
 電源を入れて、メールを問い合わせる。42通という恐ろしいくらいのメールの数に、優紀は少しばかりウンザリしながら、一つ一つ中身を確認していった。

「……」

 未開封のメールの差出人は、すべて『谷原修』となっており。どれほど心配をかけたのか、優紀はつくづく、修に申し訳ないことをしてしまった、と息を吐いた。

「あ、つくしからも来てる」

 時刻は、およそ1時間ほど前である。中身を確認し、思わず吹き出してしまった。

「つくしったら」

 くすくす笑いながら、優紀はつくしに電話をかける。コール音が鳴らないうちに、つくしは電話に出た。

『もしもし、優紀!? あんた、今どこで何してんの!?』

 総二郎と消えた優紀を心配した母は、つくしにも連絡を入れていたようだ。男と消えた、という事実だけを聞かされたつくしが、優紀をとても心配していたという様子はメールの本文からも窺えた。

「今、家に帰ってきたとこ。ごめんね、心配かけて」

『本当だよ! すっごい心配したんだからっ』

「ごめん」

 笑いながら、優紀は何度も謝罪した。思った以上に明るい優紀に、つくしも思わず安堵の息を吐く。

『優紀が無事なら、別にいいの。でも、本当に心配したんだよ?』

「うん、ごめん。つくしには、ちゃんと言っておくね。今まで、西門さんと一緒にいたの」

『え?』

 優紀の言葉に、明らかにつくしが動揺しているのが電話口でもわかった。

『ち、ちょっと待って、優紀。それって、どういう……?』

「それでね、あたし、やっぱり修さんとは結婚しない。どうしたって、あたしは西門さんが好きなんだもん」

『……』

 はっきりとそう言ってしまえる優紀を、つくしは羨ましく思ってしまう。つくしは、思っても口にはできないから。

「西門さんて、すごいの。あたしの気持ちを、ちゃんとわかってくれてて。西門さんは、やっぱりあたしのファンタジスタだったんだなって、改めて思っちゃった」

『ゆ、優紀……』

「あたしなら大丈夫。西門さんを好きだっていうこの気持ち、もう絶対に忘れたりしない。何があっても、この気持ちに変わりはないもの」

『……』

 総二郎と逃亡したことで、優紀は本来の想いを取り戻したようだ。よかれあしかれ、優紀は前を向いている。
 そのことが吉と出るか凶と出るか、今のつくしには皆目、検討もつかなかった。

 しばらくつくしと話したあとで、優紀は電話を切った。それから、総二郎へ電話をかけてみる。3度目のコールで、総二郎は電話に出てくれた。

「すみません、夜分に。まだ起きてました?」

『うん。夜は、割と遅い方だから』

 いつもと変わらぬ、総二郎の声色。思わず、ほっとする。

「さっきはありがとうございました。おかげさまで、怒られずに済みました」

『そう? それはよかった』

 総二郎の低い声が、耳元で響く。それが心地よくて、そのまま眠ってしまいそうだ。

『どうかした?』

「え?」

『電話。何かあったんじゃないの?』

「……」

 あくまで優しい、総二郎の声。ただ、お礼を言うためだけに電話した。
 それなのに、いつまでも声を聞いていたくなってしまって。なかなか、電話を切れない。

「声が、聞きたくて」

『え?』

 想いが、溢れ出してくる。

「西門さん。あたし、やっぱり西門さんのことが好きです」

『……』

 どうしたって、変わらない想い。総二郎のせいなのかおかげなのか、そのことに気付いてしまった。

『ありがとう、優紀ちゃん。俺も、優紀ちゃんのことが好きだよ』

「……」

 以前告白したときも、同じことを言われた気がする。本気の想いを、本気と受け取ってくれない。
 やはり、総二郎にとって、優紀はその程度の存在なのかもしれない。

『もう少しだけ、待っててくれないかな?』

「……え?」

 くぐもった総二郎の台詞に、優紀は自分の耳を疑った。

『俺も、まだ自信がないんだ。どうしていいか、わからない』

「自信って……。何の、ですか?」

 率直に、優紀は疑問を投げかける。

『優紀ちゃんを、本気で好きかどうか』

「――…」

 優紀は、言葉を失くした。総二郎が、自分のことを考えてくれている。軽い気持ちではなく、真剣に。

『恥ずかしい話だけど、優紀ちゃんの結納、本気で潰したかった。だからあの場から連れ出したし、温めてもらいたかった。これでもう、本当に優紀ちゃんが俺を追いかけることがなくなるんだって思ったら、すごく寂しいなって、そう思った』

「……」

 携帯を持つ手が、震え出す。総二郎に、まさか願ってもいない台詞を言ってもらえるなんて。

『だから、もう少しだけ待って。ちゃんと考えて、今度こそ真面目に返事をするから』

「……はい」

 自然と、優紀の目に涙が滲む。
 総二郎が真剣に考えて、それでも優紀との未来を考えられないと思ったのであれば、そのときこそ本当に諦められる気がした。
 そして今度こそ、優紀の想いが全部総二郎に伝わるように、と切に願うのだった。

◇ ◇ ◇


「どーいうつもり!?」

 ばん、と類とあきら、そして総二郎の座るテーブルに手を叩きつけながら、つくしは総二郎を睨んだ。

「何が? 随分と物騒だね、つくしチャン?」

「惚けないでよ!」

 つくしは、多少の睨みにも動じない総二郎の胸倉を掴んで、更に続ける。

「結納を打ち壊すなんて、一体何考えてんのよ!?」

「あ。優紀ちゃんから連絡もらった? わりと早かったな」

「気になって、あたしからしたのよっ!!」

 平然と言葉を返す総二郎に苛立って、つくしは声を荒げた。

「気になって?」

 総二郎は、きょとん、とした表情で首を傾げる。

「ゆ、結納って、どうなのかなって……、き、気になるもんでしょ!?」

 優紀の心が総二郎に捕らわれていたから、とは言えずに、つくしはそう答えた。
 ふーん、と総二郎はつくしに胸倉を掴まれたまま、あきらと類を見る。

「そういうもん?」

「俺に聞くなよ」

「そうなんじゃないの、牧野にとっては」

 一笑しながら、類は優しい目でつくしを見つめた。
 ドキンと胸が躍った瞬間、つくしは以前、類へ抱いていた恋心が蘇ってくるような錯覚に襲われる。このビー玉の瞳に映りたくて、非常階段に通っていた日々。どんなに冷たく突き放されても、それでもそばにいたくて。

「優紀ちゃん、何か言ってた?」

 類に見惚れていたつくしを現実へ引き戻したのは、総二郎のその言葉だった。
 はっとして、つくしは総二郎の胸倉を掴んでいた手を離す。

「西門さんは、やっぱりあたしのファンタジスタだった、って」

「ふぅん?」

「……」

 優紀にそう言われて、つくしは言葉を詰まらせた。
 電話越しでもわかるほど、優紀は満足していて。結納を壊されたことなんてどうでもいいことのような声色が、優紀が今、とても幸せなのだと物語っていた。

 でもそれは、決して想いが通じたわけではないと。彼氏の前で優紀を連れ去ったからといって、総二郎が優紀を好きなわけではないと自覚していることが、余計に優紀の切ない想いを強くさせて。
 だからこそ、無意味に優紀の気持ちを弄んでいるだけにしか見えない総二郎に、こんなにも腹が立ったのだ。

「優紀ちゃんがそう思ってんのに、何でお前はそんなにイラついてるわけ?」

「だ、だって、それは……!」

「牧野は、友達思いだからね」

 つくしの言葉に被せるように、類の言葉が降ってくる。

「総二郎に弄ばれてるように見えたんじゃないの?」

 まるで、つくしのことを全部わかっているとでも言いた気な表情で、類は優しくつくしを見やった。

 以前からそうだった。類は、つくしよりもつくしのことを理解しているように絶妙なタイミングで、つくしの心に入り込んでくる。つくしに何かあると、こうして優しくつくしを包み込むような視線を向けてくれていた。
 それは決して、嫌なものではなく。いつも、癒されて助けられていた。

 それなのに。つくしだけに向けられていたはずのこの優しい瞳は、もうすぐつくしだけのものではなくなる。いずれはそうなると、わかっていたはずだったのに。
 実際、そのときが近付いてくると。胸が、苦しくなって。

「お、おい。牧野……?」

「え?」

 ぎょっとした表情をしたのは、総二郎だけではなかった。つくしを見つめていた類とあきらも、総二郎と同じように目を丸くしていて。
 その表情の意味さえわからないほど、つくしは自分の頬を濡らす涙の存在にも気付けなかった。その代わりに、気付いてしまったのは。

 類の優しい瞳を自分だけに向けてほしいという、つくしの中の醜い独占欲だった。

「ヤ、だ……。あたしったら……」

 瞬間的に、つくしの頬が紅く染まる。牧野、と声をかけようとした類よりも先に立ち上がり、つくしは慌ててその場を駆け出した。

「ま……っ」

「今の、牧野先輩ですよね?」

 つくしを追いかけようと立ち上がった類の後ろから、そう声がした。

「何かあったんですか? 牧野先輩が泣くなんて」

 そこにいたのは、三条桜子であり。不安そうに、そこにいるF3を見つめている。

「いや、俺らにもわかんねぇんだよ。なんか、いきなり……」

「おい、類?」

 総二郎が説明を始めたそばから、類は足を動かし始めた。あきらの声に一瞬だけ立ち止まり、振り返ることなくまた歩みを進める。
 類の向かう場所は、おそらくあそこだろう。類と牧野が共有できるただ一つの空間である、高等部の非常階段。

「花沢さんも、無謀な恋をしてますよね」

 それまで類が座っていた椅子へ、桜子は腰かける。言わずとも、類が誰を見ているのか一目瞭然だ。

「お前が思うほど、無謀でもないんじゃないか?」

「え?」

 あきらの言葉に、桜子は目を丸くする。どういう意味ですか、と言われ、あきらは俯きながら答えた。

「俺も、確かなことは言えないけど。何となく、近いうちに類の想いは届く気がする。あくまで、気がするだけだけど」

 それは、これまでのつくしの言動から予想したことだ。
 芹香の存在を知ったときや、芹香と歩いている類を目撃したとき。本当にただの友達なら、何とも思わなかったはずである。
 それが、あんなに驚きを隠せなくて、落ち込んでいたつくし。つくしの気持ちが類に傾きかけているのは、間違いないと思う。

「それって、先輩が道明寺さんと別れて花沢さんと付き合うって、そういうことですか?」

「本人に聞いたわけじゃないから、何とも言えねぇけど」

「あの司が、今更牧野を手放すと思うか? 司が別れるとは、到底思えねぇな」

「それじゃ、二股じゃないですか!」

「そんな器用な真似、牧野にできるはずないだろ?」

 ふ、と笑んで、あきらは背凭れに身体を預けて空を見上げる。

「ただ、牧野の悩みの種はそれなんじゃねぇかなと思っただけだ。だからな、桜子」

「はい?」

 あきらは、まっすぐに桜子を見つめた。

「牧野のこと、支えてやってくんねぇか? あいつは、一人で全部背負い込むタイプだから。周りが、フォローしてやんねぇと」

「もちろんです」

 ばん、と胸を張り、桜子は立ち上がった。

「私にお任せ下さい。ちゃんと、様子を見ておきます」

「頼りにしてるぜ、桜子」

「はい!」

 桜子はあきらに笑顔を向け、パタパタと駆けて行った。