花より男子/シロツメクサ(6)


 シャワーから流れ出るお湯が、類の身体を濡らしていく。
 類に纏わりついているものをすべて、こうして洗い流せれば。それができれば、どんなに楽か知れない。

 はぁ、と深くため息を吐いて、類はシャワーを止めてバスルームを出る。
 バスローブに身を包んで自室に戻ると、携帯が点滅していた。確認しようとして伸ばした手を、思わず引っ込める。

「……」

 芹香は、必要以上に電話をかけてくる。それが、煩わしくて仕方がない。

 携帯を確認することもせず、類はそのままベッドに身を預けた。
 いつだったか、ずっと昔。外に出るのが面倒で、誰かと触れ合うことが億劫でしかなくて、家に引き籠もった。そのときと同じような気持ちが、今、類の中で動き出している。

 芹香に触れられることが、嫌で嫌で堪らない。纏わりついてくる腕を、自身のものと一緒に引きちぎってしまおうかと思ったほどだ。
 それくらい、芹香に触られることが嫌悪でしかない。

「……」

 徐に身体を起こし、類は躊躇いながら携帯を手に取った。着信履歴を確認するでもなく、メールを確認するわけでもない。ゆっくりと、アドレス帳を開いて。つくしの名前を選択したところで、手を止める。

 闇の世界から類を救い出したのは、静だった。ただの憧れを恋だと錯覚し、フランスまで追いかけて。
 想いに目を覚まし日本で生活を送るにつれ、類は一人の少女に惹かれていった。それがつくしである。

 通話ボタンを押せば、つくしに電話が繋がるのに。あと一つの動作が、どうしてもできなくて。

「……」

 今までは、何でもないことだった。つくしに電話をするなんて、気にしたこともなくできていた。
 今、それができないのは。類が、つくしを女として必要としているからかもしれない。それは、親友である司に対する裏切りでしかない。だから、電話をかけることができないのだろう。会いたく、なるから。会って、離したくなくなるから。

 悩んでいた類の携帯が、不意に音を響かせる。思いがけない着信者の名前に、類は少し戸惑い。軽く息を吐いてから、通話ボタンを押した。

「もしもし」

『類か? おまえ、何やってたんだよ? 何度も電話したってのに。携帯は、ちゃんと出てこその携帯だろうが』

「ごめん、シャワー浴びてたんだ。久しぶりだね、……司」

『おう』

 電話口から聞こえてくる相変わらずな親友の態度に、類は安堵の息を漏らすとともに。
 今度こそ本当に、つくしへの想いを絶たなければ。親友を、傷つけないために。そう、思わずにはいられなかった。

「どうしたの、急に?」

『ああ、ちょっとな。おまえに、言っときたいことがあって』

「……?」

 首にかけたタオルで頭を拭きながら、類は窓際に立って司の言葉を待った。一呼吸置いてから、司は口を開く。

『牧野の誕生日に、俺は……牧野に、プロポーズする』

「……そう」

 いよいよか、と類は思う。こうなることは、ずっと前からわかっていた。わかっていたのに、胸が締めつけられそうになる。司を裏切るつもりは更々ないけれど、会いたい気持ちが類を支配していく。

『いいよな、類?』

 そんな類の気持ちを知っているかのように、司はわざわざ類を試すような言い方をする。今更、どうこう言うつもりはないのに。

「どうして、俺に聞くの?」

 努めて冷静に、類は聞き返す。動揺を、表に出さないように。

『だめか? いや、だめっつってもするけどよ』

「じゃあ聞く必要ないじゃん」

 司の俺さま的発言に、類は苦笑した。
 承諾の返事しか受け入れるつもりはないのに、わざわざ聞いてくるなんて。司なりに、筋を通しているつもりなのだろう。

『類の許しが欲しいんだよ。おまえには、ちゃんと……祝福して欲しい』

「……」

 気持ちを、見透かされている気がした。付かず離れずそばにいたつくしへの淡い恋心を、司は知っている。だからこそ、類に念を押すように聞いてきたのだろう。

「祝福、するよ」

 深呼吸をして、類は口を開く。

「おめでとう、幸せにね。……牧野を、幸せにしてやって?」

『……ああ』

 偽善的な言葉を吐けた自分に、思わず感心した。

 司とつくしを祝福する。たとえ本意でなくとも、そうしなければならないのだ。今までだって、そうだった。
それが、親友の彼女から親友の婚約者に変わり。そうして、親友の妻になる。

『そう言ってくれて、助かった。おまえの一言で、随分と救われたよ』

「……それは、よかった」

 救われたのは、司であり。類は、沈んでいく一方だった。

 機械的な音が携帯から流れて、ようやく電話が切れていることに気付く。拳を握り締め、がんっ、と思い切り壁に打ちつける。そうして壁に寄り添うように身体を預け、自虐的に少しだけ口元を綻ばせた。

 どんどん離れていってしまう立ち位置に、それでも心の距離だけは決して離れてはいかない、と。そんな自信なんて、ありはしないのに。そうありたいと願ってしまう自分が、あまりにも滑稽で。それでも。

 絶対に叶わない夢だったとしても、生涯つくしのそばにいれたなら、と。類は、思わずにはいられなかった。



「……情けねぇ」

 切ったばかりの携帯を、司はソファに投げ捨てる。あんなのは、類を信用していないと言ったも同然だ。それなのに、類は。

 ――おめでとう。幸せにね。

 類なりの、精一杯の想いだったと思う。言われなくたって、類は祝福してくれただろう。

「類、悪ぃ……」

 はー、と息を吐き出して、司は机上にばら撒かれた写真の1枚を手に取った。

 類と、そして幸せそうに微笑んでいるつくし。この二人の幸せの芽を、司は摘み取ろうとしている。
 ぎり、と司が歯を噛み締めた、その刹那。

「つっかさ?♪」

「……滋!?」

 バタン、と勢いよくドアを開けながら、浮かれた声で滋が姿を現した。
 ぎょっとして、司は手に持っていた写真も合わせて、慌てて封筒の中に入れる。

「ん? 写真? 何の?」

「関係ねぇだろ」

 ひょい、と滋が司の肩越しに様子を窺った滋に素気なく背を向けて、司はベッドに身体を預けた。
 んー、と考える仕草をしたあと、滋は、よし、と気合を入れて司の上に飛び乗る。

「こ、こら、サルっ。降りろ!」

「ヤーだよ?ん」

「ば、馬鹿、滋っ。やめろって……!!」

 司に馬乗りしたまま、滋は司の脇腹をくすぐり始めた。
 滋に組み敷かれながらも司は身動ぎするが、くすぐられているためか身体に力が入らない。

「さ、サルっ。いい加減にしないと、マジで怒るぞ!?」

「じゃ、お願い聞いてくれる?」

「お願いィ?」

「うん♪」

 滋はくすぐるのをやめて、あどけない表情で司を見つめた。

「ニッシーの誕生パーティって、パートナー同伴なんでしょ? それに、あたしを連れてってよ♪」

「ぁあ!? 何で俺さまが……」

 その発言に、司は思い切り不機嫌な顔付きになる。ムッとして、滋はまた司の脇腹に手をやった。

「いいじゃん、司?ぁ」

「わ、わかった! わかったから、くすぐるのはよせっ」

「やった♪」

 司の言葉に、滋はくすぐる手を止めた。浮かれた様子で、ベッドから降りる。

「約束したからね、司? 絶対だよ♪」

「……」

 楽しそうな表情の下は、どこかしら寂しげな気がして。声をかけようと思ったが、やめた。

「じゃあね、司。また来るね」

 バイバイ、と手を振りながら、滋は部屋を出て行った。嵐のような騒がしさに、ふ、と司の口元が緩む。

 滋は、ニューヨークの司の家によく出入りをしていた。楓がそれを許可していたため、使用人達も滋に関しては誰も止めもしなかった。
 楓にしてみれば、滋と上手くいけばと思ってのことだろう。確かに日本にいた頃よりも、滋との距離はずっと縮まっている気がする。
 だが。

「……」

 机の上に置かれた封筒に、司は視線を移した。

 ニューヨークにいる司のそばに滋がいるように、日本にいるつくしのそばには類がいる。
 つくしは無防備だから、いつだって司を心配させる。類がそういうつもりでそばにいるわけではないにしても、無防備なつくしの前でいつ理性が飛ぶかなんてわからない。

 遠く離れたこの土地で、司はただひたすら、つくしと類を信じていることしかできないのである。

◇ ◇ ◇


 それは、3度目の情事が終わったときだったと思う。
 求められるがままに身体を重ね、ふと冷静さを取り戻して急に恥ずかしくなってしまった。フローリングの床に散乱した、今まで自分が身に着けていた衣服。それを見る度に、優紀は自分の犯した罪を見せつけられている気分になった。

 徐にベッドから抜け出そうとすれば、同じベッドの中から長い手が伸びてきて抜け出させてもらえない。そうしてまた、総二郎の腕の中に閉じ込められてしまうのだ。

「に、西門さん。あたし、そろそろ帰らないと……」

「ん」

 総二郎の腕の中で顔を上げれば、そこにキスが落ちてくる。そのまま抱き竦められて、結局元通りになってしまった。

「西門さん」

「……うん」

 閉じられていた総二郎の瞳が、ゆっくりと開かれる。そうしてしばらく見つめられ、総二郎はまた優紀を抱き締める腕に力を入れた。

「全然、温かくならないんだ。まだまだ、全然足りない」

「……」

 その原因がきっと優紀にあるのだろうことは、容易に想像できた。総二郎が、本気で優紀を好きなわけではないから。だから何度身体を重ねても、心が満たされない。温かくはならないのだろう。
 これ以上、優紀にはどうすることもできない。

「ごめんなさい。お役に立てなくて」

 そっと、優紀は総二郎の頬に手を添える。優紀が、もっと魅力のある女性だったら。もしかしたら、総二郎は優紀を本気で好きになってくれたかもしれない。今頃は何の心配もせず、二人でいられたかもしれない。

「優紀ちゃんが謝ることなんて、何もないよ。悪いのは、俺だから」

 優紀を抱き竦めていた腕を外し、総二郎は仰向けに転がる。片腕は優紀の下に置いたままで、天井を仰いだ。

「ごめん。せっかくの結納だったのに」

「……西門さん」

 総二郎の横顔が、何故かとても切なくて。優紀は、胸が締めつけられそうになる。

「西門さんこそ、謝らないで下さい。あたし、本当に感謝してるんです。あのまま流されるように、修さん……、彼と結婚して、平凡な生活を送るはずでした。でも、それじゃだめなんですよね」

 言いながら微笑む優紀は、どこか吹っ切れているようで。その表情に、総二郎も安堵の息を漏らした。

「あのとき、西門さんがちゃんと教えてくれたのに。あたし、また間違うところでした。だから、本当にありがとうございました」

「……うん」

 ――次は、間違わないよ。

 あのとき、総二郎はそう教えてくれた。今回もまた、優紀が間違わないように、ちゃんと正しい道を教えてくれたのである。よかれあしかれ。

「優紀ちゃん、ごめん」

 ゴロン、と総二郎は身体の向きを変え、また優紀を抱き締める形になる。

「もう1回、いい?」

「……はい」

 ふ、と口元を綻ばし、優紀は満面に笑みを浮かべたのだった。



「優紀ちゃん」

「……ん」

「着いたよ」

 しょぼしょぼと目を開ければ、そこは車の中であり。あれ、と首を傾げれば、総二郎の唇が額に寄せられた。一気に、優紀の目が覚める。

「ヤだ。あたし、寝ちゃったんですね」

 かぁ、と頬を赤らめて、優紀は俯く。

「相当無理させちゃったからね。疲れたんだよ」

 優しく微笑む総二郎の表情に、優紀は先ほどまでの熱い情事を思い出して赤面してしまった。
 時刻は、もう間もなく日付が変わろうとしている頃。さすがにこれ以上は無理だろう、と時間ギリギリまで触れ合ってから車に乗り込んだのを思い出す。

「す、すみません。あ、あの……。送ってもらって、どうもありがとうございました」

 慌てふためきながらも軽く頭を下げて、優紀は車から降りる。かしゃん、と玄関の門を開けると、ばたん、と車のドアの閉まる音がして。振り向けば、総二郎が真後ろに立っていた。

「時間が時間だしね。あいさつするよ」

 腕時計を確認しながら、総二郎がそう言う。

「い、いいです、しなくて」

「そういうわけにはいかないよ」

 思い切り首を振りながら、優紀は断る。だがそれを、穏やかに制されてしまった。

「彼氏の前で、優紀ちゃんを攫ってったわけだし。一緒に怒られてあげるよ」

「西門さん……」

 きゅぅ、と胸が締めつけられそうに苦しくなった。

 おいでと囁かれ、差し出された手を取って結納をすっぽかした。それから温めてと言われて、言われるままに何度も身体を重ねた。
 それはすべて、強制されたものではなく。優紀が決断した結果なのだ。

「そんなこと、したら……。誤解されちゃいますよ、あたしの親に」

 俯いて、優紀は唇を噛む。これ以上、求めてはいけない。総二郎は、優紀の心が修に向いていないことを見抜いて、あの場から抜け出す手伝いをしてくれただけなのだ。決して、優紀を好きなわけではない。

「誤解?」

「……」

 そう自分に言い聞かせて、優紀は深々と総二郎に一礼して背を向ける。そんな優紀の背中に、総二郎の言葉が投げられた。

「誤解じゃ、ないんじゃないかな。あの男に優紀ちゃんを持ってかれたくなかったってのは、俺の本心だから」

「……え?」

 玄関のノブに置かれた優紀の手が止まり、思わず振り返る。

「それが恋愛感情かどうかって聞かれたら、困るんだけどさ。何でだろうね? あのまま優紀ちゃんの結納を見過ごしたら、絶対に後悔するって思ったんだよね」

「……」

 どうしてかな、とにっこり微笑む総二郎は、やはりずるいと思う。その笑顔にどれだけ優紀が癒されているか、総二郎は気付いているのだろうか。あっさりと言って退ける総二郎の言葉に、どれほどの威力があるか。

 恋愛感情がなくても構わない。それでもそばでこの笑顔を見ていられるのなら、一番でなくてもいい。たとえ愛人としてでしかそばにいられなかったとしても、総二郎のそばにいたい。
 改めて、優紀の中の総二郎への淡い恋心に火が点いてしまったのだった。